ハワイに渡った熊本の新陰流(六)その後

 その後の和田喜伝


 和田喜伝ですが、講演当時(明治43年)頃、布哇はわい中学の学務委員として勤めるかたわら、現地の日本人やハワイ先住民などと剣道(新陰流)の稽古をしていた事を熊本への手紙で語っています。


 この頃、ハワイには2万人近い日本人がいたそうですが、当然武道をやっていた人も多く渡っていたようです。アメリカの柔術じゅうじゅつ、ダンザン流(檀山だんざん流)柔術の創始者、岡崎星史郎おかざきせいしろうもハワイ移民で、ハワイで柔術を教えていた人物に入門して学んだそうです(檀山だんざん流についてはウィキペディアに詳しく書かれていますので、興味がある方はぜひ読んでみてください。檀山はハワイの意味なのでハワイ流とかはハワイ傳柔術という感じですね。youtubeに岡崎星史郎の道場の稽古動画がありますので、こちらもあわせて見てみると面白いかもしれません。)



 現在のハワイの剣道協会も組織は太平洋戦争直後に出来て居ますが、それ以前からいくつかの団体があったようです。和田喜伝がどの程度教えていたのか不明で、その後はハワイの新陰流がどうなったかもよくわかりません。


 講演が行われた明治末から大正にかけて、ハワイ王国からアメリカの準州になり、さらにアメリカの排日運動が激しくなっていく時代です。アメリカ本土の排日運動の激化の影響で、一時期は「将来ハワイの人口の多くは日系人となる」と言われていた状況が変化します。ハワイの日本語学校や日本人社会も圧力を受けて縮小していく事になったようです。


 上記が理由かわかりませんが、和田喜伝は昭和初頭には帰国していたようです。


 昭和6年11月、陸軍特別大演習地方行幸の際、熊本武徳殿ぶとくでん(※1)で天覧演武てんらんえんぶがおこなわれています。

弓道は日置流へきりゅう

柔道の部は扱心流きゅうしんりゅう四天流してんりゅう竹内三統流たけのうちさんとうりゅう

剣道の部としては新陰流、二天一流にてんいちりゅう雲弘流うんこうりゅう

水泳は小堀流こぼりりゅう踏水術

といった熊本の武道が演武されました。


 この時、和田喜伝は医師で剣道家の古賀栄信(※2)と新陰流三学さんがくほん(※3)、覧行・松風・花車の技を演武しています。この演武で古賀栄信が使ったシナイ(袋竹刀)は栄信の子息徳孝のりたかから相川学あいかわまなぶ肥後新陰流ひごしんかげりゅう宗家)が受け継ぎ、現在は三重県度会郡南伊勢町の郷土資料館『愛洲あいすの館』の資料館で展示されており、見ることができます。


 また、昭和8年には地元の新聞で「伝書でんしょより見たる剣道新陰流」という記事を連載し、その後も各地でおこなわれた古武道振興会こぶどうしんこうかい(※4)の演武大会で古賀栄信と新陰流を演武しています。


 昭和13年の週刊朝日「古武道の心髄を語る」という記事で、現在も有名な香取神道流かとりしんとうりゅう杉野嘉男すぎのよしお(七人の侍の剣術指導をした事で世界的に有名)、鹿島神流かしましんりゅう国井善弥くにいぜんやなど当時の師範と並んで新陰流和田喜伝、二天一流古賀栄信が参加しています。

 その後、終戦を待たず昭和20年に亡くなっています。


 ※1武徳殿は大日本武徳会の本部道場の事ですが、各都道府県支部にあった本部道場も武徳殿と呼ばれていました。日本全国にまだ現存している道場があります。当時日本領だった台湾にも各地の武徳殿が残っていて、歴史的建造物として保存されているようです。


 ※2古賀栄信は始め喜伝の父つたえに入門し皆伝かいでん、その後傳の弟野田長三郎に師事しています。また、二天一流の野田道場でも学んだようで、古武道振興会の演武大会で二天一流の演武もおこなっています。)


 ※3三学さんがくほん 新陰流の形のグループの一つで、前回解説した構えの三分類、陽・光陰・陰をあらわす三つの技があります。三学としては六本の技がありますが、最初の三本、覧行・松風・花車を特に三学と言う場合があります。


 ※4古武道振興会は昭和10年に結成された、現在も活動をしている日本最古の古武道団体です。毎年四月は台東リバーサイドスポーツセンター、五月に京都下鴨神社と白峯神社で、十月は愛知県熱田神宮で、十一月には明治神宮で古武道演武大会などを開催していますので、興味がある方は是非観覧してみてください。


終戦後の和田家新陰流

  和田家の新陰流ですが、和田喜伝の子息や兄弟も剣道に関わっており、新陰流を伝承していたようですが、残念ながら対外的には新陰流を指導していなかったようです。

 また、和田伝・野田長三郎の弟子は明治〜昭和初期にかけてかなりの人数がいて、目録や免許を得た弟子は数十人を下らず、剣道指導者となった人も多くいました(五人いる剣道十段のうちの一人、大麻勇次も和田伝の弟子です)

 ですが、彼らのほとんどが現代剣道の指導のみで、新陰流の形や技を伝えた人はあまりいなかったようです。終戦後も龍驤館りゅうじょうかん(※5)での記念行事や昭和35年の熊本国体剣道で新陰流形が演じられた記錄があります。

 また、和田喜伝と演武していた古賀栄信は息子徳孝に二天一流とともに新陰流を継承していました。


 徳孝は古賀栄信の兄弟弟子になる指田次郎から伯耆流ほうきりゅう居合もあわせて伝承し、新陰流、二天一流、伯耆流を伝えていたようです。ですが昭和30年代に体調を崩し、さらに新陰流と二天一流を教えていた高弟の志岐太一郎しきたいちろうが県外に転勤になる事が決まったため、熊本から伝承者がいなくなる事態となります。そこで相川学が新陰流を伝承します。同じ頃、二天一流は指田次郎から剣道範士一川格治が伝承しています。


 べつに県外でも伝承者がいるから良いのでは?と現代的な感覚では思ってしまいますが、当時はまだ熊本武道の師範は熊本に住居するべき、という旧藩時代からの考えが強く残っていたようです。


 新陰流を伝承した相川学は

「新陰流では柳生等いろいろあるのでわかりにくい」

 と熊本に伝わった新陰流という意味で

「伝肥後・新陰流」

「肥後・新陰流」

 と対外的に名乗り、昭和末から平成はじめにかけて熊本の剣道場|龍驤舘などで新陰流を教えました。また、流祖愛洲移香あいすいこうの出身地とされる三重県度会郡わたらいぐん南伊勢町に招かれ、ここでも新陰流を教えています。現在熊本では活動されていないようですが、熊本や三重県、東京で伝承されています。


 ※5龍驤舘は和田つたえの弟、野田長三郎の道場です。野田長三郎没後、弟子で剣道八段の柴垣正弘が龍驤舘の名前を継いで建てたのが現在の龍驤舘ということです。



(敬称略)


参考文献


◯和田喜伝著作

和田喜伝「新陰流ノ沿革」(昭和6年、天覧演武の際の解説)

和田喜伝「伝書より見たる剣道新陰流」(昭和8年、新聞記事)

上記2点は肥後武道史に掲載されており、国会図書館の個人送信サービスで読む事ができます。


◯その他参考にした文献

 沖田行司「ハワイ日系移民と教育-排日運動期における日本語学校-」同志社大学人文学会 人文学146号 1988

 相川学「傳肥後・新陰流太刀勢法伝」1987

 大浦辰男「宮本武蔵の真髄 五輪書と二天一流の極意」1989

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