ハワイに渡った熊本の新陰流(二)剣道に強(ごう)の太刀と柔(やわら)の太刀があること
今回から(おそらく)新聞に『剣道の話」と題して掲載された記事になります。本文のあとに注釈、解説というには長いですが、流派や当時の状況について説明しています。
──以下記事本文──
左は和田喜傳氏が□に
剣道の話〔一〕
和田喜傳
然して
▲流儀
を
・第一は己を
・第二は己を
であります、
第一、己を
第二、己を
要するに
▲運向流
──本文終──
解説・注釈
本文で
疋田系新陰流において、極意の伝授である
なかなかに弱き己が力にて
柳の枝に雪折れは無し
という歌が書かれています。(※冒頭に絵と歌があるのは熊本の灌頂極意之巻独特のもので、他藩の疋田系新陰流には見られません。)
また、維新の数十年前になりますが、文化文政の頃の
「試合は
と柔らかく軽い試合ぶりなので試合しづらいという様な記述があります。
(なおこの書は神道無念流の立場から書かれているので、新陰流の攻略法とし
「しかしながら当流の
と力押しで必ず勝てるとしています。さすが「力の斎藤」と言われた
というように、新陰流を柔の太刀とするのはわかるような気がします。
雲弘流
ところで本文中にも見た事が無いとわからないと説明されている雲弘流ですが、どのような流派か簡単に説明したいと思います。
雲弘流の開祖は
無住心剣術は
「形を捨てた剣術」
「相打ちを修行する剣術」
「無住心剣術の達人同士が立ち会えば、互いに相打ちにならず
と現代でも知られている流派です。開祖
甲野先生の本によれば、無住心剣術は互いに
話がずれましたが、
井鳥巨雲の道場は江戸で評判となり、巨雲が亡くなった後は甥が継ぎ、さらに後は
熊本に伝わった経緯としては以下の通りです。
巨雲の子、井鳥
ですが、
「師役同然に指南するように」
と命じます。(「指導するような腕は無い」と
師役となった後は門人の数は増え、八年後には二百人の門人を指導したとあります。井鳥家は景雲以降断絶しますが、流儀は高弟の
雲弘流は無住心剣術の流れであるだけあって、その稽古は激しいものだったようです。右手に手袋、左腕に肘まである長い小手を付け、鉄面と
ただし、単に無茶苦茶に試合をすれば相打ちの心、胆力が練れないという事で試合は一度に五本まで、最初の相打ちで勝負がつかな二撃目は無し(ただし、相手が格上の人の場合は二撃目あり)、という稽古だったそうです。
雲弘流では稽古にあたり、
「誰も勝ちは勇み、負け・相打ちは嫌になるものなり。勝気を防ぎ、相打ちを尊び、負けを楽しむ修行なり」
と教えたそうです。
肥後藩では雲弘流を修めたものは死を恐れない勇士だという事で、藩主の警護役には必ず一人は雲弘流の使い手が選ばれたとか。
維新後まで健部家は師範として存在していましたが、流儀は高弟の井上平太が継ぎます。井上平太は馬術(武田流
ここで雲弘流に関連ある流儀や師範について簡単に記述しておきます。
小田切一雲の師で無住心剣術の開祖針ヶ谷夕雲は
小笠原玄信の流儀は弟子、孫弟子とかなり広がりを見せていて、そのうちの一つ直心影流は特に広がり、現在でもいくつかの系統が伝承されています。大雑把に関係を示すと以下のようになります。なので、実は雲弘流も大きく見れば新陰流の一派なのです。
無住心流剣術関係の概略
小笠原源信(真之心陰流)
├小笠原玄信(真之心陰流)
├針ヶ谷一雲(真之心陰流・無住心剣術)
│├高田源左衛門(神之信影流)
│├片岡伊兵衛(真之心陰流)
││└⇒(加藤田神陰流)
│└小田切一雲(無住心剣術)
│ ├真里谷円四郎(無住心剣術)
│ └井鳥巨雲(雲弘流)
│ ├⇒比留川某(雲弘流・比留川流)
│ └井鳥景雲(肥後藩雲弘流)
└神谷傳信(
├高橋(
│└山田一風斎(
├⇒今堀某(神陰流)
└神谷某(直心流)
明治期の旧肥後藩武芸
ここで、明治当時の熊本の武芸・武道の状況を説明しておきます。
藩校時習館は明治4年に廃止となります。
当時多くの師役がいましたが、彼らの多くは自宅でも指導していたため(時習館で入門するのではなく、藩校で稽古する前に師役の自宅道場で入門、
その後、明治10年西南戦争の際に、旧熊本藩士族も参戦、
明治13年には恩赦で釈放され、再び新陰流を指導します。この頃、旧師役が集まり今後の武道について相談、熊本の武道指導の中心として
振武会の発起人は旧師役や師範の総勢66人、創立委員は、
◯
◯
◯江口弥三(
◯和田傳(新陰流)
の四人でした。
剣術・柔術・槍・長刀・棒・居合・遊泳などなど旧藩時代の藩校の稽古がそのまま続いたような形です。前述の雲弘流健部氏も発起人に名を連ねています。
振武会は活動の中心として講武所を建設します。講武所は
の二棟がありました。広さはそれぞれ三間八間(5.4m×14.4m)。講武所の他に学校でも稽古していたようです。
撃剣教師は14名で寺見流、雲弘流、新陰流、武蔵流(二天一流)、四天流、
体術教師は7名で
居合教師は7名で
長刀教師は2名で楊心流と
棒教師は1名で真道流。
遊泳も1名で
となっています。
この中の流派で
撃剣の寺見流、雲弘流、新陰流、武蔵流。
体術の四天流組打。
居合の伯耆流居合。
長刀の古流と楊心流。
遊泳の小堀流。
上記の流派は現在でも伝承され稽古されています。
ところで当時、熊本の剣術では現在の竹刀(籠竹刀だとかコミ竹刀と呼ばれていた)はまだ殆ど使われていませんでした。熊本の流派は現在「
ですが、九州北部の流派や関東の流派は既に現在と同じ形式の竹刀を使っています。
明治政府の役人は各地からくるため、これら現在の竹刀を使う流派の人が警察関係者などに何人かいたようです。振武会の撃剣教師たちの中には和田傳を筆頭に警察で指導している者も多かったのですが、新式竹刀と試合すると袋竹刀ではどうも分が悪い、という事で徐々に竹刀を受け入れはじめます。
この竹刀改良の筆頭だったのが喜伝の父、和田傳だったようです。和田傳は維新前、お役目で江戸に行った際に北辰一刀流・
ともかく、
著者の和田喜伝は明治6年生まれです。一般に肥後藩では十代から二十代初めが剣術修行の中心期間だったようですから(幕末や明治の記録を見ると、子供の頃から学んでいる人は、16~18歳で
次回、明日更新にしようかと思いましたが、思いのほか解説が長くなるので、来週木曜日にしたいと思います。
今回の参考文献
武藤七之助「神道無念流剣術心得書」杉山叢書(国立国会図書館)
長尾進「熊本における雲弘流に関する研究」武道学研究21-(3) 1989
熊本県体育協会編「肥後武道史」
甲野義紀「増補改訂 剣の精神誌」筑摩書房 2009
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