二度目の嵐の夜

 霧上に浮かぶ幽霊船は、強い風に煽られて、木の葉のように頼りなく揺れる。夕食を共にしながら、窓を叩く雨を眺めていた船長は、「大丈夫ですよ、この船は幾度もの嵐を乗り越えてきたのですから」と胸を張って笑ってみせた。

 けれど、夜が更けるにつれて更に強さを増す雨と風に、コルネリアは部屋の寝台の中で、身を縮ませるばかり。

 嵐は、嫌でも思い出させてしまう。全ての始まりを。選択をしたその日を。船を包む轟音の中から、音もなく迫ってきている「終わり」を。

 ゆっくりと起き上がったコルネリアは、寝台から降りて、靴を履いて部屋を出た。激しい雨が体を濡らしていくのにも構わず、ぐらぐら揺れる足元を踏み外さないように、風に飛ばされないように、手すりを掴みながら、一歩ずつ歩いていく。

 目的地は、もちろん、船長がいるであろう船長室だ。

 ノックをするまでもなく、不思議と、コルネリアの気配に気づいたらしい船長が、扉を開ける。船長は、どうも湯を浴びた直後だったらしく、髪と髭はまだ湿っていて、微かに石鹸の香りがした。

「おや、こんな嵐の夜に何の御用ですか、フロイライン? 寒かったでしょう、今何か拭くものをお貸ししましょう。そうそう、暗く長い夜を越えるのは、深い眠りが一番です。もしご所望でしたら、私が子守唄代わりに何か昔の話を……」

「一緒に、寝てもいいかしら」

 船長の口上を遮って、コルネリアは言葉を放つ。船長は少しばかり呆気にとられたようだったが、すぐにくつくつと抑えた笑いを漏らす。

「男が一人とうら若き女性が一人、同じ寝台を共にするとなれば、どのようなあやまちが起こっても仕方ありませんよ、フロイライン」

 愉快そうな声ではあったが、そこには、コルネリアをたしなめるような響きが混ざっていた。この男は、頭の螺子がとことんゆるんでいながら、案外、人並みの倫理観は備わっているのかもしれない。

 ――それでも。

「そのために、来たの」

「……今、なんと?」

「一緒に寝てほしいの、船長。わたし一人では、眠れないから」

 コルネリア自身も意識していなかったが、唇から放たれた声は、微かに震えていた。

 それが単なる言葉通りの意味でなく、船長の言う「あやまち」を含んでいることを、コルネリアは船長の冷たい手に己の指先を絡めることで暗に伝える。

 船長は、そんなコルネリアをしばし無言で見下ろしていたが、やがて、コルネリアを促すようにそっと肩を押して、部屋の中に招き入れた。

 足元に落ちた海図を踏みしめ、コルネリアは改めて船長室を見渡す。壁いっぱいに張り巡らされた架空の旅路を描いた海図は、いつ見ても落ち着かない気分になる。果たして、この男が本当はどのような旅を経て幽霊船の主となったのか、海図からは決して読み取れない。

 船長は後ろ手に扉を閉めて、大げさな靴音を立てながら、部屋の奥に置かれた寝台へとコルネリアを導く。海図や本があちこちに散らばる雑多な部屋の中で、寝台の上だけは綺麗に整えられていた。

「どうぞ、フロイライン」

 恭しく頭を垂れる船長を前に、コルネリアは、少しだけ躊躇いを覚えた。自分は、何か取り返しのつかないことをしようとしているのではないか、と。

 ――今更。取り返しがつかないのは、最初からだわ。

 己の心に湧いた、一抹の弱気を笑い飛ばして、靴を脱いで寝台に横たわる。船長も、机の上に置いてあったランプを持ってきて、寝台の横に置きなおした。光を抑えた柔らかな薄闇の中、こちらを見下ろす船長の顔は、いつになく落ち着いて見えた。

 船長は、コルネリアの前では決して外さなかった丸眼鏡を外して、ランプの横に置く。そして、「失礼」と断ってコルネリアのすぐ側に横たわる。一つの枕を共にすることで、船長の顔がコルネリアの目の前に晒される。普段は、長い前髪と眼鏡とでほとんど隠されていた、それが。

「……あなたの素顔、初めて見た」

 柔らかな光に揺れる船長の目は、酷く淡い色をしていた。光の加減によっては、ほとんど白目と変わらない色合いにも見える、褪せた、緑みの青。眩しそうに細められたその目が一つ瞬く。

「特筆すべき顔でもないでしょう」

「そうね」

 正直にコルネリアは頷いた。酷く痩せている、という点を差し引いて見てみるならば、綺麗な顔をしているわけでもなければ、特別醜いわけでもない。特徴らしい特徴がない、とでもいえばいいのか。もしかすると、髭を剃って髪を整えればもう少し印象は違ったのかもしれないが、そこまでは、コルネリアには判断できない。

 そんな船長の目を、真っ直ぐに見つめながら。コルネリアは、素直な感想を言葉にする。

「まるで、今にも消えてしまいそうな、色をしてる」

「それはそうですよ」

 ――私は、亡霊ですからね。

 この期に及んで、まだ人間であることを認めようとしない船長は、コルネリアが反論の言葉を並べ立てるよりも先に、髭に覆われた唇を開く。

「あなたは、お美しいですよ、フロイライン」

「あなただって、見たことがあるでしょう。わたしは、あなたが言うほど綺麗なものじゃない」

 コルネリアは、寝間着の前をはだけてみせる。白い肌の上には、いくつもの傷痕が生々しく刻まれている。その傷は、肩や胸だけではない。腹にも、その下にだって刻まれているのだ。

 コルネリア。そう名を呼ぶ男の声が、頭に響く。終わりがないと思われた、痛みの記憶。赤い部屋、その真ん中に立つ白いもの。いくつもの記憶が閃いては、消える。つい、唇を噛んでみせたその時、

「お美しいですよ、フロイライン」

 船長は、うっすらと笑みすら浮かべながら、先ほどよりもゆっくりと、同じ言葉を繰り返す。

 ――美しい。

 そんな言葉、陸の上では一度もかけられたことがなかった。かけられない理由だって、わかりきっていた。だから、コルネリアは眉を寄せて、船長の頬を両手で挟んで、そのぼんやりとした視線を無理やりにこちらに向けさせる。

「……っ、あなたには、本当にわたしが見えているの?」

 見えていれば、そんな言葉が出るはずもないのだ。船長は、こうして肌の触れる位置にいる今もなお、どこか別の場所を見ているに違いない。

 しかし。

「見えていますよ。古に伝わる黄金の川を思わせる、夜闇にもなお輝いて見える髪も。時折うっすらと色を変える、遥か遠い夢の色をした瞳も。白磁のような肌の上に走る、幾重にも重ねられた傷痕も」

 そんなコルネリアの想像は、船長の言葉によって裏切られることになる。船長は、淡い色の瞳にコルネリアを映しこみ、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、一言、一言をはっきりと発音する。

「あなたが信じないのであれば、あなたは美しく魅力的な女性であると、何度でも言いましょう。その傷とて、あなたが経験した辛苦を考えさせられることこそあれ、魅力を損ねる理由にはなりません」

 魅力を損ねると言った者がいるとすれば、その者の目こそ節穴なのでしょう、と。船長は笑みすら浮かべて言い切った。

 これには、コルネリアの方が何故か気恥ずかしさと共に頬が熱くなるのに気づいてしまって、船長の顔に添えていた手を放して、視線を逸らす。とはいえ、ただただ言いくるめられてしまうのはどうにも悔しくて、何とか唇を開いてみせる。

「あなた、陸の上では相当の女たらしだったでしょう」

「おや、そう見えますか? 何しろこの通り、貧相な姿形でありましたがゆえに、浮いた話にはとんと疎い人生を送ったものですよ」

 くつくつと、船長のおかしそうな笑い声が響く。このまま話を続けていれば、船長のペースに乗せられるばかりだ。コルネリアは、頬を膨らませながらも、一旦言葉を切ることにした。

 船長は、コルネリアに遠慮してか、さほど広いといえない寝台の端に引っかかるように横たわっている。元々コルネリアよりずっと大きい――どちらかといえば縦に長い体をしているだけに、どうにも窮屈そうだ。

 だから、コルネリアはそっと、囁く。

「もう少し、こっちに来て」

「よろしいのですか?」

「あなたの温度が知りたいの。この前言っていたでしょう、熱が通ってないって」

「それはそれは、物好きなお方ですね」

 言いながらも、船長はコルネリアの率直な物言いに不快を覚えたわけではなかったらしい。おどけた調子で「あなたのお望みのままに」と言って、身をよじってコルネリアに近づく。コルネリアは、そんな船長の体に身を寄せた。

 確かに、服越しに伝わってくる温度はいやに低い。ただ――想像していたよりはずっと、温かかった。

「……十分、人間の温度だと思うけど」

「ええ、人間のふりは得意ですから」

 相変わらず、船長の言葉は要領を得ない。が、今この場で、それをことさら否定する気にはなれなかった。

 今まではほとんど意地のような反発を持って彼を人間であると言い張っていたが、多分、それをこの男は望んでいないのだ。望んでいないものを暴き立てても、それはただの自己満足だと、船長の温度を確かめながら思う。

 だから、コルネリアは少しだけ身を丸めて船長の胸に耳を押し当て、微かに奏でられている心音を確かめる。全身に血を通わせる、生きた者の音色だ。船長は生きている。今、ここで。その事実だけで、十分だ。

 船長は、そんなコルネリアの背中に長く引き締まった腕を回し、手の平でとんとんと優しく叩き始める。眠れない、小さな子供にするように。

 それとも、この男の目には、コルネリアが小さな子供に見えているのだろうか。見上げてみても、船長の螺子の足らない微笑から、真意を確かめることはできそうになかった。

 ただ、真意はわからなくとも――船長が、酷くやつれているということだけは、わかる。果たして最初からそうだったのかはわからないが、湿った前髪の間から覗く目は、瞳の色こそ淡く透き通った色をしているが、その周りには深い隈が刻まれ、顔色も酷く悪い。時折、呼吸すらも乱れているようで、コルネリアの方が不安になってくる。

「あなた、きちんと眠れているの?」

 コルネリアの問いかけに、船長は痩せこけた頬を持ち上げて、笑みを深めて応える。

「私は眠らなくても問題のない身ですから。何しろ」

「『幽霊ですから』?」

「そういうことです」

「嘘つき」

 暴かなくてもいい、と思いながらも、つい、頬を膨らませて言わずにはいられなかった。船長は、そんなコルネリアの背中を、ぽんぽんと叩いてみせる。

「嘘ではありませんよ、フロイライン。この船は、嵐に堪えることはできますが、その一方で酷く不安定な存在です。あなたもご存知でしょう、幽霊とは、一時的にこの世に焼きついているに過ぎない、儚い存在です」

 コルネリアがこうして腕の中にいるからだろうか、船長の声はいつもの張りのあるものではなく、空気に溶けて行くような、柔らかなもので。

「ですから、私が、常にこの船はここにある、と認識していなければ、すぐ、ばらばらに崩れて霧の海の底に沈んでしまうのです。そんなことになってしまったら、困るのはあなたですよ」

 そんな妄想じみた言葉も、するりと、コルネリアの耳の奥深くにもぐりこんでくる。

 嘘つき、と。もう一度口の中で呟いて、コルネリアは船長の体に体重を預ける。どれだけ船長が人間離れした存在であろうとも、一睡もせずに過ごすのは不可能だ。今まで――船長がここの主になってから、どれだけの時間が経っているかはわからないが、とにかくそれだけの間、眠らずに過ごしていたことなどあり得ない。

 ただし、その中に、一抹の真実が混ざっていないとも、限らないのだ。

 その憔悴しきった顔は、彼もまた、長い間まともに眠れていないのだと、言葉よりも雄弁に物語っていた。

「……眠ってしまえばいいのに」

「今、何と?」

「眠ってしまえばいい。沈めてしまえばいいのよ。わたしも、あなたも、一緒に。そうすれば、きっと楽になれるわ。わたしはそれでもいい、だって」

 言いさしたコルネリアの唇に、船長の指が触れる。すぐ目の前にある船長の顔は、酷く困っているようで、それでいて何もかもを見透かしているような目でコルネリアを見つめていた。

 ――この男は。

 コルネリアは、ずっと曖昧なままにしておいた、曖昧のままでいいと思い込んでいた認識を、改めざるを得なかった。

 ――この男は、わたしがここにいる理由に、気づいている?

 しかし、船長はコルネリアの疑問への答えを示すことはなく、コルネリアが一緒に寝たいと言い出した時と同じ、ちいさな子供を優しく叱るような語調で言う。

「そういうことを言葉にするものではありませんよ、フロイライン。それに、私は、まだ眠るわけにはいかないのです」

「どうして?」

「眠れない。……眠れないのです。たった一つの未練が、私を眠らせてくれない」

 ぼそり、と。彼らしくもない早口で告げた船長は、しかしコルネリアが疑問の声を上げるよりも先に笑顔を取り繕って、コルネリアを見下ろす。

「フロイライン、あなたこそ顔色が悪いですよ。眠れているのですか?」

 いいえ、と。コルネリアは首を横に振る。

「だから、わたしと一緒に寝て欲しいの。あなたと一緒なら、眠れる気がするから」

 そして、船長の体を抱きしめる。冷たい体をした幽霊は、戸惑いを露にしながらも、コルネリアの体に腕を絡め返した。そして、低く、けれど穏やかな声で囁いた。

「望みのままに、フロイライン」

「『お嬢さん』じゃなくて、名前で呼んで」

「しかし、私は、あなたの名前を伺っておりません」

「コルネリアよ。コルネリア・ハイドフェルト」

 一拍置いて、コルネリア、と。名前を呼ぶ掠れた声。その声の優しさに、不意に泣きたくなる。そんな風に名前を呼ばれたことなど、一度もなかったから。

 船長はゆるりと手を伸ばして、コルネリアの頬に触れる。その、酷く淡い霧明かりの目は、コルネリアを真っ直ぐ見ているようで、コルネリアの目を通して、遥か遠い場所を見ているようにも見えた。遠い日の物語を語るとき、彼が見せる横顔と、同じ。

 それでも、船長は今ここにいる。冷えきった手で、コルネリアの頬に触れている。

「……コルネリア、きっと、後悔しますよ」

「後悔なんて、とっくに終わっているわ」

 そっと。

 渇いてひび割れた唇に、口づけを落とした。

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