継ぎ接ぎの船をゆく

 静寂を破るノックの音に、コルネリアは重たい瞼を開ける。

 今日も、よく眠れた、とはお世辞にも言いがたかった。常にゆらゆらと揺られている感覚に慣れることもできず、それでもやっと眠りに落ちたかと思えば、嫌な記憶ばかりが蘇って現実に逃げ帰る。

 そんな長い長い夜の終わりを告げるのは、これまた悪夢のような、調子の外れた声だ。

「フロイライン、朝食のお時間です。お部屋に入ってもよろしいですか?」

 決まりきった朝を告げる声にも、どうにも慣れることができない。コルネリアの記憶が正しければ、もう、この朝も七度目になるはずだが。

 肩からこぼれる、くすんだ金髪を手櫛で整えながら、寝台の上に身を起こす。それから、寝間着がそこまで乱れていないことと、サイドテーブルのナイフが手の届く位置にあることを確かめて、「どうぞ」と声をかける。

 すると、ぎい、と軋んだ音を立てて扉が開き、今日もまた妙に派手な上着を羽織った髭面の男が、高らかな足音を立てて部屋に入ってくる。

「おはようございます、フロイライン! 霧深く風は温かい、よい朝ですよ」

「おはよう、船長」

 コルネリアの挨拶には愛想の欠片もなかったが、船長は全く意に介する様子もなく、手にした盆をコルネリアに差し出す。

「昨日、食糧庫の奥からベリーのジャムが見つかりましたので、是非、クラッカーと共にお召し上がりください」

 そういえば、先日「菓子はないのか」と問うたところ、甘いものは船の上では貴重で、簡単に食べられるものではないのだ、と心底申し訳なさそうに言われたのだった。それでも、コルネリアの願いに応えようと、船中を探し回ったのかもしれない。

 それにしても、幽霊船の中から見つかったジャムなのだ、腐ってはいないだろうか。不安に思って瓶に顔を近づけてみるが、瓶を満たす赤色は明るく瑞々しく、瓶から香る甘酸っぱい匂いから判断する限り、コルネリアの想像よりずっと新鮮なものに思われた。

 コルネリアが盆を受け取るのと同時に、船長は盆の上から、コップでも皿でもない細長い瓶を取り上げる。コルネリアも、つい、盆の上の食事ではなく、船長が手にしたものを目で追ってしまう。

「それ……、どうしたの?」

 船長の手に収まっていたのは、瓶に生けられた花であった。白い、ちいさな花。コルネリアも故郷でよく見た、野に咲く花だが、そういえば、名前は知らない。

「船の一角に咲いていたので、摘んでまいりました。部屋の中でも、フロイラインの目を楽しませることができればよいと思いまして」

 船長には悪いが、見慣れた花であるだけに、陸を、故郷を思い出して、胸が締め付けられるような感傷に囚われる。ただ、それを船長に悟られたくはなくて、瞼を伏せて曖昧な表情を浮かべるだけにとどめた。

 果たして、船長はコルネリアの反応をどう捉えたのか。嬉しそうに口元を歪めたかと思うと、サイドテーブルの、ナイフの横に花瓶を置いて、コルネリアの方を振り返る。

「ああ、そうだ。花といえば、私が遠い東の海を航海していた頃に訪れた、花咲く島のお話は、まだしていませんでしたね」

 しかし、船長はコルネリアを見ていなかった。分厚い、瓶の底を思わせる煤けたレンズの丸眼鏡は、天井と壁の間に向けられていた。

「それは、今から……、百年ほど前ですかね。それとも、二百年は前でしたかね。まだ、帝国では極東の島国の名が知られていなかった頃のお話です。その頃の私は、まだ己の船もなく、商船で下働きをしていましてね。それはもう、散々こき使われたものです」

 朗々とした声を聞き流しながら、コルネリアはそっと溜息をつき、クラッカーにジャムを載せる。

 船長は、やはり、狂っているのだ――。

 ここ数日のやり取りで、コルネリアは、確信を深めるに至っていた。

 この巨大な廃船に住まう自称船長が、言葉通りの「幽霊」や「亡霊」でないことは間違いなかった。この男はコルネリアと変わらない肉体を持ち、人並みに服を着て、人と同じように歩き回る。そんな幽霊、コルネリアは生まれてこの方目にかかったこともなければ、話を聞いたこともない。

「ある時、私の乗った商船が、国の援助を受け、東の未踏の地を目指すことになりました。何せ霧に隠された東の地は、伝承では、黄金を守る巨大な獣が眠っていると噂される地でしたからね。実際には、我々と同じ姿をして、けれど異なる言葉と文化を持つ人々が住まう土地であったわけですが」

 その一方で、船長自身は、己が幽霊であることを毛ほども疑っていない。それどころか、船長の主張を疑うコルネリアに対し、「己が生きていた頃の記憶」だと言って、それこそ古臭い御伽話や海洋冒険物語を継ぎ接ぎした、荒唐無稽な「昔話」を語りだすのだから始末におえない。

「結論から言えば、七つの大嵐を越え、海から現れた巨大な鯱から決死の思いで逃げ切りながら、私が乗った商船は、かの国にたどり着くことはできませんでした。しかし、旅の終わりに、一つの島を目にしたのです」

 どうやら、この男は、コルネリアと同じ場所に立っているように見えて、果てしない妄想の世界に生きているようだった。己の船一つで魄霧の海を駆け巡り、数々の冒険を乗り越えてきた偉大な船乗りである、というありもしない世界に。

 ――ただし、彼の船だけは、妄想ではなく、確かにここに存在しているのだが。

「そこは、無数の花の咲き乱れる島でありました。しかも、それは本来ありえない、四季の花が同時に花を咲かせる、不可思議な島でした。蒲公英、迷迭香、朝顔に君影草。それに、当時は私も名を知らなかった、樹に咲く極東の花、梅や桜もありました。それらが全て、己の美しさや可憐さを競い合うように咲き誇っていたのです」

 このまま、船長の陳腐な御伽話を聞きながら食事を続けるのもいたたまれなくて、コルネリアは、つい、声を上げずにはいられなかった。

「ねえ、船長」

 突然、話を遮ったコルネリアに対し、船長は嫌な顔ひとつ見せなかった。ぐるうり、と頭をめぐらせて、恭しく一礼する。

「何なりと、フロイライン」

 何なりと、と言われても、気持ちよさそうに話をしていた――しかも、それがコルネリアの慰めになると信じて疑わない船長に対し、話を止めろ、というには流石に気が引けた。

 ただ、一つ、船長に頼んでみたいことはあったのだ。

「今日は、この船を、案内してくれないかしら?」

 処置が早かったからだろう、足の傷は既に随分よくなっていた。ここ数日は、船長が「安静にしていてください」と懇願してきたこともあり、与えられた客室とその周囲の、生活に必要な空間だけを行き来していたが、そろそろ、そんな日々にも飽きてきた頃だった。

 それに何より、コルネリアには、どうしても確かめたいことがあった。

 船長はコルネリアの言葉に対して、何の躊躇いも無く、深く頭を下げてみせる。

「あなたのお望みのままに、フロイライン」

 ――しかし、その前に、と。

 船長は、一輪、花瓶の中のちいさな花を摘みあげる。それを、呆然とするコルネリアの金髪にそっと差す。

「初めてあなたを目にした時から、あなたには、白い花が似合うと思っていたのです。お美しいですよ、フロイライン」

 歯の浮くような褒め言葉に、コルネリアは、どのような顔をすべきかさっぱりわからなかった。

 

 

          *     *     *

 

 

 船長は高らかな足音を立てて、コルネリアの前を進んでいく。足元に長い長い影を落としながら。

「さて、まずはどちらを案内しましょうか?」

 金属でできた通路は、ところどころが足元の魄霧に晒されて腐食を始めている。不安定な足場の感触を、ぶかぶかの靴の底で確かめながら、コルネリアは随分上に位置している船長の顔を見上げる。

「そうね、あなたが普段いる場所を教えてほしいわ」

 船長は、朝と夕方、コルネリアの部屋に食事を運んでくる。それ以外の時も、部屋に備え付けられた伝声管で呼びかければ即座に飛んでくるのだが、普段、船長がこの船の上で何をしているのか、コルネリアは全く知らない。

 振り返り、コルネリアを見下ろした船長は、口元を笑みの形にする。

「もちろん、私は船長ですので、仕事が無ければ船長室にいますよ」

「船長室……?」

 ええ、と頷いた船長ではあったが、長く伸びた前髪の間から覗く丸眼鏡は、今日もその奥が見えないほどに煤けていて、どんな目つきをしているのか窺い知ることはできない。

「くれぐれも、足元にはお気をつけください。魄霧の海はあまりに深い、二度目の奇跡はありませんよ」

 言いながら、一旦立ち止まった船長の足元を見れば、通路が一旦途切れて、少し離れた場所に足場が浮かんでいることがわかった。その狭間を埋める魄霧に呑まれれば、船長に言われるまでもなく、今度こそ二度と浮かんでくることはないだろう。

 船長は、すらりと長い足で軽々と通路の穴をまたぎ、コルネリアに手を差し伸べる。その手をとってよいものか、刹那、悩まないでもなかったが、コルネリアに何かをするつもりなら、とうに行動に移していると思いなおし、恐る恐るながらもその手に触れる。

「……手、冷たいのね」

 足に触れられたときにも感じたが、船長の手は酷く冷たい。触れた場所から温度を奪われるような感触に、コルネリアはぞくりと身を震わせる。そんなコルネリアを見下ろして、船長は、口元の笑みを更に深めたように見えた。

「それはそうですよ。私は、死人ですからね」

 嘘つき、と言いたかったが、どれだけその言葉を否定したところで船長の認識が覆るとも思えない。諦めて首を横に振り、船長の手に指先を絡め、引かれるがままに穴を飛び越える。そのまま、何となく、絡めた指先を離すこともなく、手を引かれるままに歩いていくと、周囲の様子が変わったことに気づく。

 今まで、コルネリアがいた部屋とその周囲は、質素ながらも品のよさを感じさせる、かつてはそれなりに高級な客船であったものの一部と推測できた。だが、今、コルネリアが立っているのは、無骨な金属の壁に、無数の配管が走る狭い空間だ。外の光もほとんど届かない、暗く陰鬱な通路に、ところどころ、魄霧燃焼式のランプが頼りなく揺れている。

 一体、ここは何なのか――コルネリアの疑問を、どうやら今ばかりは正しく受け取っていたらしい。船長は、普段より少しばかり声を低くして、囁くように言う。

「かつて、この海域では、東の帝国と西の女王国とが、お互いの威信をかけて争いを繰り広げておりました」

「ええ、わたしのパパが帝国の軍人だったから、話は聞いているわ」

「おや、奇遇ですね。私も生前は軍人でしてね。その日も艦隊を率いて、この海峡へと赴いたのです」

「さっきは、百年か二百年前に商船の下働きをしてたって言ってたじゃない……」

 戦争が始まったのは今から五十年ほど前の話だ。完全に時制が狂っている。とはいえ、この男の話はいつもこうで、つじつまが合っている部分を探すほうが難しい。こつこつと、軽い音を立てながら、船長は歌っているかのような滑らかな口調で喋り続ける。

「とはいえ、私に何ができたわけでもありません。その頃、既に戦の主役は、霧上船から、それぞれの国の象徴ともいえる『秘密兵器』へと移っていましたからね」

「……帝国の汎用人型兵器『戦乙女』?」

「そして、女王国の高速機動兵器『翅翼艇』ですね」

 コルネリアも、知識としてはそのような兵器が存在することは知っていたが、どのような姿をして、どのような戦い方をするのか、実際に目にしたことは無い。しかし、船長はそうではないらしく、感嘆の息をついて、熱っぽく語り続ける。

「あまりに激しく、美しい戦いでした。その時の私は、己に与えられた役目も一時忘れ、霧眼鏡越しに海を舞う乙女と翅を持つ船を見上げていました。まさしく、咲き乱れる花の中、花弁を散らして舞い踊るかのごとく。それは、私が今まで見た何よりも、私を魅了したのです」

 実際には、船長の言う「花」とは互いの武器が放つ火花であり、踊っているように見えたのは、あくまで、お互いの命をかけた苛烈な戦いだったのだろうけれど。

「まあ、ぼんやりしてた私は、当然ながら爆撃を受けてしまいましてね。かくして、死んだ戦艦の一部が、このように幽霊船の一部になったわけです」

 何とも間抜けなオチをつけたところで、船長は足を止め、ゆるく繋いでいたコルネリアの手を離す。目の前には、鋼の扉が物言わず佇んでいた。

「さて、こちらが私の居室、船長室になります」

 船長の手で開かれた扉の向こう側を目にしたコルネリアは、言葉を失った。

 そう広い部屋ではなかった。それこそ、コルネリアに与えられた部屋より少しだけ広いくらい。

 ただ、部屋の壁一面を、何かが覆い尽くしている。

 それは――海図、だった。

 地理の知識が乏しいコルネリアには、それぞれの海図がどこを描いたものなのかはわからないが、緻密に描かれるそれらには、加えて赤や青のインクで、乱暴に何かが書き加えられている。それは「財宝の在り処」であったり、「形容しがたき獣の住処」であったり、はたまた先ほどの話に出てきた「花に満ち溢れた島」であったりした。

 ふらりと、一歩、部屋の中に足を踏み入れる。部屋の真ん中には机が置かれており、その上にも海図が積まれている。そのうちの一枚を手に、船長に向き直る。

「……これが、全部、あなたの旅してきた場所?」

「ええ、ええ、そうなのですよ、フロイライン!」

 きっぱりと言い放った船長は、海図の上に載せられた一冊の分厚い書物を取り上げる。表紙に刻まれている文字列は、それが「航海日誌」であることを示していた。

「私は、日々、今までの旅路を記録しているのです。海図に、そして航海日誌に。何しろ私は亡霊の身、時と共に記憶は磨耗していくばかり。その全てを記すことはできなくとも、数々の冒険の記録を残しておきたいのです」

 弾んだ声で語る船長を見ていると、コルネリアは胸の前で手を握り締めずにはいられなかった。

 ――かわいそうな人。

 船長の言葉は、どこまでも、彼が醒めながらにして見ている夢だ。

 船長が狂っているのは、わかりきっていた。妄想の中に生きているということも。だが、明白な形で狂気を見せ付けられると、彼の抱く幻想の大きさに、喉がふさがるような息苦しさを覚える。他人の夢に押しつぶされて呼吸ができなくなるなんて、笑うに笑えない。

 けれど。

「……どうしました、フロイライン?」

 日記を片手にコルネリアを見下ろす船長は、嬉しげに笑っていて。その喜びに満ちた表情に、コルネリアに向けられた、あくまで穏やかな声に、コルネリアは締め付けられるような胸の痛みを覚える。

 恐怖――では、ない。

 当初、この男に感じていた恐怖は薄れつつあった。得体が知れないことは変わらず、日々狂気を突きつけられながら。それを、ただ「恐ろしいもの」だと感じられなくなっている自分がいる。

 果たして、この男が何故そこまで壮大な妄想を抱くに至ったのかはわからないが、その妄想が、壁を埋め尽くす空想の旅路だけが、今までたった一人、この船の上で生きていた彼を支えていたのだとすれば。

「フロイライン? どうして……、そんな、悲しげなお顔をしているのです?」

 悲しい? そんな言葉は当てはまらない。だが、きっと、単純な哀れみでもない。この胸の痛みが意味するものが、まだ、わからない以上。

「いいえ、何でもないわ、船長」

 コルネリアに言えることは、何も、ないのだ。

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