霧惑海峡の幽霊船
――霧惑海峡。
いつからか、帝国と女王国との間に広がる海は、本来の名ではなく、そんな奇妙な名で呼ばれるようになっていた。
二国間で休戦が締結されるまでは、この海峡を舞台に戦艦や駆逐艦、戦闘飛行艇、そして帝国の人型兵器『
だから、コルネリアが知る限り、ほんの二、三年からのことだ。この海峡を行く船が、霧に巻かれて消えるようになったのは。
元より、嵐が多く、そうでなくとも霧の流れが複雑で、航行が難しいとされる海域ではある。しかし、嵐による遭難、難破とは別に、本当に突如として通信が途絶え、それきり帰ってこない船の話が突如として聞かれるようになったのだ。
消えた船が戻ってきた例は、皆無と言っていい。唯一、ある客船が航路から外れて消えた後、魄霧の海に投げ出されることのなかった幸運な者たちを乗せた緊急脱出艇が、偶然近くの岸にたどり着いたという例があるくらいだ。
しかも、助けられた者たちはほとんど錯乱状態で、
『深い霧の中から現れた「何か」に襲われた』
としきりに繰り返すばかりだったという。
誰一人として、己の乗っていた船を襲ったそれが「何」であるのか、正しく説明できる者はいなかった。ある者は伝承に語られる霧上の巨人であったといい、ある者は耳障りな蟲の羽音を聞いたという。突然、機関室の天井が破れて、次の瞬間に機関部が爆発した、という若い機関士もいた。当然ながら、どの証言も一笑に付されたわけだが。
とはいえ、どれだけ荒唐無稽な噂に満ちていようとも、海峡を渡ろうとする船が霧に巻かれて消えていることだけは事実であり、故に霧惑海峡と呼ばれるようになった。――と、コルネリアは聞いている。
コルネリアが乗っていた客船も、帝国本土東部の港から霧惑海峡を通り、女王国との国境に近い帝国領……コルネリアの故郷へとへと向かうところであり、そこで嵐に呑まれたのだ。それから何があったのかは、コルネリアには知る由もない。
それにしても、霧惑海峡に幽霊船が浮かんでいる、などという噂は、今まで聞いたことがなかった。
この世を遍く覆う魄霧の性質が解き明かされ、世のほとんどの現象が説明できるようになって久しいこの時代、「幽霊」と呼ばれたものは、肉体を失った魂魄が物質界に一時的に焼きつく現象である、と判明している。
しかし、今、コルネリアが立っている場所は、「幽霊船」と称されながら、確かに実体を伴っている。それは、素足から伝わる鈍い痛みと、確かな床の感触からも明らかであった。
ことごとく船が消える禁断の海域を彷徨う、継ぎ接ぎの幽霊船。これでは、まるで荒唐無稽な海洋冒険物語の世界だ。
そして、これまた物語から飛び出してきたような奇妙な風体の男は、数々の装飾品で飾り立てた手を胸の前に寄せて、優雅に一礼する。
「幽霊船の主として、あなたを歓迎します、フロイライン。どうか、その儚くも気高い魂を霧の女神に捧げることだけは、思いとどまっていただきたい」
その言葉に、コルネリアもやっとのことで我に返る。
もしかすると、この男は、コルネリアが思い余って身を投げようとしている、とでも思ったのだろうか。確かに、甲板の縁に足をかけたこの状態では、そう見えてもおかしくないかもしれないが――。
「勘違い、しないで」
コルネリアは、腹に力を入れて、ともすれば震えそうになる声を、精一杯に振り絞る。
「わたしは、死にたいわけじゃない。ただ、あなたが恐ろしいだけよ」
男の表情は、背後に灯る明かりのせいもあって、コルネリアからは影になって全く見えない。ただ、男がコルネリアの言葉を意に介してもいないということだけは、
「愛らしいお顔に、険のある表情は似合いませんよ」
という、的外れにも過ぎる発言で明らかであった。
男は、高らかに足音を立てて歩み寄ってきたかと思うと、指輪が重たげに見える枯れ枝じみた指を、コルネリアの肩に向けて伸ばしてくる。その手を、コルネリアは、反射的に中空で叩き落していた。
「触らないで、近寄らないで、本当に身を投げるわよ」
「ご安心ください。船の主として、お客様を傷つけるような真似はいたしません」
「そんな言葉、信じられるとでも思ってるの?」
頭一つ以上大きな男の顎の辺りを睨むコルネリアに対し、男は髭に覆われた顎を指先で掻いてみせる。
「これは困りましたね。私が女神に誓ったところで、信じてはいただけませんでしょうし……、ああ、それでは」
男の長い指が、虚空を掴むような動作をする。次の瞬間、男の手の中には一振りのナイフが握られていた。突如として現れた凶器に戦慄するコルネリアに対し、男はくるりと手の中でナイフを回したかと思うと、その刀身を摘み、柄の側をコルネリアに差し出す。
「こちらを、どうぞ」
「え?」
「もし、私が少しでもあなたに危害を加える素振りを見せたなら、これで私を刺せばよろしい」
抵抗はいたしませんよ、と言い放った男が、コルネリアの前に膝をつく。そうすることで、すっかり影になっていた男の顔が、やっと、コルネリアからも見えるようになった。と言っても、顔のほとんどはぼさぼさの毛に覆われていたし、前髪の前からかろうじて覗いているはずの目も、分厚い眼鏡に隠れていて、表情を推し量ることはできそうになかった。
何となく、その口元に笑みが浮かんでいると、わかるだけで。
「早速、刺してみますか? お好きな場所をどうぞ」
男は、どこかおどけた調子で言う。
コルネリアは震える手で、男からナイフを受け取った。手にかかるずっしりとした重さが、刀身に踊る煌きが、玩具ではないのだと思い知らせてくれる。
このナイフを男に突き刺せば、悪い夢は覚めるだろうか。男も幽霊船も消え去って、温かなベッドで目覚めることができるだろうか。
――それは、ありえない。
コルネリアは内心で断じた。そして、ナイフの切っ先を男の喉元に突きつけて、唇を開く。
「ナイフは借りておくわ。それから……、話を聞かせて。ここのこと、あなたのこと。それから、わたしを、どうしようとしているのか」
男は、刃が首筋に触れていることにも気づいていないのか、いたって朗らかな声音でコルネリアに応える。
「お望みのままに、フロイライン。しかし、お話の前に、お召し物をご用意いたしましょう。そのままでは、風邪を引いてしまいます」
その言葉に、コルネリアは己が毛布一枚だけで飛び出してきてしまったことを思い出し、今更ながら羞恥に頬が熱くなるのを抑えられなかった。
* * *
一体どこから持ち出してきたのか、男が部屋まで持ってきた服を広げてみる。少し丈の長い、けれど一目で仕立てがよいとわかる、白のワンピース。元々着ていた服は「すっかりぼろぼろになっていましたので」と取り上げられてしまったので、他に着られるものもなかった。
合わせて渡された下着を身につけ、手早くワンピースを纏ったところで、扉が軽く叩かれた。反射的に、サイドテーブルに置かれたナイフを手に取り、その先端を扉に向ける。
「どうぞ」
鋭く声をかけると、男が入ってきた。そして、ナイフの切っ先を向けるコルネリアを高い位置から見下ろして、
「お似合いですよ、フロイライン。夜霧の中になお気高く咲き誇る、夜光花のごとき美しさです」
喜んでよいのかさっぱりわからない、見当違いの賞賛の言葉を降らせてくる。
「……それはどうも」
「お話は、食事をしながらでもよろしいかと思いまして。大したものではありませんが、よろしければご賞味ください」
ナイフを構えるコルネリアに構わず、男は金属製のコップと皿の載った盆を恭しく差し出す。皿の上に載せられているのは、保存食らしい硬そうなパンと、元は缶詰と思しき、肉と豆のペースト。それに、もう一つの皿には、ほとんど具らしい具の入っていないクリームのスープが湯気をあげていた。
「何か、変なもの入ってたりしない?」
「不安でしたら、毒見いたしましょうか」
男は、コルネリアの疑いにも嫌な顔一つせず、澱みなく言い放つ。その堂々とした様子を見る限り、コルネリアの害になるようなものを盛ったとも思えなかった。
こんなことで睨み合っていても仕方ない。コルネリアは「いいわ」とナイフを一旦テーブルに置き、寝台に腰掛けて盆を受け取った。湯気と共に漂う香りは、ここに来て初めて、コルネリアに空腹を思い出させた。
パンをスープに浸して、口に運ぶ。正直な感想を言うならば、そう美味しいものではない。保存食らしい保存食、といったところか。しかし、すっかり空っぽになっていた胃袋は、どれだけ味気のない食事でも、ありがたく受け入れることができた。特に、温かなスープはありがたかった。体の芯から、すっかり冷え切ってしまっていたから。
無心に食事を腹に詰め込んでいるうちに、いつの間にか、男の姿が消えていることに気づいた。そして、手元のパンが全て胃の中に収まるのとほとんど同時に、今度は手に水をなみなみと満たした盥を持って戻ってきた。
「お食事はいかがでしたか?」
「食事というもののありがたさがわかったわ」
それはよかった、と笑う男には、何ら邪気のようなものが感じられない。その一方で、煤けた眼鏡越しの視線は、コルネリアの方に向けていられないようにも見えて、一層不安を掻き立てる。
男はコルネリアの不安になど全く気づいていない様子で、盥を床に置き、腕に提げていた箱から薬や包帯を取り出しながら言う。
「どうか、私めにおみ足の手当てをお許しいただけませんか? そのままでは、更に傷口が開き、悪いものが入ってしまいます」
確かに――、何とか忘れようとしていたけれど、先ほどまで裸足で駆けていたからだろう、足は酷い痛みを訴えていた。先ほどは必死で意識にも上らなかったが、今、こうして一息ついたことで、その痛みが無視できないものになりつつあった。
どう見ても怪しげな男に手当てを任せる、と思うと不安は尽きなかったが、今、手当ての道具を持っているのもこの男だけだ。そして、このまま放置しておけば、床に足をつくこともままならなくなる以上、コルネリアはこう言うしかなかった。
「お願いしても、いいかしら」
「はい、喜んで」
男は、手をごてごて飾り立てていた指輪を無造作に床に転がす。指輪を外したことで、更に枯れ枝の様相を増した指が、コルネリアの片足を恭しく取る。鈍い痛みと、思わぬ指先の冷たさに、コルネリアは軽く息を飲む。
「申し訳ありません、痛みましたか?」
「いいえ、構わないから、そのまま、お願い」
かしこまりました、と男はコルネリアの足を盥の中に導き、ゆっくりと、傷に触らないように洗い始める。裸足を覆っていた血と汚れとが水の中に広がるのを、つい観察してしまう。
「……ねえ、さっき、話を聞かせてくれると言ったわね」
「ええ、何なりと」
「じゃあ、改めて聞かせてもらうけど。ここはどこで、あなたは何者なの?」
男は、コルネリアの足を丁寧に洗いながら、少しだけ顔を上げる。と言っても、男がどんな顔をしているのかは、相変わらず長く伸びた前髪と髭、それに煤けた丸眼鏡に隠されて、コルネリアからは判別がつかなかったのだが。
「先ほども申し上げました通り、ここは船の上、霧惑海峡に漂う幽霊船です。海峡に渦巻く悪しき霧に巻かれ、己の役目を果たすことなく死を迎えた船の無念が集い、形を成したものでございます」
灯に照らされ、夜闇に浮かび上がった船の姿を思い出す。継ぎ接ぎの船を形作るどれもこれもが、全てこの海峡で消えた船の残骸だというのか。あまりの荒唐無稽さに眉を顰めるコルネリアに対し、男はコルネリアのもう片方の足を冷たい指で包みながら、淡々と話を続ける。
「そして、私はこの船の主。海を往くしか能のない、しがない亡霊でございます。己を示す名はありませんので、ただ『船長』とお呼びいただきたく」
「船長……?」
男――船長は、コルネリアに呼ばれたとでも思ったのだろうか。「はい」と、髭に覆われた口元が朗らかな笑みを象ったのは、流石にコルネリアにもわかった。
「いやはや、私の城に生きたお客様をお招きするのは、初めてのことです。生来の粗忽者ゆえ、大したおもてなしもできませんが、ご容赦いただきたい」
どこかおどけた風に言いながら、船長はコルネリアの足を洗い清めて、あらわになった傷口に消毒液らしきものを振りかける。途端、今までの鈍い痛みとは違う、鋭く染みる痛みが走り、思わず小さな呻き声を漏らしてしまう。すると、船長ははっと顔を上げ、一瞬前に見せていた陽気な調子から一転、細長い体を縮めて情けない声を上げる。
「失礼いたしました、フロイライン」
「ううん、大丈夫。えっと……、ありがとう」
感謝の言葉は、無意識に唇から零れ落ちていた。
この男を怪しむ気持ちが消えたわけではない。己を亡霊と名乗り、幽霊船の主と豪語する男の正気を疑わない理由など、どこにもない。
だが、この場に流れ着いたコルネリアに何をするでもなく――そう、服こそ全て脱がされてはいたが、乱暴をされた形跡は全くなかった――温かな食事を用意して、丁寧に傷の手当てをしようとしているのも確かだ。それに対して、何一つ礼を言わずにいるのは、いたたまれないものがあった。
一方で、どうしても、確かめなければならないことも、あった。
「ねえ、船長」
「何でしょうか、フロイライン?」
「ここに流れ着いたのは、わたし、一人なのよね」
「ええ、残念ながら」
船長の言葉は、まるで「残念」と思っていないことがよくわかる、酷く軽いものであった。もしかすると、己を亡霊であると自称するこの男にとって、人の死など意識するまでもないことなのかもしれなかった。
だが、コルネリアにとっては、そうではない。
死の気配は、瞼の奥にちらつく赤い色を思い出させる。赤い部屋に、赤い床、むせ返るような鉄錆の匂い。そして、赤一色に染め上げられた世界に立ち尽くす、白い――。
遠い日の幻影を首の一振りで打ち払い、身の内から自然と湧き出る震えを理性の力で抑え込みながら、コルネリアは、男を見据える。内心の弱気を悟られないよう、真っ直ぐに。
「じゃあ……、わたしを、ここから帰してくれる? わたしの、故郷に」
船長は、コルネリアの白い足に包帯を巻く手を一旦止め、ゆるりと、顔を上げた。その面に映る表情を、コルネリアが見て取ることはできなかったけれど。
「申し訳ありません、フロイライン。しかし、私もまた、死んだ船を束ねる一介の幽霊に過ぎません。生者をあるべき場所に返す術は、私にはありません」
その声は、虚ろに響き渡った。
コルネリアは、ほとんど反射的に船長の手を蹴飛ばしていた。枯れ枝のような手から包帯が放れて、床に白い軌跡を描いて落ちる。
「それじゃあ、わたし、もう二度と帰れないの……?」
ほとんど言葉にならないほどに震えた声を、しかし、船長は正しく聞き取ったに違いない。
「ええ」
と、残酷なまでに、きっぱりと頷いてみせるのだ。
「とはいえ、あなたはこの船のお客様。あなたの心行くままに過ごせるよう、尽くしてゆきたい所存でございます。どうか、私めに何でもお申し付けいただきますよう」
「そんなの、何も嬉しくないわ!」
コルネリアは、全身に力をこめて悲鳴を上げる。しかし、船長には悲鳴の意味も理由もろくに伝わっていなかったのか、「困りましたね」と首を傾げるだけだ。ぞろり、と伸びきった髪と髭が不気味に揺れる。
「しかし、他に私にできることといえば、あなたを私の仲間に引き入れて差し上げることくらいなのです、フロイライン」
仲間。己を「亡霊」と称する船長の仲間、ということは。
「それは、わたしを殺す、ってこと?」
「ええ。あなたが望みさえすれば、痛みも苦しみもない、安らかな眠りをご用意いたしましょう。それとも、痛みと苦しみに満ちた眠りがお好みでしょうか。人の好みはそれぞれですからね、私に可能な限り、ご希望にはお応えいたします」
夕食の献立を述べるかのごとき気安さで死について述べるこの男は、やはり、どう考えてもまともではない。どれだけ朗らかに振舞ってみせても、コルネリアに対して丁重な姿勢を崩さなくとも、根本的に頭の螺子が緩んでいることだけは、間違いない。
この狂人に対して、コルネリアはどう答えてよいものか、全くわからなかった。
今、コルネリアはこの男と二人きり。手の届く位置に一振りのナイフこそあれど、激しい痛みを訴える足と、この非力な腕では、頭一つ以上大きな男の胸板を貫くことなどできやしない。下手に逆らって船長の逆鱗に触れるようなことになれば、その時点でコルネリアには全く太刀打ちできないのだ。
仮に、奇跡的に、この男をコルネリアの目の前から排除できたとしても。
コルネリアが、この奇怪な幽霊船から出られない、という事実は変わらないのだ。
故に、今ここでコルネリアに言えることは、たった一言だけだった。
「考えさせてちょうだい」
「かしこまりました、フロイライン。あなたのお望みのままに」
――お望みのままに。
コルネリアは唇を噛んで、船長を睨まずにはいられない。
帰ることができない、と断言されてしまった以上、一体何を望めというのか。
船長は陽気な鼻歌すら歌いながら、落ちた包帯を拾い上げて、コルネリアの足に巻いてゆく。やがて、その小さく華奢な両足がすっかり包帯に収まったのを確かめ、船長はゆっくりと立ち上がった。
「優しき魔女に愛された少女の、銀の靴には程遠いですが。傷が癒えるまでは、どうか、ご無理はなさらぬよう」
高い位置から降り注ぐ声に、コルネリアは唇を噛み締めたまま、勢いよく顔を上げる。
不気味で不可解な幽霊船長は、髭に覆われた唇を笑みにして、ただただ、愉快そうに笑っていた。
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