第2話 混乱・決意・開始(2)

 結論から言えば、これはたちの悪い夢なんかでは無かった。

 

 目が覚めて少しの間、僕は真っ白い天井を見つめていた。

 自分のアパートの天井によく似ている、というわけも無く、気絶する前の違和感は拭えないままだ。


「目が覚めたみたいですね」

 僕はその声に応えるでも無く、ゆっくりと辺りを見回す。

 清潔感のあふれる室内には、小瓶が所狭しと並べられたガラス戸の棚や、いくつかのベッド、そして見覚えのある医療用器具やらが置かれたカートが見て取れた。


「病院?」

「いえ、医療専用車両です。列車ですよ?」


 そこでようやく、僕は声のする方をふり向いた。


 優しげな笑みを浮かべる、女性だ。

 色素の薄い鳶色の長髪は、光の加減で薄い桃色にも見える。

 手入れされていないのかごわついて見えるその髪は、整った顔立ちには、意外にも似合っていて、どこか疲れたような印象があった。


 端的に言えば、美女だ。


 けれど、今はそんなことに感動している場合じゃ無い。

「列車……れっしゃ……?どうして?」

 だんだんと鼓動が早くなっていくのを感じる。

「どうして、と言われましても。目的地はそれぞれ違いますからね……」

「そうじゃなくて……」


 僕は首の痛みに呻きながら、上体を起こした。

「あり得ない。おかしいですよ……こんなの」

 額を押さえる指の隙間から、彼女が興味深げにこちらを覗いているのが解った。

「僕は、その、ついさっきまで自分の部屋にいたんです。自分の部屋でゲームをして、ベッドの上でうたた寝して……けど気づいたら、ここに。何が起きてるのか、さっぱりで……」


「おそらく、記憶喪失でしょうなあ」

 突然、背後でやけにしわがれた声が聞こえた。


 反射的に振り向く。首の痛みに顔をしかめつつ、見るとそこには白衣の男が立っていた。

 声に違わず、無精ひげと乱れ髪をくっつけた、この部屋にはやけに似合わない姿だ。

 けれど服装からして、きっとこの男が医者なのだろう。


「いわば解離性健忘。そして、記憶の混濁も見られる、と……」

「は……?」

 愕然とする。

「馬鹿な!」

 僕は自然と声を荒げていた。

「そんな訳あるか!寝る前のことははっきり覚えてる!昨日のことも、先週のこともはっきりと……!」


 そこで、僕はまたしても首を押さえた。無視できない痛みだ。

「くそ、なんで……首がすごく……痛い」

「それは……さっき気を失って倒れた時に、強く打ったからですね……」

 さっきの美女が眉をひそめて、心配そうにつぶやいた。

「おそらく、それが原因でしょうな」

「違う……違います。信じてください。僕は正常だ……」


 医者はベッドのそばに立つと、しごく申し訳なさそうに目を伏せた。

「お辛いでしょう。ですが、記憶の混濁とはそういう物です。やけに周囲が異常に見え、世界から取り残されたような孤独を感じる。残念ですが、ここの設備ではきちんとした治療はできません。都市部の総合病院を受診するのをお勧めします」


「そんな……」

 全身から力が抜けていった。まるきり聞く耳を持たないことに、呆然とする。

 抵抗しようにも、僕がいたって正気だという証拠はどこにも無く、まともな答えは見当たらない。


 一体、どうすれば。


「……その、とりあえず顔を洗ってきてはどうでしょうか。少し気分もよくなるかもしれません」


 僕は力なく立ち上がった。促されるままに、男性用のトイレに向かう。

 扉を開けた。いくつかの個室が並び、側面には大きな鏡と洗面台が2つ取り付けられている。


 列車にしては広いトイレだ。と、半ば諦めが支配する頭で思った。

 うつむきながら蛇口に近づき、レバーを上にあげる。

 手をお椀の形にして、溜めた水を勢いよく顔にぶつけた。いやに鉄くさい水だ。


 先ほど受け取ったタオルで水気を拭う。と、そんな中で僕の頭には一つの疑問が浮かんだ。

「医療専用車両?」

 そんなもの、日本のどこの列車にあるんだ?


 そういえば、気絶する直前に窓から見えた景色は、一面の荒野だったはずだ。

「日本……じゃないのか?」

 疑問が解決しないままに、僕は顔を上げる。


 そして、絶句した。


 顔を洗ったばかりだというのに、額からは冷や汗が吹き出した。

 目前には鏡がある。当然、そこには自分の顔が映るはずだ。

「な、な、なななな、な……」

 それは、見飽きた顔とはほど遠いものだった。

 黒い短髪。青い瞳。えらく整った、およそ日本人には見えない顔立ち。

 僕は震える手で自分の顔を触ってみた。

 ひんやりとした手の感触がのこる。


「何が、起きてるんだ……?」

 僕は、目覚める前とは打って変わって、全くの別人になってしまっていた。

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