彷徨舞弄のファンタズム

青波零也

The Legend of the Romancer on the Ocean

揺れる、世界

『コルネリア』

 蜜のように、毒のように、甘く響く声。

 太く硬い指が両の肩に食い込む痛みに、つい、小さな声が漏れてしまう。

 しかし、膝を折り、少女に視線の高さを合わせた男は、そんな少女の苦痛にも気づいていなかったに違いない。男の目はすっかり充血し、眉間には深々と皺が刻まれ、顔のあちこちが酷く引きつっていて、紛れもなく「正気を失った」顔であった。

『コルネリア』

 もう一度、男が少女の名を呼ぶ。

『パパがいいと言うまで、扉の外に出てはいけないよ』

 そのとき、男に頷き返したかどうか、今となってはさっぱり思い出せずにいる。その時の男の顔も、少女がいた玩具箱のような部屋も、部屋に似つかわしくない分厚く重たい扉も、細部にいたるまではっきりと思い出せるというのに。

 その時のことだけが、まるで日記のページを破ったかのように、ぽっかり抜け落ちている。

 次に思い出すことができるのは、開け放たれた扉と、その向こうに広がる赤い色。

 そして、その中心に佇む――。

 

 

          *     *     *

 

 

 コルネリア・ハイドフェルトは、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。

 ぼやけた視界に映るのは天井だった。知らない、天井。

 天井から吊られたランプは記術スクリプト仕掛けであるらしく、炎のそれとは違う、薄青とも緑ともつかない柔らかな光を投げかけながら、ゆらゆらと頼りなく揺れている。

 ――揺れて、いる。

 揺れているのは、何もランプだけではないようだ。コルネリアが横たわる寝台が、否、この狭い部屋全体が、鈍く軋む音を立てながら、ゆっくり揺れているということを、体にかかる違和感で察する。

 湿った空気を吸って、吐いて。

「ここは……、どこ?」

 朦朧とする頭を軽く振って、上体を起こす。かけられていた毛布が肩から落ちて、柔らかな胸があらわになる。白い肌のあちこちに走る傷痕を見下ろしながら、何とか、このような場所にいる理由を思い出そうとする。

 船。そうだ、意識を失う前は、確かに船に乗っていたはずだ。しかし、嵐に呑まれて船が転覆し、そして――。

 ぎぃ、と。一際大きな音が耳に飛び込んできたことで、のろのろとした思考が遮られる。

「お目覚めですか、フロイライン?」

 突然、投げかけられた意味のある言葉に、慌てて胸の前に毛布を持ち上げて、そちらに視線を向ける。

 きっちりと閉ざされていた金属製の扉がいつの間にか開いていて、そこには一人の男が立っていた。

 ぼさぼさに伸びた髪に、口元をすっかり覆って顎から垂れ下がる、ろくに整えられていない髭。酷く細長い手足も相まって、荒れ野に一本だけ生えた枯れ木を思わせる、みすぼらしい男だ。

 そんな男が身に纏っているのは仕立てのよいシャツと上着、それに金属の釦が煌くずっしりとした外套で、よく磨かれているのだろう、靴もぴかぴかに輝いている。

 ただ、服のサイズが合っていないのか、上着の丈や裾があまりにも短かったり、すっかり足首が見えてしまっていたりと、ちぐはぐさがコルネリアの不安をあおる。

 どれだけ記憶を探ってみても、こんな奇天烈な男を、コルネリアは知らない。

 無意識に呼吸を止めて男を見上げていると、男は、いくつもの指輪をつけた節くれだった指で、煤けた丸眼鏡をくいと持ち上げる。前髪と髭に覆われて表情は定かではないが、その口から飛び出したのは、妙に芝居がかった言い回しだった。

「いやはや、驚きました。嵐が過ぎ去ったかと思えば、可憐なお嬢さんが流れついていたのですから。さながら、迷霧の人魚姫といったところでしょうか」

「流れ……、ついていた?」

 コルネリアは、つい、男の言葉を繰り返してしまう。まだ、頭が上手く働いてくれない。目の前の男が、あまりにも現実からかけ離れていて、呆気に取られていた、ともいえた。

 男はそんなコルネリアの反応を意にも介さず、大げさに長い両腕を広げて天井を仰ぐ。

「あなたは、よほど女神に愛されているのでしょう。あれほどの嵐に呑まれながら、怪我一つなかったのですから。ああ、女神よ、ミスティアよ、ご照覧あれ! あなたの愛が今まさに、一人の少女を救ったのです!」

 ごうごうと鳴り響く風。体に叩きつけられる大粒の雨。遠くから聞こえる雷の音色。コルネリアの体は確かに嵐の激しさを記憶していて、それでいて柔肌に新たな傷は一つもないことも、自分自身で理解できていた。

 けれど、けれど。

「待って」

 創世の女神ミスティアと、コルネリアへの賛辞をただひたすらに並べ立てようとする男を、無理やりに遮る。すると、天井に向けて喋りかけていた男は、ぐるうりと頭をめぐらせて、コルネリアに顔を近づける。生ぬるい息が顔にかかるほどに。

 つい、寝台の上で身を引いてしまいながらも、ここで黙っていては何も始まらない。男を睨めつけて、口を開く。

「ねえ、わたしの乗っていた船はどうなったの? パパは? ねえ、皆はどこ?」

 その問いに、男は、ぴたりと動きを止めた。

 玩具のぜんまいが切れたかのごとき、あまりにも不自然な静止。しかし、それはあくまで一瞬のことで、男は長い前髪に覆われた額を押さえて、ゆるゆると首を横に振る。

「流れ着いたのは、あなたただ一人ですよ、フロイライン」

 ただ、一人。

「船も、他の乗客も、何一つ見つけることは叶いませんでした」

 コルネリアは、その言葉に、強く唇を噛む。胸の中を渦巻く感情が、どれだけ表情に出ていただろうか。男は、眼鏡越しにじっとコルネリアを見つめたかと思うと、よく響く声で嘆きだす。

「何という不幸でしょう。しかし、これもまた女神ミスティアの思し召し」

 ぎり、という鈍い音が響く。それは、男が歯を噛み締めた音であった。

「おお、ミスティア! 何故あなたは、このいたいけな少女をただ一人取り残したもうた! その万能の手で、全てを救おうとしなかったのか! 人の情を持たぬもの、冷酷なる霧の神よ!」

 先ほどまで賞賛を述べ立てていた口が、打って変わって女神への怨嗟を並べ立てる。コルネリアからその表情をはっきり窺うことはできないが、全身を使って表されているのは、紛れもない「怒り」の感情だ。

 床を踏み抜くのではないか、と見ているコルネリアが不安になるほどの強さで床を蹴った男は、コルネリアではなく、あらぬ方角を振り仰ぐ。

「女神! 気まぐれな女! その手で創ったものを、どれだけ顧みたというのか! 海に沈みゆくものを、せせら笑ってきたというのか! 私はあなたを恨むぞ、女神ミスティア! この声があざ笑うあなたに届くまで、呪い続けてやる!」

 大きく開かれた口から放たれるのは、哄笑。コルネリアの存在などすっかり忘れてしまったかのごとく、狂気に満ちた声が狭い部屋にわんわんと響き渡る。

 ――この男は、おかしい。

 背筋に冷たいものが走り、全身に鳥肌が立つ。ただでさえ混乱する意識は、自分自身の境遇に思いを巡らせるよりも、今、目の前にいる男に対する本能的な恐怖に駆られていた。

 そう、これは恐怖だ。いつしか忘れかけていた、理性とは無関係に湧き出る、身の凍る感覚。

「……っ!」

 いても立ってもいられず、寝台から立ち上がり、男を肩で突き飛ばして部屋の外に飛び出す。「おや」という間の抜けた声が頭の上から降ってきた気がしたが、気に留めてなどいられなかった。

 今すぐ、この場から離れなければ。その思いだけが、コルネリアを闇雲に走らせていた。

「フロイライン、どこへ行くのです?」

 調子の外れた声が、追ってくる。高く響く、靴音も。

 コルネリアは裸足のまま、毛布一枚だけを身に帯びて走り続ける。どこかに足を引っ掛けてしまったのか、踏み込むたびに酷く痛みはじめたが、足を止めるわけにはいかない。

 ここは何だ? あの男は何だ? 一人だけ助かった、と言っていたけれど、その言葉を信じてよいのか?

「舞踏会は始まったばかり、零時の鐘には早すぎます。どうか足を止めてください、フロイライン」

 背中から投げかけられる声に、コルネリアは荒い息を飲み下す。枯れ枝のような手に捕まり、長い腕で絡みつかれれば、振りほどくこともできないはずだ。その後、どのような目に遭うのか、考えることもおぞましい。

 錆び付いた金属の階段を、数段飛ばしで飛び降りる。痛む足では上手く体重を支えられずに、床に転がってしたたかに体を打ちつけるが、歯を食いしばって痛みを堪え、膝をついて立ち上がる。

「銀の靴もないというのに、どこまでも駆けてはいけますまい。それとも、この先に天蓋へと飛び立つ翼が待っているとでも? いけません、いけませんよフロイライン。その翼は紛い物、霧に溶けてばらばらに崩れ去る運命です」

 背中から聞こえてくるのは、コルネリアも知っている御伽話や神話を継ぎ接ぎした言葉だ。こんなもの、コルネリアの足を止める理由にはならない。

 逃げて、逃げて。どこへ行こうというのか?

 そんなもの、コルネリアにわかるはずもない。ここが一体どこなのかもわからないのだから。ただ、あの男に捕まってはならない。背後から迫る男に対する恐怖だけが、足を、ひたすらに前に押し出していく。

 狭い通路を足を引きずりながら駆け抜けて、目の前に立ちはだかる扉を乱暴に開け放つ。やっと、視界が開けた――と思った、その時。

「危ない!」

 突如として、耳に飛び込んできた鋭い声に、コルネリアははっと立ち止まる。

 そして、今までの芝居がかったそれと同じものとは思えなかった警告が、決して、コルネリアの足を止めるための嘘ではなかったことを、一拍遅れて理解する。

 踏み出しかけたそこに、足場はなかった。

 コルネリアの立つ床の先には、光一つ見えない昏い闇が広がるばかり。否、よくよく見ればそうではない。足元に広がるのは闇ではなく、音も立てずに寄せては返す、魄霧の海だ。夜霧を満たした海は、何もかもを飲み込む闇そのものとして、コルネリアのすぐ足元に広がっていたのだった。

 そこで、初めて、コルネリアはゆっくりと振り返った。

 追跡者は、コルネリアが飛び出した扉の前、コルネリアから数歩離れた場所に立っていた。そのひょろりとした長身を見上げると同時に、男の背後に築かれた「それ」に気づくことになる。

 壁や階段に灯された、夜霧を淡く照らす『霧払いの灯』によって浮かび上がる輪郭は、酷く歪な城塞を思わせた。だが、それが果たして正しい認識でないことは、目を凝らしてみればすぐにわかった。

 ところどころが壊れて、骨組みがあらわになっている客船に、めりこむように存在する飛行艇の尾。壁に小型霧上艇の船底が露出しているかと思えば、ところどころから飛び出る羽は、複葉艇のそれだ。コルネリアと男が立っているのは、半ばですっかり折り取られた「甲板」で。視界の中で一際高く突き出した塔は、戦艦の監視塔だろうか。

 その全てが、灯火に照らされて、揺れている。何かが軋むような音を立てながら。コルネリアが常に感じていた、足元の不安定さを改めて思い出す。

 そうだ、これは――船、だ。

 いくつもの船を継ぎ接ぎした、異形の船。

 

「ああ、麗しきフロイライン」

 

 夜闇に黒々と聳える「船」を背景に、男は、両腕を広げて高らかに宣言する。

 

「ようこそ! 私の城、霧惑海峡の幽霊船へ!」

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