2話

葵は出欠が終わって入学式に移った後も落ち着かないままでいた。紫音がここにいる理由。

思考が渦にとなって頭の中を駆け巡り脳が回る。急に気分が悪くなり、目を閉じる。気付くと入学式が終わっていた。

 入学式が終わり、再び教室に戻ると濱松の話が始まった。

「今日はこれで解散となります。明日は身体測定があるので体操着を忘れないように。あと、明日から部活動見学も始まります。基本的に自由に見学してかまいませんが、くれぐれも活動の邪魔はしないように。最後、遅刻厳禁でお願いします。それでは、また明日」

 濱松の話が終わると、教室は騒がしくなる。これから過ごすクラスメイトとの会話は、最初の頃よりか緊張は取れているがまだ何処かぎこちなく、初々しさが残っている。所々で部活の話題があがっていて、中には既に部に所属しているという話も聞こえてくる。

葵はそんな話を聞きながら、隣の席の紫音の様子を伺う。紫音もまた葵の様子が気になっている様子。二人の間に気まずい沈黙が流れる。葵の頭に浮かぶ数々の言葉は、掴もうとするとシャボン玉の様に弾けて消える。先に沈黙を破ったのは紫音だった。

「久しぶりね」

「うん……」

 再び流れる沈黙。シャボン玉が弾けない内に、今度は葵が言う。

「浜女に行かなかったんだね」

「あたしが浜女なんか行くわけないでしょ。それに……」

 紫音は何か言いたげに口籠る。葵は無言で紫音の口元を見つめる。紫音は話を逸らし、今度は自分から葵に尋ねる。

「なんで陸上辞めたの?」

 不意を突かれたその言葉に声を失い、葵の表情は曇る。葵の目を覗く紫音の透き通った双眸は水晶の様に透き通っていて、その奥の小さな黒曜石が放つ眼差しは、鋭く葵を貫き、胸が痛む。その痛みに耐え切れなくなった葵は目を逸らし、俯きながら言葉を濁す。扉の方から葵を呼ぶ紗菜の声が聞こえる。

「ごめん……私、行かないと……」

「え、あ、ちょっと! 待ちなさいよ!」

 葵は紫音の言葉を無視し、机にかかったスクールバッグを強引に取り、その場から逃げるように立ち去る。紫音は葵を追いかけることができず、ただ遠ざかる葵の背中を見つめていた。



「ごめん、話の途中だった?」

「ううん大丈夫」

 葵は笑って見せるが、紗菜にはその笑顔が少し翳って見えた。葵と長い付き合いの紗菜にとって、葵の表情の微差は容易に分かった。

 五階の教室から階段を下って昇降口へと向かう。人であふれた階段を二人は流れに沿ってゆっくり下る。葵にとってきつかった階段は下りになると幾分楽に感じた。

「お母さんたちこれからランチ行くみたいだけどどうする?」

 葵はスクールバックからスマートフォンを取り出し確認する。母からメッセージが一件来ていた。

「ほんとだ。ランチ行くのあり」

「じゃあ、そうしよっか」



 昇降口を出ると、外は保護者でいっぱいだった。その中で立ち話をしている二人の母親たちを見つける。

「二人とも同じクラスになれてよかったね」

「紗菜ちゃんと一緒でほんとよかったわ。葵抜けてるところ多いから、紗菜ちゃん、高校でも仲良くしてね」

「ちょっとお母さんやめてよ……」

 そう言って葵は母の腕を叩く。そのやり取りを見て、紗菜と、紗菜の母紗羅は微笑む。その姿は流石親子と言うべきかよく似ていた。笑われたことに葵は少し恥ずかしくなる。

「紗菜ちゃんの代表の言葉、凄く立派で小母さん感激しちゃった」

「小母さん大袈裟だって。ね、葵?」

「え? あ、うんうん。え、代表の言葉?」

「入学式で新入生代表の言葉喋ったんだけど、葵さては寝てたな?」

「ね、寝てないよ! うちも感動した」

 葵のその言葉に紗菜は口端をあげる。

「葵って咄嗟に嘘つくと自分のことをうちって言うよね」

「え、そんなことないよ」

 必死に真顔で答えるその姿もどこかぎこちなく、紗菜は顔をくしゃりとして笑う。その様子を見て紗菜の母は、子と同じ顔をして微笑んでいる。笑っている姿は親子と言うより双子だ。  

葵は母が呆れているのを見ると、すぐさま話題を変える。

「そんなことより、早くさわやか行こ!」



 「さわやか」は静岡県にしかない国産牛百パーセントのハンバーグが売りのファミリーレストランで、よく地元出身の芸能人がバラエティ番組で宣伝している。そのこともあり長期休みになると他県からさわやかの味を求めお客さんが訪れてきて某テーマパークと思うほど長時間待ちになることがある。ここのハンバーグは中を少し赤めに焼き、ソースはさわやかオリジナルのオニオンソースをかけて食べるのが至高で、葵は小さいころからさわやかが大好きだった。

 今日のさわやかはお昼時から少し時間が経っていて、それほど混んでなかった。

 店内は平日と言うこともあってか婦人が多い。葵たちは窓際の席に案内される。隣の席では婦人たちがそれぞれの旦那の愚痴を言い合っている。ママ友の会だろうか。

 ウエイターによってメニューを渡されるが、葵はすでに頼むのを決めていた。

「葵決めた?」

「私、げんこつハンバーグ」

「おー! いいね。私もそれ」

 母親たちも同じようで、結局、げんこつハンバーグを四つ頼むことになった。ランチセットにはサラダにスープ、それにパンかライスを選べる。小さいころはライスを頼んでいた葵だが、パンとオニオンソースの相性の良さを知ってから、葵はパンを頼むようにしている。そして、今回も同じようにパンを頼むと、

「毎回話してるけど、私はご飯派かな」

「趣味とか結構合うのに食べ物に関しては合わないよね」

 葵と紗菜は幼馴染かつ、家も近所で小さいころからよく遊んでいるため、お互いのことをよく知っている。趣味や考えは合うのだが、食べ物に関してはさっぱりで、ご飯食べに行くときは意見がぶつかることが多い。葵はさわやかに行くたびに紗菜にパンの魅力を伝えるのだが、紗菜には伝わらず、こうして毎回ライスを頼むのであった。

 ハンバーグが来るまでの間、入学式の話になった。実は紗菜は入学試験をトップ合格しており、合格後、高校の方から連絡があってスピーチするよう頼まれたとか。相変わらずの紗菜の凄さに唖然する。

「そう言えば紫音ちゃん県浜進学したのね」

 母の不意打ちに、葵は身体が固まる。ついさっきの紫音との会話が頭を過ぎり、喉の渇きを覚える。葵はお冷を手に取り喉の渇きを潤す。

「てっきり浜女行ったかと思ってた」

「紫音ちゃんってあの遅れてきた子? 葵がよく話してたライバルってあの子だったんだ」

「うん……」

「県浜ってスポーツ推薦ないんでしょ? 紫音ちゃん凄いわよね。勉強もできて、陸上もできて……」

「紫音の話はやめて」

 母の無神経な言葉に、どす黒い感情が濁流となって葵の心を飲み込む。しかし、刹那、「やってしまった」と急に声を荒げた自分の行動に反省する。葵は感情的になり、後悔することが多い。今回も自分の発言により場を凍らせってしまった事で自責の念に駆られる。そんな葵を救ったのは紗菜の母だった。

「葵ちゃんも、小学校の頃からずっと行きたい、行きたい言ってた県浜に頑張って勉強して合格して凄いね。私、葵ちゃんが受かって本当に嬉しかった」

 大きな瞳を細め、口角が上がった美しい穏やかな表情は聖母を連想させ、葵を受け止める包容力がある。さばさばと男っぽい性格の紗菜と対照的に、温厚でおっとりした性格の紗菜の母に葵は小さいころから何度も励まされてきた。

「そうだ葵、明日一緒に部活見学行かない?」

「え、いいけど……吹奏楽入らないの?」

「うーん……それでもいいけど、なんかつまんなくない?」

 葵は紗菜の言葉がよく分からず返答に困る。長年続けてきた吹奏楽をやめて何をするつもりだろうか。紗菜の誘いに特に断る理由がなかった葵は渋々頷く。

「じゃあ決まりね」

 そんな話をしているうちにウエイターがジュワ―っと肉の弾ける音と、香ばしい香りを引き連れ、げんこつハンバーグ四人前を運んできた。

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