日本の柔術と外国のジュウジュツ②
前回から時間があきましたが、続きです。分量が増えたので近代は次回になります。
〇江戸時代中期までの技法
柔術という呼び名は江戸時代以降に一般的になったもので、江戸初期以前はほぼ使われていませんでした。(このあたりは前回や柔術史の回で説明している通りです)
江戸初期以前の史料を見ると、例えば東郷重位の流派は
安土桃山から江戸初期に成立した後世に柔術と分類される武術には大きく分けて
・小具足・腰廻
・捕手
・組討
の三種類の技法があります。流派の名称もこれらが使われる場合が一般的です。
これらは一つの流派にすべて含まれている場合もあれば、いずれかの技術を中心にしている場合もありました。
簡単にそれぞれの技術を解説すると、
・小具足腰廻
お互いに短刀(脇差)を帯刀した技術です。技術の多くの部分が屋内を想定しています。つまり互いに座った状態もしくは片方が座った状態です。これは室町時代から江戸時代の風俗(屋内では太刀あるいは大刀を帯しない)を反映したもので、屋内での護身術もしくは闘争術となっています。想定には色々なものがあり、御膳に短刀を隠して接近して襲撃する、寝ているときに馬乗りになり短刀を押し付けられる、背後から首に短刀をあてられて人質に取られる、などの想定がよくあります。
もちろん互いに立っている想定の技もありましたが、その場合大小二刀を帯しているなど座り技とは違いが見られます。別称としては居合(
・捕手
取手と書かれる場合もあります。
自分から攻撃して敵を捕獲する技術です。敵は当然ながら脇差なり太刀なりを帯刀している想定です。高橋賢先生は小具足の裏技と表現しています。
この技法も互いに座った状態の技法が多くみられます。
など相手を捕らえる場面の想定がそのまま名称になっている例が多く見られます。例えば向詰は互いに向かい合って座っている状況から敵を取り押さえる技、
・組討
互いに立った状態の技法です。小具足の立技と区別が出来ない場合もあります。どちらかがどちらかを襲撃するというより、互いに立ち会った勝負のような想定が多いようです。相撲や戦場の組討から発展したとされる場合が多いようです。単純に立合と呼ばれる場合もあります。
※小具足腰廻の別称として組討が使われる場合もあり、これらの分類は厳密なものではありません
江戸初期までは上記の分類であまり齟齬がありませんが、
――――
〇柔術の変化
前回説明したような江戸時代初期~中期の流派では捕手、小具足、組討のいずれにも該当しない技術が登場しはじめ、それがヤワラと呼ばれています(さらに流派の総称ともなります)
例えば関口新心流では最初に学ぶ
これが体術技術の発展によるものなのか、社会背景が平和になったための変化なのか現在の私にはわかりません。(過去に特にこういった研究は無いようです)
ともかく武器対武器(脇差対脇差)が非常に少なくなり、武器に素手で対抗するまたは武器があまり考慮されない想定が江戸時代以降増える事が高橋賢先生「幻の日本柔術」でも指摘されています。
江戸時代を通して多くの新しい流派が現れ、技術は変化していきました。多くの人が帯刀しており、犯罪者も武器を持っているのが当然ですので、武器の所持が前提の技法が中心であるのは変わっていませんが、徐々に素手対素手の技法が発展していった様子がうかがえます。
例えば岡山の
〇武術の他流試合
剣術では上泉信綱が作ったと言われる袋竹刀が江戸初期の頃には多くの流派に広まって使われていた事もあり、江戸時代初期から試合的な稽古がありました。また、他流試合のような事もある程度行われていたようです。元禄時代(1700年頃)には稽古用の防具も使われていたようです。
それに対して柔術の試合や他流試合はかなり遅れていたようです。正徳2年(1712)に渋川流二代目弓場弾右衛門一門が楊心流武光太右衛門の一門と流派の優劣を決めようと騒動を起こした一件で、弓場は八戸へ遠流して亡くなるという事件がありました。(太田尚充「渋川流柔術弓場弾右衛門の終焉」日本体育学会大会号22回大会,1971)
もし、柔術他流試合が剣術のようにある程度安全におこなわれていたとすると、上記のような事件にまで発展するのはちょっと考え難いように思います。
上記の時代は直心影流の長沼国郷が防具を工夫し、発展していった時代ですが、この時期でも柔術の試合方法はあまり発展していなかったようです。長沼国郷より数代前、17世紀後半でも剣術での他流試合の話が多くあります。(有名なのは
それに対して、柔術家については試合というよりは相撲取りや防寒との喧嘩、犯罪者の捕縛、入門者の振りをしてきた挑戦者が全く相手にならなかった、みたいな話が多く見られます。近代のある程度ルールのある他流試合をしない流派の、大東流武田惣角、合気道植芝守平、鹿島神流国井善弥などの逸話もこの頃の記録や逸話と類似しており、あまり変わっていません。
この頃(江戸初期~中期)の柔術の稽古は、記録や伝書の内容を見ると、
・いわゆる形稽古
・相手の技が甘かった場合反撃する稽古(起倒流の残り合いや楊心古流の
・連続して技と返し技をかけあう稽古(本覚克己流の乱曲など)
などがあったようです。おそらく現代的なイメージの自由攻防の稽古は少なかったと思います。ただし現代より治安も良くない時代ですし、喧嘩や護身、捕者で技を使う機会もあったと思われます。また、相撲は戦国時代から存在するため、柔術とは別に組討や相撲をする機会はあったと思います。稽古の中で色々な種類の相撲や力比べがおこなわれていた事も記録に残っています。
〇江戸時代末期
この頃になると、剣術のように流派を越えて試合や稽古をおこなっていた記録が見られるようになります。現代では寝技の流派だとされることもある不遷流(開祖武田持外は千葉周作などと近い世代です)の二代目が追加したとされる他流八本の中には、明らかに柔道的な乱取で使われると思われるものがいくつか見られます。また、香川県の無双流では柔術とは別に体術という言い方で乱取をおこなっていたようです。また、講武所の師範だった
その技法ですが、形と他流試合では使われる技法が違っていました。これは香川の無双流が試合の技術を体術と呼んでいる事や天神真楊流以降の流派で試合用の技が見られる事からもわかります。
今回の記事の最初に書いたとおり、伝統的な柔術、さらに柔術という言葉が生まれる以前の捕手、小具足、組討の技術が成立した室町~江戸初期は、江戸末期から近代とその社会背景が全く異なっています。
室町~江戸初期は皆が(庶民ですら)なんらかの刀剣を帯刀しており、刃傷沙汰や謀殺が珍しくなかった社会です。この社会での護身や実戦、闘争のための技術は素手対素手で雌雄を決する技術とは全く異なっていました。
柔術の伝統的な形で使われる技法は、素手対素手の他流試合で使えない技法がかなりの割合を占めていたため、他流試合が発展するにつれ、試合の状況で有効な技術が発展していったわけです。
明治から大正にかけて成立した講道館柔道の立技や、講道館および諸流派によって成立した寝技は他流試合用柔術の発展と言えると思います。
(参考:山田実「YAWARA 知られざる日本柔術」)
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