開かずの扉の向こう側

 以来、コルネリアは、暇さえあれば船長に連れられて幽霊船を見て回るようになった。そのくらいしか、コルネリアにできることがなかった、ともいう。

「こちらが、首吊り伯爵のお部屋になります。……今日は、どちらかにお出かけのようですが、普段は天井から吊られて、揺られているお姿を拝見することができますよ」

「こちらは、開かずの扉ですね。引っ張ってみればわかりますが、どう足掻いても開かないのです。不思議ですね。この辺りは戦艦の一部ですから、もしかすると、まだどなたかが立てこもっているのかもしれません。己が死んでいることも、わからないままに」

 船長が、一つひとつ、丁寧に幽霊船の不思議をコルネリアに説明する。もちろん、その全ては船長の妄想だ。船長はあくまで「お客様の声」だと言って聞かないけれど、時折聞こえてくる奇妙な唸り声も、実際には、船と船の隙間を通る風の音であったと、今のコルネリアは知っている。

 とはいえ、未だどのような仕組みかはわからないが、いくつもの船の残骸によって形作られている幽霊船は、一つ通路を曲がるたびに、一つ扉を開くたびに、全く別の世界を見せる。それは、船長の荒唐無稽な作り話も含めて、ほんの一時だけではあったが、コルネリアを楽しませてくれる時間であった。

 しかし、ある日の船長は、コルネリアを部屋に送り届ける際、いつも必要以上に朗々と喋る彼には珍しく、低く唸るような声でこう告げてみせたのだ。

「よろしいですか、フロイライン。どうか、一人で出歩こうなどとは考えないでくださいね」

「……どうして?」

「この船は、本来、私以外の者、特に生者を受け入れるものではありません。船の主である私が側についていれば、この船とお客様はあなたを友として迎えてくれるでしょう。しかし、一度あなた一人で彷徨えば――」

 一呼吸置いて。船長の、髭に覆われた唇が歪む。

「この船は、あなたを、頭から飲み込んでしまうでしょう」

 

 

          *     *     *

 

 

 果たして、その言葉が真実なのかどうか――を、確かめたかったわけではない。

 真実などであるはずがない。船長の言葉は全てが妄想なのだから。

 だから、コルネリアが部屋のドアノブに手をかけたのは、全く別の理由だった。

 コルネリアは何も知らない。この船はどのようにして成り立ったものなのか。いつからこの海域に浮かんでいるのか。何故、こんな場所を漂い続けているのか。

 それに――何より、この船から脱出する方法はあるのか。

 それを知るために、コルネリアは、音を立てないよう気をつけながら、部屋の扉をゆっくりと開く。顔だけを出して、部屋の前の通路を右に左に眺めてみたけれど、船長の気配は無くてほっと息をつく。

 船長は、今のところはいたって親切であるし、コルネリアの要望には誠意をもって応じているように思われた。しかし、だからと言って、必ずしもコルネリアの問いかけに答えを与えてくれるわけではないのだ。

 既に何度目かの昼夜を共に過ごしながら、船長について確かなことは、この船同様に何一つとしてわかっていない。彼が語るのは、いつだって、海図の上に描かれた妄想の物語で、そこから彼の背景を見出すことは至難としか言いようがなかった。

 だから、今ばかりは、船長を頼れない。

 本当に知りたいことがあるならば、自らの力で探り当てなければならないのだと、改めて、強く、強く思う。

 足に合わない靴では、なかなか足音を立てずに歩くのは難しい。ほとんど足の裏を擦るようにしながら、船長がいつ現れるか警戒しつつ、ゆっくりと通路を進んでいく。

 目指すは、船長がコルネリアを通そうとしなかった、船長室の向こう側だ。

 

 

          *     *     *

 

 

「この先には、行けないの?」

 灯りもなく、どこまで続いているかもわからない闇に包まれた通路を指差して問うたコルネリアに、船長は大げさに肩を竦めてみせたのだった。

「ええ。この先は、死者の空間ですから」

「どういう意味?」

「言葉通りですよ。この先に待っているのは、死、そのものです」

 船長の言葉はいつだって、コルネリアには理解できない。この時もそう。煤けた眼鏡越しに闇を見据える船長の声は朗々としてこそいたが、内容はといえば、熱に浮かされているとしか思えない妄想の産物だった。

「私はこの船の主ではありますが、全てを掌握しているかといえば、そうではありません。この船は、志半ばで霧の海に散った人と船の集合体。故に、ところどころ、死者の思念に満ちた場所が存在するのです。そこは、私であろうとも立ち入ることが難しい。この世に今も焼きつく強すぎる思いは、私のような脆弱な亡霊など、たちどころに消し飛ばしてしまうでしょう」

 そうして、ぞろりと伸びた前髪の下から、丸眼鏡越しにコルネリアを見つめ、いたって真剣にこう言うのだ。

「もちろん、フロイライン。あなたもこの先に行けば生きては帰れないでしょう」

 ですから、この先に連れてはゆけません、と。

 船長は頑として譲らなかった。覗くだけでも、と望んでも、申し訳なさそうに首を横に振るばかり。今まで、コルネリアの要望にはどれだけ無茶なことでも何とか応えようとしていた彼が、こればかりはどうしてもと譲らなかったことが、コルネリアの脳裏に引っかかり続けている。

 ――もしかすると。

 あの向こうには、コルネリアに見られたくないものがあるのではないか、と。

 コルネリアが知れば、船長に不都合が生じるものではないだろうか、と。

 その可能性を考えてしまった以上、確かめずにはいられなかったのだ。

 

 

          *     *     *

 

 

 抜き足、差し足で進む船長室までの道のりは、あまりにも長く感じられた。船長の気配を探りながらの前進であるから、余計に神経が磨り減るともいえた。

 それでも、日々船を巡るコルネリアのために、船長が船長室までの通路を整備してくれていたため、船と船との継ぎ目を飛び越えたり、壊れやすい場所を渡ったりと、どうしても足音をたてるような動作を必要としなくなったのは幸いであった。

 何とか船長室まで辿りついた頃には、船長がコルネリアのためにと用意してくれた、白いドレスの背はすっかり汗に濡れてしまい、不快極まりなかった。

 念のため、船長室の扉に耳をつけ、内側の気配を探ってみる。それなりの厚みがある金属の扉ゆえに、どこまで信じていいものかはわからなかったが、船長の気配らしきものは感じられなかった。

 では、船長はどこに?

 流石にここまで来て、船長室の扉を開いて確かめるわけにはいかない。船長の言いつけを破った以上、何をされるかわかったものではない。元より、コルネリアに対する紳士的な態度がいつまでも続くという保証はないのだ。

 そう、一度行動に移してしまった以上――前に進むしか、ないのだ。

 かくして、コルネリアは闇に包まれた通路に立つ。片手に提げていた、部屋の明かりとして使われていたランプに灯りを入れれば、柔らかな薄青の光が闇を追い払い、通路の全貌が明らかになる。

 通路は、思った以上に短かった。ただ、通路の先にある重たそうな扉が闇を生み出していたのだと気づく。コルネリアは、そっと、錆び付いた扉の取っ手に指先を絡ませる。

 と、軋んだ音を立てて、思ったよりも簡単に扉は開いた。音を立ててしまった、という失態は、しかし、コルネリアの視界に飛び込んできた、目も眩むような明るさによって、意識から完全に吹き飛んでいた。

 何とか明るさに目が慣れたところで、コルネリアは、やっと、扉の外に広がっていた景色を理解した。

 ――霧、だ。

 コルネリアの視界いっぱいにたゆたっていたのは、霧の海だった。どうやら天井の無い場所に出てしまったらしい。否、濃い霧を透かして見る限り、正確には天井が無いのではなく、元々あったはずの天井が抜けてしまった場所らしい。ところどころ、梁や天井の名残が見て取れる。そして、朽ちかけているのは、壁や足元も同様だ。

 大気中、そして足元に特に濃く満ちる霧、魄霧は万物の源である。それと同時に、万物が最後に還る形でもある。長い間濃い霧に晒されていれば、全てのものは朽ち、もしくは溶けて霧へと還っていく。この場所も、そうして霧と一体になりつつある場所なのだろう。

 ただ、崩れつつある通路の先に、何かが見える。そのほとんどは霧に隠されていたが、それは、コルネリアが今いるのとは別の、船の残骸であるようだった。コルネリアが立ち入ったことのない、知らない区画――。

 コルネリアは、恐る恐る、崩れかけの足場に一歩を踏み出す。

 ぎい、と。頼りなく揺れた足場は、しかしコルネリアが体重を全て預けても、問題なく体を支えてみせた。これならば、向こう側にも渡りきれるかもしれない。

 その時、強い風が吹いた。船と船の狭間に位置する空間に吹き込んだ風は、船体や残された壁、天井の間を駆け巡り、霧を巻き上げて渦巻いた。どこから吹いているのかもわからない強烈な風に、コルネリアのちいさな体が煽られる。

「え……、あっ」

 ぐらりと足場が揺れた。慌てて側にあった柱に掴まるも、その柱もすっかり腐食していたのだろう。嫌な音を立てて大きく傾ぐ。

 刹那、有無を言わせぬ力で体が後ろに引かれ、視界に影がかかったかと思うと、頭上から鈍い音が響いた。

 はっとして見上げれば、いつからそこにいたのだろう、コルネリアの背後には船長が立っていた。船長は片方の腕でコルネリアの肩を庇うように抱き、もう片方の腕を頭上に掲げて、何かを受け止めていた。

「ご無事ですか、フロイライン」

「せ、船長……」

 船長が腕を振れば、がらん、と重たい音を立てて、金属片が床に転がる。おそらくは腐食と強風に耐えかねて天井から落ちてきたものであり、もしここに船長がいなければ、コルネリアの頭を叩き割っていたと確信できる質量を持っていた。こんなものを、船長は、片腕一本で受け止めてみせたのだと、一拍遅れて気づく。

 コルネリアの体を後ろから抱く形になった船長は、煤けたレンズ越しにコルネリアを見下ろして、髭に覆われた口を開く。

「お怪我は?」

「だ、大丈夫」

 それはよかった、と。普段より幾分低い声で答えた船長は、そのまま力ずくでコルネリアの体を引いていく。かくしてコルネリアは、成すすべもなく、扉の前へと連れ戻されてしまう。

 そこで船長はコルネリアから手を離したかと思うと、縦に長い身を屈め、コルネリアと眼鏡越しの視線を合わせて、淡々と言う。

「私は、お伝えしたはずです。一人で出歩いてはならないと。この通路の先に行ってはならないと。この船は危険なのです。本来、人が生きる場所ではないのですから」

 ああ、そういうことだったのか。

 コルネリアは、妄想に満ちた言葉の中に宿る「真実」を初めて垣間見た気がした。

 きっと、船長は「危険だから立ち入ってはならない」と。ただ、それだけを伝えたかったに違いない。この先は霧に浸食されていて、本来の船の形を留めていない。立ち入るには多大な危険を伴うのだということを、極めて回りくどく伝えたに過ぎなかったのだ。

 そして、もう一つ、これではっきりとわかったことがある。

 ――船長は、コルネリアの身を本気で案じている。

 この船に流れ着いてから今に至るまで、コルネリアはずっと疑問に思っていたし、一つの疑問が明らかになったことで、更に疑問は深まるばかりだった。

 だから、コルネリアは、真っ向から船長を睨んで問いかける。

「ねえ、船長?」

「何でしょう、フロイライン」

「わたしには、どうしてもわからないの」

 わからない。そうだ、どうしても、コルネリアにはわからないのだ。

「あなたは、わたしをどうしたいの? わたしをここから帰さないという。望めば殺してくれるという。でも、今、あなたはわたしの命を助けてくれた。あなたは、わたしを生かしたいの? 殺したいの?」

 コルネリアの矢継ぎ早の問いかけに対し、船長は、意外にも即座には切り返してこなかった。しばし、髭の下で口をぱくぱくさせたかと思うと、コルネリアの視線を振り切るかのように屈めていた身を勢いよく起こす。

「……私は、あなたが苦しむ顔を見たくない。ただ、それだけです」

 答えになっていない、という叫びは、果たして声にはならなかった。

 ――気づいて、しまったから。

「さあ、お部屋に戻りましょう。お送りいたします」

「っ……、待って!」

 いつもの調子を取り戻してコルネリアの先に立って歩き出そうとする船長を呼び止める。不思議そうに振り向く船長に対し、コルネリアは、その一点を指差してみせる。

「その傷、大丈夫、なの?」

「……え?」

 船長は、一拍遅れて間の抜けた声をあげた。それから、コルネリアの指差した場所を、その時初めて見下ろしたのだった。

 先ほどコルネリアの頭上に落ちてきた金属片を受け止めた右腕が、真っ赤に染まっていた。今もとめどなく出血しているらしく、指先からは、絶えず血が滴り落ちている。

 しかし、船長はいたって朗らかに、血まみれの腕を振ってみせる。

「大丈夫ですよ。問題なく動きますから」

「動きますから、って……、そんなに血が出てるのに」

「大丈夫ですよ。大丈夫です」

 うわごとのように同じ言葉を繰り返しながら、船長は普段と何一つ変わらない歪な笑顔を見せる。ぱたぱたと、音を立てて大粒の血が床に落ちているのにも、構うことなく。

 この男は、コルネリアが指摘するまで己の怪我に気づいていなかった。コルネリアの目で見ても決して軽いものでないその傷を、認識してもいなかったのだ。その事実に、コルネリアは背筋が冷えるのを感じる。それは何も、背中が汗に濡れているから、というだけではなかったはずだ。

 船長から、血の匂いがする。それは、あの日の空気に満ちた匂いとよく似ている。

 コルネリアは、己の手が汚れるのも構わず、船長の血まみれの手を取って呟いていた。

「ごめんなさい……」

「あなたが謝ることはありませんよ、フロイライン。これは、あなたを危険な目に遭わせたくないという、私のわがままですから」

 見上げる船長は、やはり、朗らかに笑っていて。

 部屋まで送り届けられ、扉が閉ざされるその瞬間まで、コルネリアには本来そこにあってしかるべき「痛み」を見出すことはできなかった。

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