序章 ~08~
「馬車の護衛兵のところまで、殿下を頼む」
「は、はい……」
慌てて頷いてシャルルのあとに続く。
黙って歩いているシャルルをうかがいながら歩く亜子は、自分がこのあとどうなるのかと必死に考えた。
この真っ赤な髪はどうなるのか……尖った耳。それに、尻尾……。
(あたし……なんだろう。バケネコ?)
亜子の国には「妖怪」というものが存在するとされている。とはいえ、誰も姿を見たことはない。
その中に、化け猫というものが存在している。三叉にわかれた尻尾を持つ、主人の仇を
背後を振り返る。マーテットにはトリッパーの話をほとんど聞けなかった。
(あたし……もう人間じゃないの……?)
恐怖と不安に心を支配されながら、亜子は前を向いて歩き出した。
嫌な気分だった。運命は、自分にさらなる過酷な風を吹かせようとしているのではないかと思えてならなかったからだ。
*
シャルルの馬車に再度乗り込んだ亜子は、マントをゆっくりと取って、シャルルに返した。
「あの、ありがとうございました殿下」
「…………」
彼は頬杖をついてこちらを
「数分間だけなのか?」
「え?」
「元の姿だ」
ほれ、と指差され、亜子は慌てて前髪を引っ張って視界に入れる。赤茶の色に戻っている。
尻尾もなくなっている。耳も尖っていない。
安堵している亜子は恥ずかしくてもじもじしてしまった。
だがシャルルは愉快そうに見てくるだけだ。
(も、もしかして殿下って……けっこう意地悪?)
話しかけてもいいものやらわからなくて黙っていると、シャルルがフンと鼻を鳴らした。
「やはりトリッパーなのだな、おまえは」
「え……?」
「実在するトリッパーに会ったのは初めてなのでな」
「そ、そうなんですか……?」
「嘘を言う必要性もあるまい?」
「そ、そうですね……」
そう……。
(あたしは……あたしは……)
モドレナイ。
強烈な飢餓感のようなものが襲ってきて、思わず自身の喉に手を
記憶が、曖昧。そして、妙な姿に変わる肉体。これがトリッパーだというのか? 来たくてこの世界に来たわけでもないのに。
理不尽を通り越して吐き気が湧き上がってきた。
意識が……闇に沈んでいった……。
*
薄い冊子を亜子はめくっていた。あの白い部屋の中で。
部屋は闇に包まれ、亜子の視線は格子のはめられた窓に向けられる。見える空には月。地球と変わらないその様子に、だが、亜子の心臓がどくんと大きく鳴った。
肉体の内側から強烈な力が沸き上がり、髪がざわめく。赤茶の髪が燃えるような炎色に染まり、瞳が月を
「う、あ、ぁ……」
亜子は急激な肉体変化に意識がついていかない。爪が長く伸び、
ハッとして
「うなされておったぞ、アガット」
「……で」
「で?」
「殿下……」
「そうだが?」
またも気づいて亜子は彼から距離をとろうとして身をよじった。途端、壁にぶつかって鼻をしたたかに強打した。
そこは亜子がいるようにと
手枷はいつの間にか
「低い鼻がさらに低くなったのではないか?」
「ひっ、ひど……!」
鼻をおさえながらシャルルのほうを見ると、彼は室内にいつの間にか
「で、殿下……? そういえば、なんで殿下が?」
「昨日、馬車の中で気を失ったのを憶えていないのか?」
「え……?」
「余の屋敷に連れ帰るのは許されなかったゆえ、仕方なく余から来てやった」
「……いつから?」
「そうだな……」
シャルルは少々考えるように
「一時間ほど前だな」
「ひっ! 起こしてください!」
寝顔をずっと見られていたのだと思うと恥ずかしい。真っ赤になる亜子とは違い、シャルルの態度は変わらない。
「なぜ余が?」
「……いえ、それは、だって……」
「いや~、殿下ぁ、いくらトリッパーとはいえ、相手は女の子っしょ?」
もう一つの声に亜子は驚いた。部屋の隅にひょろりとした男が立っている。丸眼鏡の彼は、たしか……。
(マーテット……さん?)
白い軍服の上に白衣を着ているし、髪は相変わらずぼさぼさだ。
こうして明るい光にさらされた室内で見れば、マーテットは明らかに小汚いイメージまで受ける。だが彼なりに身なりは整えてきたのか、昨日のだらしない様子は少しない。
ドアを開けて昨日会った女医が入ってきて驚いて動きを止めた。
「こ、これは、あの」
「ああ、気にしないで。お忍びなんでね~」
にっこり笑うマーテットに女医は
女医の女性は亜子に近づき、視線を合わせてくる。
「肉体変化のほうは、報告を受けたわ。トリッパーとして登録は完了したから、あとは職業登録だけよ。
猶予は一週間。滞在場所は下町の西区よ。一番治安がいいわ。中央広場で乗合馬車を降りて、案内させるから」
「あの……一週間後まで、なんですよね?」
「そうね。正確には6日後ね。迎えが行くから、道順を覚えるのよ」
親切に微笑する女医が腰をあげて部屋を出て行ってしまい、亜子は不安に顔を
建物を出るとそこには一台の馬車が待っていた。亜子が乗るべき馬車だろうか? それにしては豪奢すぎるというか。戸惑っていると、シャルルがずんずんと歩いてこちらを振り返った。
「なにをしている。行くぞ」
「え……あの、ついて来てくれるんですか?」
「行くのは余の屋敷だ」
…………え?
目を剥く亜子の横を通りながら、マーテットが「へへっへ」と奇妙な笑い方をする。
「まあ諦めるんだなー。下町にはあとでおれっちが連れていってやるよ」
とんとん、と白い階段を降りていくマーテットの後ろ姿を眺め、亜子は意を決して歩き出した。
そうだ。歩き出さなければ……結局前へは進めないのだ。
*
亜子にはこちらの世界の衣服一式が用意されていた。とはいえ、これは6日限定の衣服らしい。職業登録を済ませたら、まず賃金を与えられ、そのお金で職業に相応しい衣服を自分で揃えなければならない。らしい。
下町の住人の平均的な衣服は軽く、また質素で、明らかにシャルルやマーテットの着ているものとは生地の質が違っていた。あっという間にぼろ雑巾になってしまう類いの布だろう、自分のものは。
薄い冊子を片手に馬車に揺られていた亜子は、向かい側に陣取るシャルルを見た。
亜子の隣に座っているマーテットは代わりに上機嫌で、こちらを時々楽しそうに見てくる。……正直、勘弁してもらいたい。
馬車がついたのはかなり時間が経ってからだった、と思う。時計がないので正確にはわからない。
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