お手伝いを望む

 それから、まるで何事もなかったかのように夜がやってきて、その夜も過ぎ去り、窓の外に広がる霧の海が少しずつ明るさを帯びてきた頃。

 コルネリアは、寝台からぱっと身を起こした。

 夜の間まともに眠れないのはいつものことで、安らかに眠る方法については、ここに来て数日で考えることをやめていた。

 故に、今のコルネリアの魂魄を支配していたのは、もっぱら船長の存在だった。気配もなく現れて、コルネリアの窮地を救ってみせた船長。コルネリアが苦しむ顔を見たくないと言った船長。傷を負ったことにまるで気づいていなかった、船長。

『お気になさらず、フロイライン』

 あなたは何も悪くありませんよ、と。怪我を心配するコルネリアに、船長はあくまで朗らかに言ったのだった。

 コルネリアの不用意な行動で船長が傷を負った、ということを気にしていないといえば嘘になる。ただ、それよりも何よりも、コルネリアは単純に船長が心配だったのだ。この胸を支配するもやもやとした感情の正体が「心配」であると気づくまでに、一晩かかったわけだが。

 コルネリアを幽霊船に捕らえていると言うべき船長の身を案じるなど、どうかしているとも思う。ただ、その一方で、この船に流れ着いてから、船長から与えられてきたもの全てが嘘であるとは断じられなくなってきていた。

 ――あなたの、お望みのままに。

 船長が、度々コルネリアに投げかけてくる文句を思い出す。「望み」。これまで、その言葉はコルネリアを散々苛立たせるだけだったが、今ばかりは船長の言葉に従ってみるのもいいのかもしれない、と思った。

 そう、望みのままにすればいいのだ。コルネリアが抱いている本当の望みには遠くとも、今この瞬間、胸を支配するもやもやとした感情を晴らしたいと願うなら、まずは行動すべきだった。

 かくして、コルネリアは部屋を飛び出し、船長室の扉を叩く。すると、しばしの沈黙の後、薄手のシャツに柔らかな素材のカーゴパンツ姿という、明らかに今まで寝ていたとわかる格好をした船長が部屋から顔を出す。そして、ぼさぼさの髪を手で無理やりに整えながら、高い位置からコルネリアを見下ろして首を傾げる。

「おはようございます、今日はお早いですね。どうかなさいましたか、フロイライン?」

「おはよう、船長。わたしにできることはない?」

「……はい?」

 虚を突かれたらしい船長は、ぽかんとした顔をしてから、慌てた様子で普段の芝居がかった調子を取り繕ってみせる。

「き、急にどうしたのです、フロイライン? 私の対応に何かおかしな点でもございましたか?」

 それでも、船長の言葉はどこまでも頓珍漢だった。この男は、とことん自分が見えていないらしい。それが彼が妄想の中に生きている故なのか、それとも元からあまり自分自身を顧みない性質なのかは、コルネリアには判断できなかったが――。

「腕。上手く動かないんでしょう。そんな状態で今まで通りに過ごすのは、無理よ」

 コルネリアの指摘に、船長は今度こそぴたりと固まった。事実、昨日から船長は負傷した右手をあれ以来ほとんど動かしていなかった。今も、扉は左手で開けていたし、髪を整えていたのだって左手だった。そして、袖をまくった右手には包帯がきつく巻かれている。

 船長は、がり、と頭を掻いて、髭に覆われた口をもごもご動かす。船長の表情は未だにコルネリアからはよく見えないが、きっと、ばつの悪そうな顔をしているのだろうな、と思う。

「参りましたね。本当に、気にしないでいただきたかったのですが」

「そんなの、無理よ」

 無理に決まっている。目の前で、それもコルネリアを庇って怪我をして。そのせいで不自由な思いをしている船長を目の当たりにしていながら、知らないふりをすることは、コルネリアにはできない。

 なのに、船長は、その場に膝をつき、コルネリアを見上げるような姿勢になった上で、何故か心底困り果てたような声を上げるのだ。

「何度も言いましたが、あなたが気に病むことはないのですよ、フロイライン。この怪我は私のわがまま、自業自得というものです」

「あなたがそう言うならそれでもいいけど、今こうしてあなたが困っているのに、手を貸さないというのは、何かが違うと思ったの」

「フロイライン、あなたは私の客人です。お手を煩わせることは――」

「いつもの『あなたのお望みのままに』、はどうしたの?」

 はっきりと言い切ってやると、船長は「う」と呻いて黙った。

 コルネリアの望みを聞いてくれるというならば、この望みだって、叶えてくれなければおかしいのだ。そんな思いと共に、コルネリアは、船長の顔をじっと見つめて、望みを言葉にする。

「わたしの望みは一つ、あなたのお手伝いがしたい」

 船長の口から、長い息が漏れた。それから、その顔を少しだけ歪めた。多分、笑ったのだと思う。

「では、お願いしてもよろしいですか?」

 

 

          *     *     *

 

 

 コルネリアは今まで「客人」であり、主である船長に言われるがままに過ごしていた。故に、普段、部屋の外で船長が何をしているのかは、ほとんどわかっていなかった。

 儀礼用の軍服を思わせる、なかなかに派手ではあるが、普段のものよりも幾分かは簡素な――おそらく、腕が不自由なので着替えが難しかったのだろう――服を纏った船長は、コルネリアを伴ってまだ薄暗い通路を歩いていく。

「まずは、朝食にしましょう。まだ食べられる缶詰や保存食は、全て食糧庫の方にまとめてありますので、そちらから好きなものをお選びください」

「その後は?」

「洗濯、それから見回りついでに掃除をしています。朝食の後に、是非、お手伝いをしていただきたい」

 船長室を持つ一角――元は軍用艦だったらしい区画の、食糧庫として使っているらしい一室に足を踏み入れる。実際に、かつても食糧庫だったのかもしれないそこにはいくつかの棚が固定されており、保存の利く食糧が並べられている。

 肉のペースト、豆を煮たもの、野菜のようなもの、それにからからに渇いたパン。それらは今まで、コルネリアが船長に与えられるままに食べていたものばかりだったが、これらは幽霊船の中から発掘されたものであるらしい。

 とはいえ、それだけではいつ食糧が尽きるかわからない。そう指摘したコルネリアに、船長は大きく腕を広げて食糧庫の天井を仰ぐ。と言っても、片腕は相変わらずだらりと垂れ下がったままではあったが。

「この幽霊船は、日々変化しているのですよ、フロイライン!」

「変化……?」

「そこにあったものがなくなる。そこになかったものが現れる。もう少し正確に言うなら、霧に晒されて朽ちゆく場所もあれば、新たにこの海峡で果てた船が、この船の一部に変わった場所もある。そうして、常に変化を続けているのです」

「食糧も、新しく手に入ることがあるってこと?」

 そういうことです、と船長は微笑む。何とも荒唐無稽な話であるが、その言葉を完全な嘘だと断じることは難しかった。嘘か本当かを確かめる手段のない船長の冒険譚と違って、コルネリアは今この瞬間、でたらめに継ぎ接ぎされた幽霊船の上に立っているのだから。

 いくらコルネリアが問い返したところで、きっと船長は己の言葉を覆すことはないだろう。この場での追及は諦めて、話の矛先を変えることにした。疑問に思うことは、何もこれ一つではないのだから。

「そういえば、水はどうしているの?」

 飲料水の他にも身を清める時、洗濯や掃除、排泄物の処理など、暮らしには水が必要な場面は多いが、最低限ここしばらくコルネリアが暮らしていた限り、船の上で水に困ったことはない。毎回の食事にはたっぷりと飲み水が添えられ、部屋の側には洗面所や浴室も完備されている。そう、陸の上ですら水が貴重な場所もあるというのに、ここでは毎日湯を浴びても文句一つ言われないのだ。

 その問いは船長も予測していた範囲だったのだろう。食糧庫から一旦出て、隣の部屋に足を向ける。コルネリアも、その背中をぱたぱたと追いかける。

 隣の部屋の扉を開けると、そこには巨大な魄霧機関が鎮座していて、低い音を立てていた。箱型の機関から伸びているパイプは、床を通しておそらくは船体の外、魄霧の海に通じているのだろうということはコルネリアにも判断できた。

「水に関しては、こちらの魄霧機関を利用して日々必要な分を精製しています」

 船長は長い指でパイプをなぞりながら、コルネリアに説明する。

「魄霧の海から水を精製する機関は昔から存在しましたが、あくまで極めて大規模なもので、到底、その場から移動させることができませんでした。それがここまで小型化したのは、この海峡を挟んでの戦争が始まってからです」

 帝国と女王国との長きに渡る戦争は、双方の国土を蹂躙し、多くの人命を奪ってきた。ただ、その一方で、魄霧を扱う技術――特に、機械を用いて魄霧をエネルギーや物質に変換する魄霧機関は目覚しい発展を見せた。その一つが、この、清浄な水を精製する機関なのだと船長は語る。

「大型の軍艦にはこの手の精製機関が備わっていることがほとんどです。長期間の航行の中で、水が切れてしまうことは、最も恐ろしいことですから。一部の船は霧を喰えば動きますが、人は霧だけでは生きてはいかれません」

「船長も、こういう軍艦に乗っていたことがあったのね」

「ええ。以前にもお話しした通り、私は生前、軍の船乗りとして戦争に参加していたことがありましたから。その頃の話を、もう少し聞かせて差し上げましょうか」

「結構よ」

「それは残念」

 中指で持ち上げられた船長の丸眼鏡は、相変わらず虚空に向けられていて、コルネリアに見えている景色とはまるで別のものを見ているような錯覚に囚われる。とはいえ、今の話で、コルネリアは一つ、確信を深める。

 ――この男は、軍人だったのだ。

 百年や二百年前の世界を生きた幽霊であるという言葉は信じられないが、つい先日、停戦となったばかりの戦争の経験者である可能性は高いといえた。今、船長の口から語られた話もそうだが、コルネリアを助けたときに見せた動きや腕の力強さは、身体を使うために鍛えられた人間のそれであったから、もはや疑いようもないといえた。

 ただ、それがわかったところで、何にもならないことも確かだった。言葉の端々から船長の背景が見えてきても、コルネリアの本当の望みが叶うわけではないのだ。船長の気が、変わらない限りは。

 そんなコルネリアの内心を知らない船長は、心底嬉しそうに、低い音を立てて、淡々と霧から水を生み出し続けているらしい機関を見つめる。

「船は本来の機能を失いましたが、この機関が生きていたことは幸いでした。古いものではありますが、二人が生活していく分の水を精製するには十分すぎるほどです。日々、水を飲み、身を清めることができるのは、この機関のお陰なのですよ」

 そう言って、船長は機関に背を向ける。

「では、そろそろ食事にいたしましょうか。こればかりは、フロイラインの希望に応えきれないのが心苦しくはありますが――」

「船長」

「何でしょう、フロイライン?」

 船長は、呼びかけに対して、やっとコルネリアの方を向いた。向いた、と言ってもその丸眼鏡の下の目がコルネリアを見てくれている保証は、どこにもないわけだが。

 それでも、普段より幾分、正気に近い言葉を語っている今の彼になら、聞けるのではないかと思ったのだ。

「あなたって、随分、人間らしい生活に拘るのね」

「……人間、らしい?」

 船長は、コルネリアの言葉の意味がわからなかったのか、言葉の一部を鸚鵡返しにする。コルネリアは、ずっと内心で抱え続けてきた疑念を、ここぞとばかりに解き放つ。

「食事を用意して食べる。体を清めて、服を毎日きちんと着替える。それどころか、掃除や洗濯までする。そういうところを言ってるの」

 船長は、髪や髭こそ伸びるに任せているようだが、体や身に着けているものは常に清潔そのものであった。服装のちぐはぐさこそあるものの、コルネリアが船長を前にして、全く不愉快さを感じない程度には、常に身だしなみを整えている。

 ただ、船長にとってその指摘は愉快なものではなかったらしい。伸びた前髪の下で、微かに眉を寄せたのがコルネリアにもわかった。

「それは、フロイライン、あなたがここにいるからです。お客人であるあなたに不愉快な思いをさせないよう――」

「いいえ、それは嘘だわ」

 それでも、コルネリアは断言する。船長の髭に覆われた顎を見上げて、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出していく。

「もし、わたしがここに流れ着いてから始めたというなら、もっと不自然なはずだわ。あなたはさっき言ったわよね、『対応が不満なのか』って。いいえ、あなたの対応に不満はないわ、何一つ。だからこそわかるの、それは全て『あなたが普段からしていたこと』だって」

 コルネリアがここに流れ着く前の船長を、コルネリアは知らない。ただ、目にしなくとも、これまでの彼のあり方から見えてくるものがある。船長はきっと今までも、誰一人見ていないにも関わらず、今とほとんど変わらない生活をしていたに違いない、と。

 朝、いるはずもない「お客様」に挨拶をして、食事を摂って、顔を洗って。気に入った服を丁寧に洗い、汚れた甲板を清掃して、それから妄想の海図や航海記録と向き合って過ごしていたのだ。そんな想像上の後姿を、コルネリアは何と表現していいものかもわからない、胸を締め付けられるような思いで振り払い、今ここにいる船長を見据える。

「ねえ。あなたは、いつからこの場所でそうしていたの? どうして――」

「どうして、そのようなことを問うのです、フロイライン?」

 答えたくなかったのか、実際に答えを持たなかったのかはわからないが、船長はコルネリアの問いに答えずに、更なる問いを投げ返してくる。コルネリアはむっと眉根を寄せて、きっぱりと言い切る。

「わたしは、あなたが『人間』だってことを、確かめたいだけよ」

 確かめたところで何になる、と問われたならば、コルネリアにも答えられやしない。ただ、目の前の男は、生きていて、姿があって、そしてコルネリアのために血を流す、ただの人間なのだということを、どうしても、船長自身に認めさせたくて仕方なかったのだ。それは、理由のない、コルネリアの意地のようなものだった。

 しかし、船長はゆるゆると、首を横に振る。

「いいえ、それは違います。こんな、痛みを感じない、ろくに熱も通わない、限界まで人間らしさを削り落とした身が、どうして人間といえましょう」

「……っ」

「私は、滑稽な『人間の猿真似』をしているだけの、哀れな亡霊。それで、よろしいではありませんか」

 ――何も、よろしくない!

 そう叫ぼうとした口を、船長の人差し指が塞ぐ。ひんやりとした、それこそ船長の言うとおり「熱の通わない」指先が、そっと唇に触れ、すぐに離れる。

「朝食にしましょう、フロイライン。本日はやるべきことがたくさんありますからね、まずは食事からはじめましょう。あなたに頼みたいことも、たくさんあるのです」

 その有無を言わさぬ声音に、コルネリアは、頷く代わりに、ただただ船長を睨みつけることしかできなかった。

 とはいえ、コルネリアは、船長の背中を追って、共に「仕事」をこなしていく過程で、少しずつではあるが、今まで霧に煙るようであった船長の姿が鮮明になるのを感じていた。

 船長はいついかなる時もコルネリアのことを気遣い、己の怪我やコルネリアの心無い言葉にも動じることなく、コルネリアの「望み」を叶えるべく尽力する。それが、どれだけ船長の負担になろうとも、船長は嫌な顔一つしない。唯一、自分の力の及ばない時に、悲しげな声でコルネリアに謝罪するくらいで。

 その一方で、コルネリアに向けてありもしない武勇伝を語りながら、そのくすんだ眼鏡越しの目は、いつだってここではないどこかを見つめているのだ。その横顔は、実際には顔のほとんどが髪や髭で隠れているにも関わらず、どこか寂しげに見えるのだ。

 ――もしかすると。

 コルネリアは、ぼんやりと考える。

 もしかすると、船長は、狂ってなどいないのではないか。

 ただ、その疑念に答えを与えられることはない。船長は、どこまでも己を「死者」であると主張するし、こればかりは、コルネリアの問いかけにも、切なげに首を横に振るばかりだった。

 

 船長は何を思ってこの場にいるのか。コルネリアを捕らえているのか。

 

 大事なことだけが何一つわからないまま――二度目の、嵐が、来る。

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