Epilogue

T

「……長、団長」

「ん、ああ、なんだ、ロシか」

 細い視界の先、先程からそこに映っていたはずの青年の姿を確認して、ティアは間の抜けた声を漏らした。

「なんだ、じゃないですよ。もっとちゃんと仕事してください」

「今日の分は終わらせた。そもそも、戦争が終わって以降、大して書類仕事も無いだろう」

「なら、僕の分を手伝ってくださいよ。いつもそうだったでしょう」

「いつもながら、それを声高に言える神経は理解できないな」

 呆れを含んだ息を吐くと、ティアは再び背もたれに寄りかかる。

「と言うか、手伝ってくれないなら帰ったらどうですか? こんなところで時間つぶしてても時間の無駄ですし、僕のやる気にも影響します」

「最後のは、お前が出て行けばいいだけだろう」

「だって、ここが一番仕事しやすいんだから、仕方ないじゃないですか」

 拗ねたように口を尖らせるロシを横目に、ティアはゆっくりと腰を上げる。

「まぁ、たしかに、仕事も済んだのにここにいても仕方ない。帰るとしよう」

「え、帰っちゃうんですか?」

「お前が帰れと言ったんだろう。わかってるだろうが、戸締まりは頼む」

 魔術剣レーニアを腰に収め、扉に手を掛けると、それ以上ロシも引き留める事なく、ティアはそのまま騎士団長室を後にした。

「…………」

 誰と出会うでもなく、ただ無言のままに歩を進めるティアの表情は、少しでも彼女を知る者が見れば、明らかに不機嫌だとわかるもの。

 アルバトロス・フォン・ヴィッテンベルクとヨーラッド・ヌークスによる決闘がヨーラッドの逃走で終わった翌日、ウルマ帝国はその代表を通して、正式にマレストリ王国への降伏と、王国がそのまま受け入れるだけの額の賠償金の支払いを表明していた。

 大魔術師アルバトロスの力に恐れをなした為、自国の切り札であったヨーラッドが決闘以後そのまま姿を消してしまった為、あるいは丁度タイミングが合っただけ、など、ウルマの降伏について今も国内で諸説が飛び交う中、しかしティアはその真相を知るであろう人物と、ここに至るまで会話を交わす事ができていない。

 なぜなら、ティアの知る限りもっとも事態を把握していたであろうニグルは、他でもないヨーラッドを隣に携えた姿をティアに見せたあの時を最後に、忽然と姿を消してしまっていたのだから。

「……っ、っ」

 すでに街の中、剣の柄へと触れていた事に気付き、慌てて手を離す。

 戦争の終わった今、だが、だからこそ、ティアは自身の精神が酷く不安定であると自覚していた。兄であるアーチライトの死に加え、その辛さを和らげるべく支えとなってくれていたニグルの突然の失踪。そして、否が応でも気付いてしまった、自身が気を紛らわすために戦場に没頭していたという事実。それら全てがティアを揺るがせ、狂わせていく。

「あれ、は?」

 自宅とは異なる方角、意図せず足の向いていた先に、忘れる事の出来ようはずのないヨーラッドの仮面が見えた気がして、開いていただけの目が一度、大きくまばたきをする。

「……まったく、病んでいるな、私は」

 だが、開けた視界の先、鮮明な世界に白い仮面はなく。自分が幻覚を見るほどにヨーラッドを求めているという事実、その理由をティアは探し始めていた。

 兄の復讐の為? それともただ解けそうな心を戦いで繋ぎ止める為? いや、あるいは兄を殺したヨーラッドに、自分もまた殺される事で救いを見出そうとしているのか、なんて破滅的な考えまで頭をよぎり、ティアの口元に自嘲の曲線が刻まれる。

「…………いや」

 その曲線は、だがひどく怠慢な速度で直線へと引き戻された。

 あえて探すでもない視界の中、消えたはずの仮面が、再び姿を現し、また消え、そしてまた現れる様は、一つの事をティアに告げる。

 白の仮面は、ただ角度や他の通行人の位置により見え隠れしていただけ。そんな簡単で当たり前の事に気付くまでに、今のティアは数秒もの時間を必要としていた。

「っ、待てっ!」

 そして、気付いたと同時に上げた声は、周囲の視線を一手に引き寄せるほど大きく。仮面に全身黒装束の後ろ姿は横の路地に消えていってしまう。

 注目を集めている事など欠片も気にせず、その後を追ったティアは、またも角を曲がろうとする黒装束を直前で視界に収める。

「こ、このっ!」

 次の十字路も、その次も、計ったかのようなタイミングでほんのわずか姿を見せる仮面の人影に、遊ばれているとしてもティアはそれを追い続ける事しかできなかった。

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