5話
「
紫音は苛々していた。負けるわけがないと生意気に宣言したレースで敗北。二位だった。今まで同級生に負けたことのない紫音にとっては屈辱だった。しかも、運動靴の少女に。戻った後、
そんな紫音はみんなのところに帰りづらく、競技場外のベンチで一人座っていると、急に忌々しい名前で呼ばれた。紫音は腹立たし気に上を向く。黒髪ショート、背丈は紫音と同じくらいで靴は最後に見た時と同じ運動靴。元気にこっちへ手を振っている。自分を初めて負かしたあの少女。名前は確か太刀川葵。そんな彼女は紫音に向かって紫音が大嫌いなあの忌々しい呼び名を叫んでいる。
「何なのよ。あの子」
紫音はボソッと呟き、そっぽを向いて携帯を弄る。紫音の苛立ちは最高潮に達す。葵はおかまなしに紫音に近づいてくる。
「さっき一緒に走った
「そんな人知りません」
「え、だってプログラムに書いてあったよ
「違います」
「四レーンだったよね?」
「違います」
「そんなはずないよ! 他のレーンの子とはお話したもん」
紫音は内心「ほんと何なのこの子」と思い、ため息をついて答える。
「私の名前はおてあらいじゃなくてみたらいよ。一生その忌々しい名前で呼ばないでくれる? 虫唾が走る」
「あ、ごめん……。じゃあ、紫音ちゃんでいい?」
「紫音でいいわよ」
「よろしくね! 紫音ちゃん」
「あんた私の話聞いてた?」
「あんたじゃないよ! 葵だよ!」
「そんなのどうでもいいわよ!」
「よくないよ!」
「ほんと何なのよ」
「何なのよじゃないよ! 葵だよ!」
「名前の話じゃないわよ! あんたの言動の話をしてるのよ!」
「まぁまぁ、紫音ちゃんムキにならずに落ち着いて」
「誰のせいでこうなったと思ってるのよ!」
葵は静かに紫音の方を指さす。
「なんで私のせいなのよ! あんたのせいよ!」
「あはは、紫音ちゃん面白いね!」
そう言って葵はケタケタ笑う。紫音は肩で息をしながらそんな葵の姿を見て呆れる。
「あんたといると疲れる」
「あんたじゃないよ。葵だよ」
紫音は観念して答える。
「葵といると疲れる」
「やったー! 紫音ちゃんがやっと名前で呼んでくれた!」
葵は満面の笑みを浮かべはしゃぐ。紫音はまたしても葵に負ける。一日に二度も。そんな屈辱人生で初めてだった。紫音は負けたことをどうしても認めたくなく、自分の方が葵より大人だったと言い聞かせる。そうすることで自分の傷口をこれ以上広げないようにする。
「そういえば、今日の試合なんで運土靴で出たのよ? もしかして、スパイク忘れた?」
「スパイク?」
葵はきょとんした顔で紫音を見つめる。
「あんたもしかしてスパイク知らない?」
葵はコクリと頷く。どうやらスパイクが何なのか知らないらしい。
スパイクとは陸上競技専用のシューズのことで、短距離、長距離、フィールド種目ごとそれぞれ特徴がある。例えば、短距離用のスパイクではゴムのトラックから強いグリップ力(足の旋回力)を得るためにピンの長さは長い。しかし、強いグリップ力を得るということは筋肉にかかる負荷も大きくなるため、中距離、長距離になるにつれてピンの長さは短くなる。ここでいうピンとはスパイクの裏面についている針のようなもので、グラウンドがゴムか土かで使用するピンの種類も変わってくる。投擲種目ではサークルと呼ばれる円形のコンクリート上で試技をするため、スパイクの裏は平らになっている。
紫音はそのことを説明すると、葵は「紫音ちゃん凄い! 物知り!」と言って目を輝かせる。
「あんた今までどうしてたのよ」
「今まで?」
「大会のこと。もしかして運動靴で出てた?」
「あー……わたし今日初めて出たんだ」
葵の発言に紫音は唖然とする。初めての大会で優勝。しかも運動靴。そんなスーパールーキーはスパイクのことなんか知らない超初心者。もしかしたら、最近陸上を始めたのかもしれない。
紫音はかつて無いほどの敗北感を味わう。陸上を初めて何年か経つが、辛い練習も耐え、努力してきた。同学年の子に負けたくないというそんな気持ちが紫音を支えた。そのおかげか今まで負けることがなかった。今日までは。
「私、帰る」
急にそっぽを向いて競技場へと歩を進める。語気が強くなった紫音に葵は戸惑う。
「ごめん、わたし何かした……?」
紫音は競技場へ向かう足を止め、振り返る。
「次は負けないから」
そう言って再び踵を返す。噛みしめた唇がひりひりする。葵は立ち去る紫音に向かって大声で叫ぶ。
「わたしも負けないよ! またね、紫音」
時計の針は七時前を指していた。部屋の電気がついている。どうやら寝落ちしたらしい。暗転した携帯に自分の姿が映る。髪がぼさぼさだ。紫音は眠い目を擦りながら、洗面所で向かう。しつこい寝癖を直し、髪を二つ縛りに結ぶ。今日の練習は九時から。競技場での練習なためいつもより早く家を出ないといけない。
リビングに行くと朝食の準備ができていた。母は既に仕事に出かけているらしく、机にメモ書きと昼食代が置いてある。朝食を食べながら今日の夢のことを思いだす。小学生の頃の記憶。
強い敗北感を感じたあの日からもう何年か経っているのにその時のことをよく思い出す。それほど紫音にとって衝撃的な日だった。その日があったからこそ、紫音は更に努力を重ね、葵と共に切磋琢磨してきた。全中優勝もそのおかげと言っても過言ではない。そんな葵がなぜ陸上を辞めたのか。そして、あの約束は……。
お互い同じ教室にいるのに葵に対して感じる壁。紫音は葵に対して微かに希望を抱く。もう一度、葵に走る喜びを知ってもらえれば……。
しかし、どうすればよいのか。あの様子では部活見学に来てもらうことすら難しい。しかも紫音自身、その思いを素直に伝えられる自信がない。紫音はため息をつく。葵のことで悩んでいる自分が馬鹿らしくなる。あの日の葵はもういない。アドラー曰く、人を変えることは難しい。故に自分が変わるべし。紫音は葵への葛藤を捨て、スパイクを持って競技場へと向かった
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