ハワイに渡った熊本の新陰流(五)新陰流の奥義と荒木又右衛門

 剣道の話[四]

 和田喜伝


 ▲新蔭流の奥義

 はじゅうを以てだい一としてありまして、てきたいする心持こころもちはふのが大切たいせつであります、ゆえに敵が強力ごうりき無双むそう強者つわものでありましたらその敵のちからを以ててきつからしついかちせいするとう事で、あたかのよなゝしたやなぎが力のつよかぜこたへるとおな意味いみで、かたな切先きっさきすんにてよくてきをあしらいいささかのきずけずして敵をたおすと云う流儀りゅうぎであります、当流とうりゅうかまえの事は青眼せいがんかまえともうしましておのれの身体しんたい中央ちゅうおうへその少ししたの所にえ、び過ぎずちぢみ過ぎず、みぎへんせず左によらず自由自在じゆうじざい活動かつどうやすところき、かたなの切先は敵の小鼻こばなところけるのであります

 刀をにぎるのは各流同かくりゅうどう一でありますが左手さしゅ小指こゆび一本刀の柄先つかさきおとすのでありますはやはらかににぎり、む時ににぎめるのであります、あし工合ぐあいあまひろからずせまからず、すすむにも退しりぞくにも最も便利べんり自由じゆうなる位置いちむのであります、呼吸こきゅうは一切口さいくちにてせずに鼻孔びこうにてはらの下部に充分力じゅうぶんちからこしわる事が肝要かんようであります、てきと立合ってからはてきおのれとの距離きょり)をる事が大切たいせつでありましての距離はたがいの切先きっさきくらい適度てきどであります、つぎ大切たいせつあまり長からずみじかからずたかからずひくからず、ようするにおのれ勇気ゆうき引立ひきたて敵の英気えいきくじくのをむねとするのであります


 ▲竹刀の長短

 新蔭流しんかげりゅうしん寸法すんぽうつか七寸位、刀身二しゃくすんくらい(全長三尺二寸)を流儀りゅうぎとしたるもので、此の竹刀しない長短ちょうたん撃剣げきけん使つかい方に直接密着ちょくせつみっちゃく関係かんけいゆうしてるもので其のうものもな竹刀の寸法すんぽうよりされてます、あま長過ながすぎると芝居しばいの如き派手はで使つかかたとなり、剣法けんぽう真意しんいうしなってしまう、れはかならうしなうまいとおもうてもながい竹刀をふるうにあたってはいきおむを無理むり使つかい方になるのであります、近来きんらい大分だいぶみじかくなりましたが、まだまだみじかくする必要ひつようがあるとおもいます


 荒木あらき又右衛門またうえもん柳生やぎゅう飛騨守ひだのかみ御話おはなしをして御免ごめんこうむろうとおもいますが此のはなし随分ずいぶん荒唐無稽こうとうむけいの話のよう馬鹿ばかげてえますがわたしは此のはなしの中にしんの剣法の極意ごくい充分じゅうぶん明瞭めいりょうあらわれて居ると思いますから一寸簡単かんたん申延もうしのべようとおもいます


 御承知ごしょうちの通り荒木又右衛門が諸国武者しょこく修行しゅぎょう遍歴へんれきのち江戸えど道場どうじょうを開き柳生流やぎゅうりゅうの看板をかがげてりますとたちまち市内の大評判おおひょうばんとなり四ほう剣士けんしくもの如くあつまりその名声非常めいせいひじょうに高まりましたので飛騨守ひだのかみてにすべき事ならず、将軍家しょうぐんけ師範しはんたる当流の名義めいぎ容易ようい民間みんかん流布るふすべきにあらず、れいによりて(従来じゅうらい柳生流やぎゅうりゅう看板かんばんかがげたるものは飛騨守ひだのかみてい呼出よびだころされたるものなり)相当そうとう始末しまつけざるべからずとてすぐに又右衛門をし一しつに引き入れ初対面しょたいめんさかづきを下すとて三ぽうをつき出しました、もっと又右衛門またうえもんこしものすなわ両刀りょうとうすで玄関げんかんにてられ今や寸鉄すんてつびるものなくことに其のみちひいでたる千数の門弟もんていは又右衛門一人の周囲しゅうい圍繞いぎょうしてあり這出はいですきもないのであります、此時このとき飛騨守ひだのかみは三尺の秋水玉しゅうすいたまちる剣を真向まっこう上段じょうだんりかざし荒木目あらきかけておろさんと身構みがまへたのでありますが荒木あらき神色しんしょく自若じじゃくいささかもおどろかず御免ごめんと三宝上ぽうじょう熨斗紙のしがみきすごき青眼せいがんかまえたのであります、くして暫時ざんじあいだヤー、オーの掛聲かけごえをしてたがいに其のすきをねらってりましたが忽然こつぜん飛騨守はけんて、うちたしかに拝見はいけん感服致かんぷくいたした、天晴あっぱれのお手並てなみ賞揚しょうようし遂に師弟してい関係かんけいむすんだと云うことでありますが、これ一寸ちょっと素人しろうとが見ますと真剣と紙片しへん試合しあい勝負しょうぶかない事があるものか、飛騨ひだが一とう打ちろせば荒木はまっ二ツになるは請合うけあいで、そんな馬鹿ばかはなしがあるものかとおわらいになるかたがあるかもれませんが之がすなわ名人めいじんと名人との試合、達人たつじんと達人との勝負でありましてじつに剣法の極意ごくい遺憾いかんなく発揮はっきして実例じつれいと思います、なんとなれば、名人と名人との試合しあいは前にも申しましたとお眼中敵がんちゅうてきなくけんなしで、飛騨ひだが眼に紙片しへんけんなどの差別さべつは一さいないので、にらう處は荒木の間である、すきであるのであります、しかるに只だ一てんすき、一ぱつかんを見出すあたわざりしよりついに刀をとうじて降参こうさんしたのであります、れがすなわち名人の試合勝負しあいしょうぶと言うものは実に生死しょうし超越ちょうえつしてていきょうにまですすんで居ると実例じつれいになるのであります、はなしあるい虚構きょこうであると事実じじつでないと御方おかたがあるかもれませんが私はけっして虚構の事でない、もしつくごととしても此に言う事はかならべき事柄ことがらと信ずるのであります、永々ながなが御清聴ごせいちょうわづらわしまして……れで御免ごめんこうむります


 ──本文終──


 新陰流の奥義は柔をもって第一としてある、敵を対する心持は柳に風、と言う事は前回前々回に解説したように、まさに灌頂極意の巻にある

「なかなかに 弱きおのが力にて 柳の枝に 雪折れは無し」

 の事でしょう。(近況ノートに「灌頂極意之巻」の和歌の部分の写真を掲載してるので、よかったら見てください」


 この章では新陰流の青眼せいがんの構えについて手のうちや足構えなどについて書かれています。肥後藩の新陰流は第一の構えをこの青眼(正眼)の構えとしています。左右に偏らずまっすぐ構える事を光陰と言っていますが、その第一の構えだったようです。(※1)

 以前紹介した『神道無念流剣術心得書』にも熊本の新陰流の構えは中段とありますし、他の回国修行者の記録でも熊本の新陰流は中段やセイガンとしているので、この構えで試合をしていたのでしょう。


 ところで、現代剣道では殆どの人が中段(正眼)で、たまに上段があるくらいで、剣道と言えば中段ですが、江戸時代の流派を見ると、上段で試合を行う流派がかなり多かったようで、セイガンが大多数という訳ではなかったようです。記録を見ると、一刀流いっとうりゅう神道無念流しんとうむねんりゅうなどがセイガンですが、直心影流じきしんかげりゅう鏡新明智流きょうしんめいちりゅう無外流むがいりゅうなどは上段だったようです。第二回以降話題に出ている雲弘流うんこうりゅう無住心剣術むじゅうしんけんじゅつなどは八相はっそう(右肩のあたりに構える上段の一種)だったようなので、これも上段の一種ですね。(なぜ今の剣道は大多数が中段なのか、八相とかいないじゃない、というとまた話が長くなるので省略します)



※1 肥後藩の新陰流では左に構える事を陽、右に構える事を陰とします。そして光は真っ直ぐ差す事から、左右に偏らない事を例えて中央を光陰とします。陰陽光陰の構え(技)の絵図も近況ノートにアップロードしておきましたので参考にしてください。


竹刀の寸法


 現代の剣道で使われている竹刀は三尺八寸(約117㎝)、昔風に言えば柄一尺(30㎝)ちょっと、刀身二尺八寸程度(86㎝)という所です。

 これに対して新陰流では柄七寸(21cm)、刀身二尺五寸(75cm)で全長三尺二寸(約97㎝)となります。現代の肥後・新陰流の木刀やシナイ(袋竹刀)もこの程度の長さのものを使用しています。


 ところで、真剣ではつば切羽せっぱ(鍔を挟んで刀身に付ける金具)がありますが、木刀ぼくとうや竹刀には無い事もあります(※2)。そのためか、伝統的に竹刀や木刀の刀身の長さに鍔の部分を含む事が多いので、新陰流の竹刀刀身は鍔と切羽の二寸(6㎝)を引いて二尺三寸、いわゆる日本刀の常寸と言われるものになります。


 それに対して、現代の竹刀は真剣として考えると、刀身は二尺六寸と常寸より三寸(約9㎝)ほど長くなり、柄も同じ程度長くなります。全長で言えば六寸(18cm)は長くなるので、竹刀のイメージで常寸の真剣を見ると「案外短い」という感想を抱く人がいるようです。


ところで和田喜伝は「あまりり長すぎると芝居しばいごとき派手な使い方に」と言っています。


 剣道(剣術)の歴史を見ると、天保てんぽう年間(1839~1844)に柳川やながわ大石進おおいしすすむ長竹刀ながしない(構造は現在と同じコミ竹刀)と突き技・胴技をもって道場破りをし、大さわぎになります(勝海舟は氷川清話で黒船以上の大騒ぎと書いています。ただ、実際は道場破りしたわけではなく、単に交流のある道場・流派と稽古をしたようです)


 大石進の竹刀は全長五尺三寸、現代の竹刀よりさらに一尺五寸(45cm)は長い、長大な竹刀でした。大石進は身長七尺と言われる大男でした。大石神影流おおいししんかげりゅうでは身長に合わせて竹刀の長さ決めるそうで、進としてはこの長さで良かったようです。実際の大石進の佩刀も竹刀と同じ長さだった(※3)そうです。ですが、大石進ショックで、それ以降江戸の各流派で長竹刀が流行し、中には六尺(1.8m)の竹刀を使う者まで現れたとか。


 さすがにその流行には実戦的ではないとストップがかかり、講武所こうぶしょ(※4)で三尺八寸、武徳会ぶとくかいもこれに準拠して現在の竹刀の長さに落ち着いたようです。おそらく和田喜伝は現代の竹刀よりさらに長い長竹刀を使う人たちも見ていたのかもしれません。


 明治から現代にかけて、何人かの剣道家の先生が「三尺八寸でも長い」、と真剣の常寸と同じ長さの竹刀を使う事があったようですが、これは全く一般的になっていませんし、現代の竹刀の長さを使う剣道家から、短い竹刀では技術が伸びない、叩き合いになる、といった批判される例がいくつもあるので、現代の剣道技術はこの三尺八寸という長さで効果的に修練する事が出来て、有効に使えるものなのかもしれません。


 ただ、和田喜伝はさらに短くしなければならない、と言っているので、そこは現代の一般的な剣道とは違うでしょう。


※2 香取神道流、鹿島新当流、新陰流(柳生)、二天一流、心形刀流、小野派一刀流など多くの流派の木刀に鍔がありません。神道無念流、甲源一刀流、馬庭念流などの流派が鍔のある木刀を使用しています。


※3「大石進種次の佩刀」道標 2021/12/28 http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-5393.html 


※4 講武所こうぶしょ 安政3年(1858)、幕府が創立した武芸練習施設。実力ある武芸者を指導者として集め、流派を問わず仕合稽古していたこと、竹刀の長さを規定したことなどから現代剣道に影響をあたえた母体の一つとされる事もあります。ですが、講武所の師範や師範役の多くが他の幕臣と同じく大政奉還後の徳川家静岡移転に従って移転し、多く講武所の武芸者が明治以降武道に関わらなかったため、維新以降の剣道等への影響は限定的なようです。

参考:全日本剣道連盟「剣道の歴史」第二部組織史第五章「講武所の組織と武術家の登用」



 荒木又右衛門


 鍵屋の辻で有名な荒木又右衛門ですが、江戸時代から色々な俗説や逸話が多い人物のようです。

 講演では柳生宗冬と面談、立ち会った逸話が語られていますが、さすがに本文にもあるとおり、作り話だと思われます。又右衛門が有名になった仇討ちの寛永11年、柳生宗冬は二十歳そこそこです。まだ柳生但馬守宗矩も健在な時期ですね。


 また、柳生流の看板を使ったら死刑、みたいな話も時代劇や講談の定番ですが、実際どうだったのでしょう。柳生石舟斎の弟子筋で柳生流を名乗っている人はそこそこいましたし、さすがに呼び出して誅殺なんて事をやってたのか?と思います。


 それはともかく、互いに構え合って打ち込まずに互いの実力がわかり~という話は講談等でよく見かけますが、いつ頃からある話なのでしょうね。


 次回は和田喜伝のその後と、本文全体を再度掲載して終わりたいと思います。


(敬称略)

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