ハワイに渡った熊本の新陰流(四)剣道の修養法

 剣道の話[三]

 和田喜伝


 ▲古来の修業法

 古来こらいりゅうひらいた名人達人めいじんたつじんの人々は如何いかなる修業しゅぎょうをしたかともうしますればおももっぱらにしたのでありまして、三更草木こうくさきねむころ深山幽谷人跡しんざんゆうこくじんせきえたる所に立木たちきを敵として心胆しんたんじゅつみがいたるものであります、しかなんうても敵は反抗力はんこうりょく攻撃力こうげきりょくもなき立木でありますから其術そのじゅつかならつたなきものでるにるべきものなく、今日の術にすれば到底比較とうていひかくになるものではなかったろうと想像そうぞうされます、しか眼中敵がんちゅうてきなく剣無けんなてい心胆しんたんは十分に修養しゅうようされたものとおもわれます、しかしていよいよ試合となれば真剣しんけんまた木剣もくけんでやったものですから気合きあいと言うものはまったく今日の芝居しばいの様なあいとはことなったものとおもわれます


 ▲現時の修養法

 現時げんじ修養法しゅうようほう古来こらいの修養法にしまして撃剣げきけん道具どうぐ すなわ機械きかいと言うものが進歩整頓しんぽせいとんした少々しょうしょうたれてもかれてもいたくない處から修用法則しゅうようほう稽古けいこうものが一ぺん愈々いよいよ精神せいしんうしない胆力の養成ようせいなどは忘却ぼうきゃくされつくししてじゅつにのみながれ丸で舞踏ぶとうの如きなき技術ぎじゅつとなりおわったのであります、しからばの修養則ち稽古けいこと言うものは如何にす可きかと申しますれば


 ▲修養の法

 修養のほう技術ぎじゅつ養成ようせい胆力たんりょくの養成をふたつながら完全かんぜん研磨けんまするものであります、之を具体的ぐたいてき申述もうしのぶれば初学しょがくの者は一切他さいほか道具どうぐもちいず適法てきほうながさの竹刀しない一本をたずさえてき先生の教導きょうどうもと太刀筋たちすじ打込うちこみ、進退の動作どうさ歩行ほこう調子ちょうし呼吸こきゅう工合ぐあいとう一切の剣法けんぽう練習れんしゅうするのであります。勿論もちろんかた(或はおもてともう)は不断ふだん充分じゅうぶん研磨けんま修養しゅうようしなければなりません之が正則せいそく修養法しゅうようほうで、丁度ちょうど弓術きゅうじゅつ巻藁まきわらようなものでの修養法をなければすじのよき剣法けんぽう習得しゅうとくする事は出来できません、之をおわりましてから普通ふつうの道具、めん小手こてどうなどをけて稽古けいこするのでありますが、の稽古に又た二しゅあります


 一は自身に適当と思う相手を選び真剣の心持ちで打つも受けるも進むも退しりぞくも仮初かりそめにせず、愈々いよいよてき玉散たまち白刃しらはひっさげておのれを一げきもとらんとするおそるべきものであるとおもうて仕合しあいをするのであります、之を度々たびたびかえし繰り返し稽古けいこをしてれば愈々いよいよ心胆しんたんる事が出来できます、んどなればつねに真剣のたいしてやってゆえれにれてるからであります


 だい二は最も仲間なかまおい上達者じょうたつしゃ或は先生についおの自身じしん打捨うちす勝負しょうぶなど眼中がんちゅうかずおも存分ぞんぶんに打つなりすなりはらうなりたおれてち止み足腰あしこしたぬようになるまで稽古けいこしてもらうのであります、れは充分じゅうぶんじゅつる稽古になるのでだい一のほうにのみよればかたくなりすぎてじゅつすすみませんのですが、れを此のだい二の稽古法けいこほうによりて技術ぎじゅつ変化へんか進歩しんぽはかるのであります、つぎの事を少し御話おはなししたいと思います。


 ──本文終──


 古来の修業法

 ・過去の達人は山にこもって一人稽古したとあります。現代でも流祖が山や神社に籠って一人修行し、極意に開眼して~というイメージは比較的一般的だと思いますが、戦国時代から安土桃山時代の各流派の縁起(発祥・発端)の記述を見ると、

 ・僧慈恩じおんが相州寿福寺じゅふくじ神僧しんそうに出会い兵法を学ぶ。(中條流・富田流)

 ・飯篠長威いいざさちょういが社に籠り修行していると一童子どうじが現れ秘太刀を伝授した(門井系新当流しんとうりゅう

 ・日州鵜戸うどの大権現に参籠し兵法を悟る(愛洲陰流あいすかげのりゅう

 ・愛宕山あたごさんに籠り修行していると異人いじんが現れ小具足こぐそくと縄の技を伝授した(竹内流たけのうちりゅう

 ・愛宕山に七日七晩こもり、夢中に表れた僧より伝授を受ける(伯耆流ほうきりゅう居合)

 ・林明神はやしのみょうじんに百箇日参籠さんろうし、満願の夜、夢中で三しゃくすん腰刀ようとう(大刀)を以て九寸五分くすんごぶ(短刀)に勝つ術を得た。(弘前藩ひろさきはん林崎新夢想流はやしざきしんむそうりゅう


 というように、神社や山にこもって修行し開眼するというのは戦国時代からのお決まりのパターンでした。


 和田喜伝の記述では、まるで修行が一人稽古主体のように感じられますが、上記の流派はいずれも先行する流派を学んでいます。ですので、対人での稽古も多く行った人たちが、一人工夫して新機軸を打ち立てたと考えた方が自然だと思います。(ただ、上記の開祖たちの時代はまだ防具竹刀ぼうぐしない稽古が存在しない時代ですので、対人での稽古や試合は和田喜伝の語るとおり木刀や木の枝などを使っていたと思います)



 修養法


 ここで防具を付けて稽古をする前に、竹刀だけで十分に基礎訓練をする、というように書かれていますが、このあたりは現代剣道にそのまま受け継がれている稽古方法ですね。ただ、明治期の熊本では、初心者は現代の竹刀(コミ竹刀)ではなく、袋竹刀ふくろしないで稽古を始めた事が明治生まれの剣道家たちの回顧録などに見られます(大野熊雄おおのくまおなど)

 この、まず竹刀だけで稽古を始める、という部分、おそらく袋竹刀の事をさしているのでは無いかと思います。現代剣道の切り返しや打ち込みのような稽古を袋竹刀だけでやっていたのでしょうか。


 熊本の剣道は、旧肥後藩の師範たちからほぼそのまま人脈的に現代へつながっています。ですが明治後期以降、武徳会ぶとくかいや東京に出て修行する人が多出て中央の技術や理論が持ち込まれ、熊本独自の部分(例えば流派の形や袋竹刀で稽古を始める事)は戦後にはほぼ無くなっていたようです。昭和三十年代に熊本県内で剣道と新陰流を新陰流の免許皆伝者から学んだ先生から伺ったところによると、普段の稽古は現代の剣道と特に違いは無かったそうです。(かたでは袋竹刀を使っていたそうです)



 形と表


 文中に「かた、あるいはおもてともいう」とあります。

 現代ではかたあるいはかたという事が多いと思いますが、江戸時代では、同様の手順や技が決まった一連の稽古法けいこほうを指して


 かた

 勢法かたとも)

 おもて

 手数てかず

 組太刀くみだち

 くみ

 

 太刀たち


 など色々な呼び方がありました(剣術の場合、柔術じゅうじゅつ棒術ぼうじゅつ居合いあいなどではまた独自の呼び方がある場合があります。柔術では組合くみあいとか取組とりくみと言う例も)


 防具を付けた稽古を二種類紹介していますが、これはちょうど第三回で説明されていたごうの太刀とやわらの太刀に対応しそうです。胆を重視した稽古と術を重視した稽古という事でしょうが、ここでも片方だけではダメだと説明されていますね。和田喜伝から見て、現代の剣道や古武道はどのように見えるのでしょうか。




(本文中敬称略)



参考文献

 各流派の創始伝説については

「日本武道大系」1982(元になった「日本武道全集」は国会図書館の個人送信サービスで閲覧可能です)

 林崎甚助源重信公資料研究委員会編「林崎明神と林崎甚助」居合振武会 1991


 熊本の明治の剣道については

「肥後武道史」

 大野久磨夫「剣士一代」日本武教社 1968

 など

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