序章 ~07~

「アガット……? へぇ。短縮しにくい名前だなぁ」

 うんうんとうなるマーテットは、ぽん、と掌を打った。

「そうだ。アトにしよう!」

「……おまえは勝手に他人の名を改ざんする趣味もあるのか?」

 シャルルが冷ややかに問うと、マーテットは「まあね」とうなずく。

「そのほうがぐっと親しみが増えるっしょ。殿下もやってみたらいかがっスか?」

「悪いがそういう趣味はない」

(……なんか、殿下はあまり機嫌が良くない……?)

 さっきから少しも笑わないし、表情が冷たいままだ。不穏な空気を感じる。

 亜子はマーテットを不安そうに見た。彼はこちらの戸惑いに気づいたのか、シャルルを見下ろす。

「そういえば……じゃあ殿下はなにしにここに?」

「トリッパーのことを知りに来た」

「こんな夜更けに!? いくらなんでも無茶っスね!」

「余は即断即決派なのでな」

「…………オッスの旦那が困るわけだ……」

 ぼそりとらしたマーテットの言葉がはっきりと耳に入る。亜子は今度こそ目を見開いて、顔を強張らせた。これは明らかに肉体変化が起こっている……!

(二人に隠し通せる……?)

 ごくりと喉を鳴らす。それでも二人に気づかれないように、だ。

 やれやれとマーテットは肩をすくめた。

「賢い皇子殿下。それがどういうことを意味しているのか、わかっていらっしゃってるので?」

「わかっている」

「あなたは自分の命をさらに危険にさらすと?」

 え? 危険?

 亜子は仰天してシャルルを見つめた。彼は剣をさげ、小さく笑う。

「元々、王宮内とはそういうものだ。馬鹿なふりをするのも疲れるものだぞ、アスラーダ」

「…………」

 マーテットは眼鏡の奥の瞳を細めた。

「あー、やだやだ。……殿下ぁ、隠し事をするのはやめてくださいよぉ」

「余は秘密主義である」

 尊大に言い放つシャルルは不敵な笑みを浮かべる。どきりとする亜子は、もやもやしたものも同時に感じてしまう。

(あたし……そういえば王子様のこと、なにも知らない……)

 この世界のことも。この人のことも。

 まずはそこから学ばなければならない。悲嘆に暮れることはいつでもできるのではないか? そう思ってしまう。

 ぴくん、と亜子の耳が物音をとらえた。

「殿下!」

 鋭く言い放った次の瞬間、亜子は彼に体当たりをしていた。腕に自由がきかないため、それくらいしかできなかったのだ。

 椅子ごと倒れかけたシャルルを支えたのはマーテットだ。彼ら二人は驚いていた。

 亜子が倒れた場所は今までシャルルが座っていたところだ。そこに鋭いナイフが突き刺さっていた。つまり、亜子の左腕に。

 焼け付くような痛みに亜子は「うぅ」と洩らし、体が震えた。

「アスラーダ! デライエ!」

 シャルルの号令でマーテットがドアを開け放つ。ドアの外では戦いになっていた。ドアの前に居た男が穴をけ、そこからナイフを放ったらしい。

 小柄な男は悲鳴をあげてマーテットを見上げた。眼鏡を押し上げる彼は、非情な顔で告げた。

「死ね」

 刹那せつな、ぐずり、と男の身体からだが崩れ落ちる。まるで土くれのようにぐちゃぁ、と崩れていった。

 デライエは交戦中だった。彼は身をかわし、なにやら魔法らしきもので相手を圧倒しているが、すでに護衛兵たちも地に伏しているため一人では不利だったのだろう。

「チッ。防音にしていたのがあだになったか」

 マーテットの舌打ち混じりの声に、亜子は現状を悟った。

 シャルルが亜子に寄り、かがんで様子を見てくる。

「大丈夫か、アガット」

「…………」

 痛い。痛くて、声が……だせない。

 苦痛に眉をひそめていると、シャルルがふいに目元を和らげる。

「治癒の魔術は少しは使える」

 そっとナイフを抜いた彼は、手をかざしてなにかぶつぶつと唱え始めた。痛みがやわらぎ、亜子はホッと安堵した。

 傷はすっかり塞がったが、亜子は沸々ふつふつとこみあがってくる怒りに立ち上がった。

「アガット……?」

 亜子の髪は燃えるような赤髪へと変質し、その耳がとがっている。茶色の瞳は金色ににぶく輝き、患者服の足元からは尻尾がのぞいていた。

 トリッパーの「異能」が完全に表面に出てしまった姿だった。

 しかし今の亜子は気づく余裕がない。

 とにかく怒りで気が狂いそうだったのだ。

 誰を狙って来たのか知らないが…………

 月のもののような鈍痛ではない。パッと目の前が閃くような痛みだった。

 頭に血ののぼった亜子はドア目掛けてあっという間に跳躍し、外に躍り出た。広間で戦っている剣を持った者たちを勢いをつけて蹴り倒す。

 体中に力が満ちていた。

 普段の亜子にはこんな動きはできない。

 まるで雑技団の団員にでもなったようにしなやかな動きで攻撃をかわし、亜子は素早く移動しては男たちを昏倒させていく。

 すべてテレビで観た、映画で観た格闘を真似ていた動きだが、それが「できる」ことに亜子は驚かなかった。

 デライエが魔法で数人を吹き飛ばしてことが終わったあと、マーテットがずんずんと近寄ってきて亜子の肩に両手を置いた。

 ハッとして我に返った亜子は急に怖くなって「ひっ」と悲鳴をあげる。

「アト! おれっちのじっけ……へぶっ」

 後方からさやでゴン、と叩かれてマーテットはつぶれたカエルのような声を出す。驚く亜子は、彼の背後にシャルルが立っていたのに気づいて「あ」と小さく洩らした。

「アガット……」

「殿下……」

 まるで気持ちをあらわすように亜子の尻尾が垂れる。その尻尾は明らかに獣のものだ。

 亜子は自分をぺたぺたと触り、変化のある部分を確かめるように確認する。だらんとした尻尾をつかんで持ち上げ、かわいた笑みが出た。

「あは……猫の尻尾?」

 シャルルは頭をおさえているマーテットを押し退け、自分の身につけているマントを脱ぐと亜子に頭からかぶせた。

 彼は亜子より身長がかなり高いので、すっぽりと足元までマントで隠れてしまう。

「殿下、こやつらは……」

「殿下、おれっちの実験に使ってもいいよな?」

 デライエの言葉をさえぎり、マーテットが進言した。彼ら二人を冷たく見て、シャルルは口を開く。

「アスラーダ、話はまだ終わっていない。後日、我が屋敷に参じよ。こやつらはデライエに任せる。どうせ吐かぬとは思うが、尋問して、雇い主を見つけろ」

 げっ、とうめいたのはマーテットで、「はっ」と短くうなずいたのはデライエだった。

 シャルルは亜子のほうを見てふいに微笑んだ。

「命の恩人だな、アガットは」

「……殿下」

 そのあまりにも優しい微笑みに胸がどくんどくんと音をたてる。こんな綺麗な男の人に微笑まれて、ときめかない女の子はいないだろう。

 恥ずかしくて亜子はマントのすそで顔を隠した。

「デライエ。アガットは余の屋敷に連れ帰る。よいな?」

「…………」

 シャルルの言葉にデライエが葛藤の色を見せた。マントのはしから亜子は固唾かたずを飲んで様子を見守る。

 あの白い部屋に戻されるものと思っていたが……亜子は王子の命を救った。だが肉体が変化しているトリッパーを簡単に王宮には入れられない。たとえ、王子の個人的な離宮だとしても。

「あ、あの、デライエさん……あたし」

「アガット」

 叱咤しったするようなシャルルの声に、亜子はびくっとする。彼はさっさときびすを返して階段をあがり始めている。ついて行くべきかと逡巡しゅんじゅんしていると、デライエが嘆息した。

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