悪夢から目覚めても

『コルネリア、どうか、わかってほしい』

 耳元で囁く声がする。低く響くその声は、いつも、焼けるような熱と激しい痛みと共にあった。

 体の芯までを貫く重たいそれを、ちいさな体で受け止めながら、パパ、パパと。呼びかける声は、そのまま赤黒い闇の中に呑まれてゆく。

 一方的な行為が続いていくうちに、呼吸が苦しくなって、体のあちこちが悲鳴を上げて限界を訴えていたとしても、耳に届く声は何一つ変わらない。

『コルネリア、これが、私の愛なんだ』

 絶えず呼びかけられる名前と囁かれる愛は、少女を縛る呪詛であり、少女に向けた祈りでもあったのかもしれない。

 二度とその声を聞くことができない以上、今更、その意味を確かめることもできないけれど、と。真っ赤に染まった世界の只中で、少女は思う。

 気づけば、何もかも、何もかも。赤で染め上げられていた。

 壁や床と同じ色に染まった、足元に転がっているものを見下ろしてみるが、自分がどんな顔をしているか、少女は知らない。

 笑っているのかも、泣いているのかも、怒っているのかも。

 それとも、本当に、何も感じていないのかも。

 

 

          *     *     *

 

 

「……っ!」

 鈍い痛みと共に、視界いっぱいに広がっていた「赤」が消える。

 代わりに目に入ったのは、薄闇に灯る青白い光。ちいさな霧払いの灯を宿したランプが、天井から吊られてゆらゆら揺れている。

 揺れて、いる。

「霧惑海峡の、幽霊船……」

 ほとんど無意識に呟いたところで、悪い夢と混ざり合ってすっかり混濁していた記憶が、にわかにくっきりとした輪郭を帯びる。

 そうだ、ここは船の上なのだ。霧上艇や飛行艇がことごとく姿を消す霧惑海峡にただ一つ浮かぶ、廃船を継ぎ接ぎした幽霊船。

 そして――。

「おはようございます、フロイライン! お目覚めですか?」

 ここにいるのが、コルネリア一人ではない、ということも。

 扉の向こうから投げかけられるのは、耳慣れない男の声。高くも低くもないけれど、いやによく響く声は、流れるように問いを投げかけてくる。

「本日の朝食をお持ちしました。お邪魔してもよろしいでしょうか?」

 朝食、の言葉を聞くと、食欲の失せる悪夢とは裏腹に、体の方がどうしようもなく空腹を訴える。あまりに正直すぎる体につい苦い顔をしながらも、ちらりとサイドテーブルに視線を向ける。

 ちいさなテーブルの上に無造作に置かれているのは、刃が剥き出しになったナイフだ。その柄は蔦が巻きついたような美しい金の装飾に覆われているが、刃に宿る光は酷く重々しいもの。コルネリアの手には少し重たいそれは、けれど、今のコルネリアを唯一守るものであった。

 改めて、ナイフの柄が手を伸ばせば届く位置にあることを確かめて、扉の外に向かって「いいわ」と許可を与える。

 次の瞬間、扉が開き、長身に髭の男――船長が盆を片手に入ってくる。今日は深紅に染め上げられた外套の下にごてごてと飾りをつけた軍服のようなものを纏っていた。船長はほとんど天井に届くほどの長身を折り曲げて、コルネリアの顔を煤けた丸眼鏡越しに覗き込んでくる。

「おや、顔色がよろしくないようですね……、お体に、不調でも?」

 意外とよく見られている、とコルネリアは内心で舌を巻くが、本当のこと――悪夢の中身までを覗き込まれたわけでもあるまい、と思い直し、意識して背筋を伸ばして船長の眼鏡を睨む。

「普通、知らない場所に置き去りにされたら、気分のいいものではないわ」

「なるほど。しかし、それにしては随分と血の気が足らないように見受けられます。何か体を温めるためのものをお持ちいたしましょうか」

「結構よ。必要だったら、その時に言うわ」

 船長は人の話をろくに聞かないが、それでもコルネリアを心配しているのは間違いなさそうで、そのちぐはぐな物言いが更にコルネリアの不安を煽る。

 昨日もそうだったが、船長はコルネリアと同じ場所にいて、同じ言葉を喋っていながら、まるで別の世界を見ているかのようだった。それこそ、コルネリアと船長の間には本当に「生死」という分厚い壁が隔たっていてもおかしくない、と思わされるほどに。

 ともあれ、船長もそれ以上の詮索はしようとせず、サイドテーブルに盆を置く。昨日の献立とほとんど変わらない、さして美味しそうには見えないペーストとスープ、それから見るからに硬そうなパン。

「……何か、甘いものは無いの?」

 つい、漏れてしまった率直な感想に、船長の髭面が歪んだのはわかった。

「申し訳ありません、フロイライン。船上では、フロイラインの好むような砂糖菓子や生菓子の類を用意するのはどうしても難しいのです」

 相変わらずぞろりと伸びきった長い前髪のせいで表情は伺えなかったが、その声が、言葉通りに「申し訳ない」と思っているのは明らかだった。コルネリアも、流石にこれには少しばかりの罪悪感を覚えて首を横に振る。

「ごめんなさい、わがままを言って。それは、あなたのせいではないものね」

 どれだけ得体の知れない相手でも、この男がコルネリアを霧の海から引き上げ、コルネリアのためにわざわざ部屋を清潔に整え、怪我の手当てをし、綺麗な服と温かな食事まで用意しているのは事実なのだ。

 何故、コルネリアが陸に帰れないのか。果たして船長は自分をこの船に捕らえて何をしたいのか。いくらでも問い詰めたいことはあったが、今、コルネリアのために、と用意された食事の内容をどうこう言うのは、流石に筋違いだ。

 いただきます、と一言添えて食事を始める。想像通り、昨日と具の中身こそ異なれど、喜んで食べたい、とまでは思えない保存食らしい保存食だ。ただ、それらが温かい、というのは素直に嬉しく思う。部屋は決して寒くはなかったが、内側から体が温められることで、やっと全身に温かな血が通い始めたような思いがした。

 そんなコルネリアに対し、船長は何も言わずただ寝台の横に立ち尽くしていた。正直、食べているところをただ観察されているというのはどうにも落ち着かなくて、首を上げて船長を見上げる。

「あなたは食べないの?」

「ええ、私は、幽霊の身ですので」

 ああ、しかし、と。船長はぽんと手を打って付け加える。

「喉が渇くことはありますね。こうして、お客様とお話をするときに、みっともなく掠れた声ではいけませんからね。死者とて、喉は大切にしなければなりません」

 それは、冗談のつもりなのだろうか。

 コルネリアはどうにも判断がつかずに、結局それ以上の話をする気になれずに、ぼんやりとした味の食事を続ける。

 すると、今度は船長の方が口を開いた。

「そういえば、フロイラインのお名前を、まだ聞いていませんでしたね」

 名前。

 その言葉に、俄かに先刻の悪夢で嫌というほど耳にした声が、脳裏に閃く。

『コルネリア』

 コルネリア・ハイドフェルト。確かにそれは自分の名前なのだろう。最低でも、コルネリア自身は自らをコルネリアだと認識しているが――。

『コルネリア、いけない子だ。お仕置きが必要だな』

『コルネリア、返事をしなさい』

『そう、いい子だ。いい子だね、コルネリア』

 わかっている。その声は、今この場で聞こえているものではない。それでも、どうしても魂魄の内側から消えようとしてくれないそれらを首の一振りで断ち切って、船長を睨めつける。

「名乗る理由がある? あなただって、名前は教えてくれなかったじゃない」

 私には本当に名前が無いのですが、と。船長は困ったように首を傾げる。名前が無い、なんてふざけていると思ったが、何もコルネリアをからかっているようでもなく、ごくごく真剣な声音なのがまた不気味であった。

 しばし首を捻っていた船長は、しかし、無理にコルネリアの名を聞きだそうとは思わなかったと見える。一つ、ちいさく頷いて、煤けた眼鏡を長い中指で持ち上げる。

「それでは、これからもフロイラインとお呼びしてよろしいでしょうか」

「別に、構わない、けど」

「承知いたしました。それでは、フロイライン」

 船長は床の上に膝をつき、今度は下からコルネリアを見上げる。

「私めに、おみ足の包帯の取替えを、お許しいただけませんか?」

「……ええ、お願い」

 言いながら、コルネリアは妙な居心地の悪さと背筋に走る寒気を覚えていた。

 船長という肩書きを名乗り、豪奢な服を纏いながら、コルネリアに向けて頭を下げる姿はさながら召使いのようで、船長に対する得体の知れなさに、内心の恐怖も深まるばかりだ。

「フロイラインのおみ足が治りましたら、改めてこの船をご案内いたしましょう。しかし、どうか、それまでは、不要な出歩きは避けていただけるとありがたく思います」

 確かに、単純に「暮らす」だけならば、ほとんど、元は豪華客船の一部だったらしいこの客室と、側に備え付けられた水周りだけで事足りるのだ。生きた者のない幽霊船ということで、人間扱いされないことすら覚悟していたが、想像とは裏腹に、船長の手厚い歓待により、下手な陸の上よりも快適な暮らしが約束されているようだ。

 ただ――、それだけ、だ。

 だから、何だというのか。コルネリアは、何も、そんなことを求めているわけではないというのに。

 コルネリアの胸の中に湧く苛立ちと不安にも気づいていないのだろう、船長はあくまで丁寧に、細く長い指先でコルネリアの足に巻いた包帯を解いていく。処置が早かったからだろう、ちいさな両の足は炎症を起こしている様子もなかった。

 その様子を見て、船長も心底ほっとしたらしく、吐息を吐き出す。

「よかった、どうか、このまま安静にしていていただきたい」

「ええ、言われなくても、そのつもりよ」

 いくら傷が悪化していないとはいえ、まだ、床に足をつくと酷く痛む。その状態であちこち歩き回る気にはなれそうになかった。

 船長は満足げに頷くと、真新しい包帯でコルネリアの小さな足を包んでいく。冷たい指先が丁寧にコルネリアの足に包帯をかける様子を見つめながら、コルネリアは、ふと、口を開く。

「ねえ――船長」

「何でしょう、フロイライン?」

「あなたは、一体何なの?」

「何……、とは? 申しあげましたとおり、私はこの幽霊船の船長、名も無き船乗りの亡霊でございます」

 船長はあくまで己を死者であると主張する。当然、目の前の男が言葉通りに「亡霊」であるとは思えなかったが、否定したところでこの男がコルネリアに真実を語ってくれるとも到底思えなかった。

 それでも問うことをやめてはならない、と、コルネリアは折れそうになる心を奮い立たせる。自分は、知っておかなければならないのだ。この男は何なのか。この幽霊船は何なのか。そして――、自分が、この男を相手取ってどのように振舞っていくべきなのか。

「いつから、こんなところで暮らしているの?」

「いつから? さあ、いつからでしたでしょう? とても昔のことであるように思われますが、何せこの船には時を告げるものがありませんので、正確な期間をお答えすることはできかねます」

 確かに、コルネリアの部屋にも時計に類するものは見当たらなかった。窓から差し込む霧明かりの強さで昼夜が区別できるくらいだ。船長の言葉を信じるなら、他の場所にも時を告げるものはない、ということなのか。

 ただ、船長の伸びきった髪や髭、酷く痩せた体つきは、「とても昔」がどのくらいを指すかはわからないまでも、比較的長い期間を漂流してきたことを窺わせた。

 船長の冷え切った指が、コルネリアの両足に包帯を巻き終えたところで、コルネリアはもう一つ、頭の中に引っかかっていた問いかけを投げかける。

「……その間、ずっと、たった一人で?」

 すると、船長は髭の下に隠された口を笑みの形にした――ような、気がした。

「一人? とんでもありません。この船には多数のお客様が乗り合わせておられますよ」

「でも、あなた、わたしを見て、初めてのお客様って」

「おや、生きたお客様は初めて、と申し上げたつもりでしたが?」

 当たり前のように言いながら、船長は音もなく立ち上がる。その瞬間、常に耳に聞こえてくる船が揺れる音色とは違う、低く鈍い、何かが軋むような音色がコルネリアの部屋にまで届いてきた。反射的に両腕で体を抱えるコルネリアに対し、船長は両腕を開いて心底嬉しそうに笑いかけてくる。

「ほら、皆様も、フロイラインの乗船を歓迎しておりますよ。ああ、そうだ、今日の夜は盛大にパーティでもいたしましょうか?」

 歓迎? とんでもない。コルネリアはともすれば悲鳴を上げそうになる唇を強く噛み締める。

 今の音は何だ。霧の底から湧きあがってくるような、奇怪な音色。それこそ、死者の呻き声を思わせるような声に、コルネリアの思考は完全に恐怖に塗りつぶされかけていた。

 だが――だが。

 コルネリアは、きっと船長を睨んで、意気を振り絞って首を横に振る。

「いいえ、遠慮しておくわ」

「それは残念」

 しかし、確かにフロイラインもお怪我をしておりますし、無理はいけませんね、と。船長は自分で勝手に納得をしたようで、コルネリアが平らげた食事の盆と救急箱とを手に一歩下がる。

「それでは、私はこれで。水差しは置いておきますので、空になりましたらご連絡ください。その他にも、何か私に御用がありましたらそちらの伝声管をご利用ください。どのようなご用事でも、遠慮はいりませんよ」

 それこそ、世間話でも構いませんよ、と船長は冗談めかして言ったが、コルネリアはその言葉にどう返していいものかわからず、ただ船長を睨みつけることしかできない。

 船長はコルネリアの視線とその意味を正しく受け止めているのかいないのか、慇懃に頭を下げて、よく響く声で言う。

「それでは、まずはゆっくりと、体と心とをお休めください、フロイライン。足の怪我が治りましたら、幽霊船のご案内をいたしましょう」

 ――それでは、また夕刻に。

 短い挨拶とともに、船長はコルネリアの部屋をあとにした。船長の足音が遠ざかり、聞こえなくなった辺りでコルネリアはやっと詰まっていた息を吐き出すことができた。

 船長は、コルネリアに対していたって礼儀正しく紳士的に振舞ってみせるが、しかし、その言動の端々には妙な「芝居らしさ」と、コルネリアには正確に形容できない狂気がちらついている。

 言葉が通じていないわけではない。コルネリアの言い分も、理解されていないわけではない。けれども決定的に、何かが噛み合っていない。

 足は未だ鈍い痛みを訴えていて、その上、目の奥の辺りにも重たい痛みがわだかまっている。コルネリアは、眉間を解しながら、考えずにはいられなかった。

 この幽霊船は、一体、何なのだろうか。

 船長の言うとおり、生者であるコルネリア以外には「幽霊」ばかりが暮らす船なのだろうか。船長には、この船に集う「他のお客様」が見えているとでも、いうのだろうか。

 わからない。なおも、わからないことばかりだ。

 コルネリアは寝台の上に倒れこみ、重たい瞼を閉ざして嘆息する。

 どれだけ話をしたところで――、自分は、ここから出られないのだ。船長の話を総合するなら、どうやら自分が他のお客様の一員になるまで、船長は、自分を離さないに違いない。

 けれど――。

『私の城に生きたお客様をお招きするのは、初めてのことです』

 そう言った船長は、酷く嬉しそうに見えたし、コルネリアに死の可能性を語りはしたが、実際に船長は一度もコルネリアに手を出してはいない。それどころか、コルネリアの怪我を治療して、生活まで保障してくれるのだ。

 船長は、コルネリアの死を望んでいるわけではないのだろうか?

 しかし、何故それならコルネリアを陸に帰そうとしないのか?

「ああ……、本当に。わけがわからないわ」

 船長に対してどれだけの問いを重ねても、コルネリアが求める答えからは程遠く。この旅の終わりも、分厚い霧に覆われていてさっぱり見えやしない。

 もう一つ、深く、深く息をついたところで、先ほど船を震わせた死霊の声が、もう一度だけ、遥か遠くから聞こえた気がした。

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