優しい夜明けに君の名を

 コルネリア・ハイドフェルトにとって。

 誰かに触れられるということは、そのまま「熱」と「痛み」を意味していた。圧倒的な力によって蹂躙されるのが当然だった。

「コルネリア」

 一つ、名前を呼ばれるたびに、体の傷が増えていく。体の中に熱した楔が打ち込まれる。その間、コルネリアは何もかもを手放して、嵐が過ぎ去るのを待つ。

「コルネリア」

 誰のものかも定かでない名前を耳にしながら、一方的に浴びせかけられる暴力と欲望を、空っぽの自分で受け止めるだけの行為。

 ――何もかもが、そういうものだと、思っていた。

 

 

          *     *     *

 

 

 いつの間にか、嵐は止んでいた。

 重たい瞼を持ち上げてみれば、部屋に唯一開いた窓から差し込む霧明かりは明るく、とうに朝と呼べる時刻を過ぎているとわかる。

 眠っていたのだ。今の今まで。あれだけ十分に眠れない日々を過ごしていたというのに――今だけは、悪い夢すらも見ずに、深く、深く、眠っていたのだと気づく。

 体は重たいが、それも決して不愉快な重さではなかった。もう一度目を閉じれば、きっと安らかに眠れるに違いない。そういう、柔らかな倦怠感。

 どうして、こんな感覚を味わっているのだろう。頭は、未だ現実を正しく認識してくれない。そんな時、ふと、呼気が微かに掠めた気配と共に、静かな声が降ってきた。

「おはようございます、コルネリア」

 コルネリア。今までは、自分のものともいえなかった、名前。

 その名前が、初めて自分の中にすとんと落ちる感覚と共に、視線を上げる。視界に入るのは、霧に煙るような色をした髭と前髪、その間からこちらを見下ろす、眩しそうに細められた淡い色の双眸。

 その、不思議な色の瞳に見つめられた瞬間、ぼんやりとしていた魂魄が覚醒し、昨夜のことがまざまざと思い出されて、つい、頬がかっと熱くなる。

 気が弱っていた。それは事実だ。一人では眠れなかった。それも事実だ。ただ、それを理由に船長に望んだことを思い出すと、気恥ずかしさを覚えずにはいられない。それでも、何とか己の感情を押し殺して、かけられた声に応える。

「おはよう、船長」

 昨夜。嵐の中、頼りなく揺れる船の上で、船長は確かにコルネリアの望みに応えたのだ。コルネリアの脳裏に閃くそれが夢などではない、という証拠に、船長の枯れ枝のような指はコルネリアの指と絡み合い、コルネリアより遥かに低い体温が、今もなおコルネリアに寄り添っている。

 その上で、船長は何事もなかったかのように語りかけてくるのだ。

「お疲れでしょう。そのままで構いませんよ。どこか、痛みますか?」

 船長の声はどこまでも柔らかく、コルネリアを慈しむ響きに満ちていた。普段の狂気じみたそれとはまるで違う声色は、しかし不思議と「船長らしい」ものだと思えた。これもまた、妄想に溺れている時とは違う、船長の一つの側面なのだと。

「いいえ。大丈夫よ。……痛みなんて、なかった」

 想像していたような苦痛は何一つ与えられず、ただ、ふわふわと霧の上に浮かぶような感覚と、熱というにはあまりにも穏やかな温もりだけがこの体に残っている。だからこそ、コルネリアは船長の手を握り締めて、うっすらと傷痕の残る肩を震わせるのだ。

「痛くない。苦しくもない。だけど……、ううん、だから、怖かった」

 船長は応えない。けれど、コルネリアの言葉を理解できなかった、というわけではなかったようだ。ただでさえ眩しそうな目が更に細められて、微かに、前髪の間から覗く眉がどこか悲しげに下げられたのが見えたから。

「ごめんなさい。あなたは悪くないの」

「しかし」

「あなたは悪くない。わたしが、知らなかっただけ。痛みも苦しみもない夜を、知らなかっただけなの」

 知らないということは、恐ろしいことなのだ。それが、どれだけ優しさに満ちたものであったとしても。

 コルネリア、と。もう一度、船長はコルネリアの名を呼ぶ。今まではただただ空虚なばかりだった名前が、やっと、ずっと欠けていた魂魄のどこかに、ぴったりと嵌りこむような。そんな心地がしたのだ。

 だからだろうか。

「……それね。本当は、ママの名前なの」

 ほとんど意識せず、その言葉が唇から零れ落ちたのは。

 果たして船長はその言葉に驚いたのだろう。少しだけ息を詰めるような気配と共に、一つ、問いを投げかけてくる。

「それでは、あなたの名前は――」

「わたしに名前なんてないわ。わたしは……、わたしは、パパにとって、ママの代わりでしかなかったから」

 そう、コルネリア・ハイドフェルトに自分を示す「名前」などない。

 それでいて、コルネリア・ハイドフェルトはコルネリア・ハイドフェルトでしかない。母であったという、顔も知らない誰かの代わり。

「わたしが物心ついた頃には、ママはとっくに死んじゃってたみたい。……いつ死んだのかは知らない。わたし、ママ、ってのもののことも、よく知らなかったから」

 本当に。本当に、コルネリアは何も知らなかったのだ。自分が誰から生まれたのか。どのようにして育ったのか。何のために、育てられていたのか。

 こんな話を船長にすることに、どれだけの意味があるのか、コルネリアには判断できない。それでも、今の船長には話していいと思った。妄想に覆い隠した遥か遠くではなく、冷たい腕でコルネリアの細い腰を抱き、こちらを真っ直ぐに見つめてくれている船長には。

「いつからか、パパの目には、わたしがママと同じものに見えてたみたい。パパがいなくなってから、パパは頭がおかしくなってたって言われて、パパがわたしにしてきたことがおかしなことだったんだ、って初めてわかったの」

 コルネリアにとっては父の言葉が、行動が全てであって、それが無くなって初めて、それら全てが本来ならば「あってはならない」ことだと伝えられた。伝えられたからといって、コルネリアの中で何が変わるわけでもなかったけれど。

 今更変わりようもなかった。コルネリアにとっての世界は、父とその周りから受け取るものが全てであったから。その「全て」が急に失われて、赤の他人から否定された、ただそれだけの話。

 良し悪しについて、コルネリアは何を言うこともできない。理性的に考えれば父は狂っていて、間違っていたのだろう。この体に刻まれた傷だって、それが「正しくない」ことをまざまざと示している。

 それでも。それでも――。

 言葉を続けようとしたコルネリアの唇に、冷たいものが触れる。それが船長の唇だと気づくまでに、一呼吸が必要だった。

 口付けは、ほんの一瞬だった。すぐに顔を離した船長は、髭に覆われた口元を微かに歪めてみせる。

「それ以上はよしましょう、……コルネリア」

 一瞬その名前を呼ぶのを躊躇ったのは、船長が「コルネリア」という名前をどう捉えていいかわからなくなったから、だろうか。もしもそうであったならば、素直に嬉しいと思う。船長は、本当にコルネリアの心を慮ろうとしている。それがどれだけ見当違いであろうとも。決してお互いにお互いを理解できないとわかっていながら、それでも「近づこう」と努力してくれているのだとわかっただけで、十分すぎた。

「コルネリアって呼んで。ここには、パパもママもいない。わたしとあなた、二人ぼっちだもの。――だから、船長、あなたには『わたし』の名前を呼んでほしいの。わたしのことを、わたしの名前で呼んで」

 コルネリア・ハイドフェルトは誰でもない。それは間違いない。

 けれど、今この瞬間は、船長の目を通して、船長の声で呼ばれる「コルネリア」という名前を通して、ここにいる自分を確かめることは、できる。

 船長はじっとコルネリアを見下ろしていた。そこに、哀れみや同情の色が少しでも見えていたら、コルネリアもここで全てを割り切ることができただろう。

 けれど――船長は、コルネリアの想像に反して、凪いだ海を思わせる穏やかさで、ほんの少しだけ笑うのだ。

「お望みのままに、コルネリア」

 その言葉を引鉄に、コルネリアは結ばれていた手を一旦離し、船長の体に腕を回す。船長の体はコルネリアからするととても大きくて、酷く冷たい。それでも、かろうじて人の温度をしていて、胸に耳を押し付ければ確かな鼓動を刻んでいるのがわかる。

 船長はきっと、コルネリアの「役目」に勘付いているだろうし、コルネリアの今までの言葉が孕んだ矛盾にだって、気づいているはずだ。それでも、今この瞬間、船長はコルネリアの告白に何も口を挟まなかった。

 本当ならば、船長が何を考えているのかを問い詰め、解き明かすべきなのだと思う。コルネリアは、船長について知らなければならないのだ。船長が何を考えて、コルネリアの望みを叶え続けているのか、何もかも、何もかも。

 ただ、それは今でなくてもいいと思う。矛盾があろうと、歪んでいようと。今ここにいるコルネリアをそのまま受け止めて、その名を呼んでくれた船長に伝えるべき言葉は、ただ一つだった。

「ありがとう、船長」

 ――「わたし」を受け止めてくれて、ありがとう。

 口からこぼれた言葉の意味が、正しく船長に伝わったのか、コルネリアにはわからない。しかし、今の今まで細められていたその目が見開かれて、コルネリアを見下ろす。そんな顔をしてくれただけでも、コルネリアは温かな気持ちになる。

 しばし、その場に硬直していた船長は、やがてわざとらしく視線を切って早口に言う。

「気が利かずに申し訳ありません。温かなお茶とお食事をご用意しましょう」

 もしかすると、この男にも「気恥ずかしい」と思うだけの心があったのだろうか。丁寧にコルネリアの腕をはがして、身を起こそうとする。

 だから、コルネリアは。

「ねえ、船長」

 離れかけた大きな手に、改めて指を絡める。その人らしくもない体温を、船長の存在を改めて確かめる。

「もう少しだけ、こうしていてくれる?」

 ゆっくりと振り向いた船長は、一呼吸の後に――、髭に覆われた口元をはっきりと笑みの形にした。

「ええ、もちろん、コルネリアの望みのままに」

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