ハワイに渡った熊本の新陰流(二)剣道に強(ごう)の太刀と柔(やわら)の太刀があること

 今回から(おそらく)新聞に『剣道の話」と題して掲載された記事になります。本文のあとに注釈、解説というには長いですが、流派や当時の状況について説明しています。


 ──以下記事本文──


 左は和田喜傳氏が□に布哇ハワイ中学通俗講演会に於て為したる「剣道の話」の草稿也。却々なかなか趣味あるものなれば特にここに掲載す

 剣道の話〔一〕

 和田喜傳


 けん吾国わがくにに於ては御承知ごしょうちごとく三しゅ神器しんきの一でありましてれに対する尊崇そんすうねんは一種特別しゅとくべつ他邦たほうれいを見ざる所、あるい神霊しんれいまつあるいまた武士ぶしたましいとしてもっとこれ貴重きちょうしてたのであります、


 したがって製造法せいぞうほう保存法ほぞんほうおいても熱心ねっしん研究けんきゅうされたもので、こと使用法しようほうに至っては最も深く最もひさしく研究錬磨けんきゅうれんまされ、武士にして剣道けんどうおさめないものは一人もなかったので、古来幾多こらいいくたの名人勇士を出して居ります、


 然して夫等それらの名人勇士は積年の研究錬磨けんきゅうれんまごとを積んで各々おのおのりゅうを案出し何流何流と命名し、其の流儀今日に伝わり其の数いく十の多きに及んで居るのであります


 ▲流儀

 を大別たいべつしますれば、(いま流儀りゅうぎ大別たいべつしたるはなしは聞きませんが私一人の卑見ひけんあるいは間違ってるかも知れない)二派とする事が出来ると思います。


 ・第一は己をなげうって敵を倒すと云う流儀りゅうぎ


 ・第二は己をまもって敵を倒すと云う流儀りゅうぎ


 であります、


 しかして其の数十の流派は何れも大同小異で互に相似合あいにあってて其の類別にこまる様なものもありますが、其の極端と極端のものに至って極々明白ごくごくめいはくに其の異なる点を見る事が出来ると思います。


 第一、己をなげうって敵を倒すと云う流儀りゅうぎおのれの全心全力を一刀にめて全く己を捨てて突進猛撃とっしんもうげき唯々ただただ一打に敵を倒さんとするのでありまして其の最も適当の好例は熊本にある運向流うんこうりゅう文字もじ失念仮しつねんかりに此の文字をもちいたり)であります、これを称してごうの太刀とでも申しましょうか。


 第二、己をまもって敵を倒すとう流儀は徹頭徹尾てっとうてつび十分己を護り一すんかん、一てんすきさえなき様に自身じしんの身をかため、しかして敵のかんに乗じてれを倒すと云う主義しゅぎ流儀りゅうぎであります、これ諸君しょくん承知しょうちの今日ひろく行われて新蔭流しんかげりゅうでありまして、これやわらの太刀とでも申しましょうか。


 要するに剣道けんどう即ち剣法けんぽう大別たいべつすれば右の二つにける事が出来る、其の極端きょくたんの二例をぐれば以上の運向流神影流が最も適当で、其の二つの異なった流儀の最も異なった要点ようてん明白めいはくあらわしてるものとおもいます。


 ▲運向流

 運向流うんこうりゅうは勿論、胆力たんりょく養成、技術錬磨れんまう事にはあくまでも重きを置いてるが、おのれやしないたる胆力たんりょくおのれみがきたる技術の全力を一とうげきめてだ一うちに敵をほろぼさんとするのでありますから相手あいて胆力たんりょくてんおいおのれ同等どうとうのものかあるい同等どうとう以上いじょうであればあるいは意のごと効力こうりょくあらわす事が出来ず、かえって不利におちいるかも知れない、


 しかてき胆力たんりょくおのれ以下であれば随分用易ずいぶんよういに敵を倒す事が出来るかと思います。これ実際じっさい運向流うんこうりゅうなるものの試合しあい御覧ごらんになった方には知れましょうが、未だ御覧にならぬ方には一寸ちょっとわかりますまい、しかし余りながくなりますから運向流うんこうりゅうかんしては此のくらいめまして。


 ──本文終──


解説・注釈

 本文でごうの太刀の代表としている運向流は、前回の注の通り、これは雲弘流うんこうりゅうの事です。やわらの太刀の代表としている新蔭流は喜伝が修行した熊本の新陰流の事でしょう(蔭の字を使っている例もあります)。

 疋田系新陰流において、極意の伝授である灌頂極意かんじょうごくいの巻という一巻があります。和田家においては目録相伝された次の段階になります。この一巻の冒頭には柳の木の絵と


なかなかに弱き己が力にて

柳の枝に雪折れは無し


という歌が書かれています。(※冒頭に絵と歌があるのは熊本の灌頂極意之巻独特のもので、他藩の疋田系新陰流には見られません。)


 また、維新の数十年前になりますが、文化文政の頃の神道無念流しんとうむねんりゅうの記録に、熊本の新陰流について

「試合はことほかやわらかなり りながらあまりうちかるくして殊の外試合にくきものなり」

と柔らかく軽い試合ぶりなので試合しづらいという様な記述があります。

(なおこの書は神道無念流の立場から書かれているので、新陰流の攻略法とし

「しかしながら当流の剛勢ごうぜいをもって打ち砕く時は必勝なり」

と力押しで必ず勝てるとしています。さすが「力の斎藤」と言われた斎藤弥九郎さいとうやくろうが学んだ流派です。しかしなかなか酷い攻略法ですね)


というように、新陰流を柔の太刀とするのはわかるような気がします。



雲弘流


 ところで本文中にも見た事が無いとわからないと説明されている雲弘流ですが、どのような流派か簡単に説明したいと思います。


 雲弘流の開祖は井鳥巨雲いどりきょうん。慶安五年(1650)生まれの仙台藩士です。江戸に住みこう流剣術を学び、浪人となった後に道場を開いていました。その頃に夕雲流せきうんりゅう無住心むじゅうしん剣術)の二代目、小田切おだぎり一雲いちうんと知り合い、一雲に傾倒して無住心剣術を学び、弘流と無住心剣術(別名は夕雲流せきうんりゅう)を合せて雲弘流剣術を創始します。


 無住心剣術は

「形を捨てた剣術」

「相打ちを修行する剣術」

「無住心剣術の達人同士が立ち会えば、互いに相打ちにならず相抜あいぬけとなる」

 と現代でも知られている流派です。開祖針ヶ谷夕雲はりがやせきうんと小田切一雲、一雲の弟子で小田切に勝ってしまった真里谷円四郎まりやつえんしろうなどについて書かれた本に、甲野義紀先生の「剣の精神誌」があります。面白いですよ。

 甲野先生の本によれば、無住心剣術は互いに八相はっそう(太刀を右肩の上あたりに上げる)に構えて、お互いに歩み寄り相打ちする、という剣法で、他流にあるような形は無く相打ちの修行を行っていたそうです。


 話がずれましたが、井鳥巨雲いどりきょうん雲弘流うんこうりゅうを創始しましたが、指導するにはやはり形が必要という事で十二本の形を作りました。その内、最初の三本は無住心剣術の小田切一雲と相談して作ったもののようです。


 井鳥巨雲の道場は江戸で評判となり、巨雲が亡くなった後は甥が継ぎ、さらに後は比留川ひるかわ家で伝承され18世紀後半まで江戸に道場があり学ばれていたようです。江戸の雲弘流は幕末の頃には衰退していたようで、記録に出てきません。


 熊本に伝わった経緯としては以下の通りです。

 巨雲の子、井鳥景雲けいうんは若い頃病弱で剣術の腕も上達せず、父が亡くなるまでに印可を得る事が出来ませんでした。巨雲の後を継いだ従弟の鈴木から印可を得ましたが、その後は武芸者としは生きずに熊本藩に仕官し武士として暮らします。

 ですが、宝暦ほうれき四年(1754)、藩主細川重賢ほそかわしげかたが藩校時習館じしゅうかんを開設する際、井鳥景雲が高名な井鳥巨雲の子である事が藩主の耳に届きました。しかし時習館の武館である東榭西榭とうしゃせいしゃの師役リストにその名が無い事を不審に思い

「師役同然に指南するように」

 と命じます。(「指導するような腕は無い」と固辞こじしたようですが、さすがに藩命には逆らえなかったようです)

 師役となった後は門人の数は増え、八年後には二百人の門人を指導したとあります。井鳥家は景雲以降断絶しますが、流儀は高弟の健部たけるべ家が継いで明治まで藩の師役として活躍します。


 雲弘流は無住心剣術の流れであるだけあって、その稽古は激しいものだったようです。右手に手袋、左腕に肘まである長い小手を付け、鉄面と面布団めんぶとん(今の剣道の面と違って、クッションが大きいもの)を被り、互いに駆け寄り相打ちする。というものだったそうです。左腕の小手が肘まであるのは、八相はっそうから打ち合うと左腕に当り易かったからのようです。(竹刀も現在の竹刀とは違い、革の袋に割った竹を詰めた、現代では袋竹刀と呼ばれるものです。当時はしなえ品柄しなえの字を使っています)


 ただし、単に無茶苦茶に試合をすれば相打ちの心、胆力が練れないという事で試合は一度に五本まで、最初の相打ちで勝負がつかな二撃目は無し(ただし、相手が格上の人の場合は二撃目あり)、という稽古だったそうです。

 雲弘流では稽古にあたり、

「誰も勝ちは勇み、負け・相打ちは嫌になるものなり。勝気を防ぎ、相打ちを尊び、負けを楽しむ修行なり」

 と教えたそうです。


 肥後藩では雲弘流を修めたものは死を恐れない勇士だという事で、藩主の警護役には必ず一人は雲弘流の使い手が選ばれたとか。


 維新後まで健部家は師範として存在していましたが、流儀は高弟の井上平太が継ぎます。井上平太は馬術(武田流弓馬術きゅうばじゅつ)、伯耆流ほうきりゅう居合いあい、雲弘流剣術の師範として明治時代に活躍します。現在も雲弘流は伝承されており、各種演武会で形を披露されています。現在の継承者は井上平太の孫にあたる方です。



 針ヶ谷夕雲はりがやせきうんの流儀

 ここで雲弘流に関連ある流儀や師範について簡単に記述しておきます。

 小田切一雲の師で無住心剣術の開祖針ヶ谷夕雲は真心陰流しんのしんかげりゅう小笠原玄信おがさわらげんしんの弟子です。無住心剣術は形の無い相打ち剣法と言われていますが、夕雲の弟子の片岡伊兵衛かたおかいへえ高田源左衛門たかだげんざえもんなどはシンノシンカゲ流(真心陰流しんのしんかげりゅう神之信影流しんのしんかげりゅう)と名乗っていて、真心陰流の形を伝承していました。片岡の孫弟子に加藤田新作かとうだしんさくという人がいますが、彼の子孫が幕末明治に活躍する久留米藩の加藤田平八郎かとうだへいはちろう(俗に加藤田神陰流かとうだしんかげりゅう、伝書では真神陰流しんのしんかげりゅうと書いています)です。


 小笠原玄信の流儀は弟子、孫弟子とかなり広がりを見せていて、そのうちの一つ直心影流は特に広がり、現在でもいくつかの系統が伝承されています。大雑把に関係を示すと以下のようになります。なので、実は雲弘流も大きく見れば新陰流の一派なのです。


 無住心流剣術関係の概略


 小笠原源信(真之心陰流)

 ├小笠原玄信(真之心陰流)

 ├針ヶ谷一雲(真之心陰流・無住心剣術)

 │├高田源左衛門(神之信影流)

 │├片岡伊兵衛(真之心陰流)

 ││└⇒(加藤田神陰流)

 │└小田切一雲(無住心剣術)

 │ ├真里谷円四郎(無住心剣術)

 │ └井鳥巨雲(雲弘流)

 │  ├⇒比留川某(雲弘流・比留川流)

 │  └井鳥景雲(肥後藩雲弘流)

 └神谷傳信(直心流じきしんりゅう

  ├高橋(直心正統流じきしんせいとうりゅう

  │└山田一風斎(直心影流じきしんかげりゅう

  ├⇒今堀某(神陰流)

  └神谷某(直心流)



 明治期の旧肥後藩武芸


 ここで、明治当時の熊本の武芸・武道の状況を説明しておきます。


 藩校時習館は明治4年に廃止となります。

 当時多くの師役がいましたが、彼らの多くは自宅でも指導していたため(時習館で入門するのではなく、藩校で稽古する前に師役の自宅道場で入門、稽古けいこを始めたようです)、そのまま自宅道場で稽古が続けられていたようです。

 その後、明治10年西南戦争の際に、旧熊本藩士族も参戦、喜伝きでんの父つたえも参加し、戦後罰せられ投獄されます。

 明治13年には恩赦で釈放され、再び新陰流を指導します。この頃、旧師役が集まり今後の武道について相談、熊本の武道指導の中心として振武会しんぶかいが結成されます(明治15年)

 振武会の発起人は旧師役や師範の総勢66人、創立委員は、

 ◯山東清武さんとうきよたけ武蔵流むさしりゅう、今の兵法二天一流へいほうにてんいちりゅうに直接つながります。・楊心流ようしんりゅう柔術)

 ◯星野九門ほしのくもん四天流してんりゅう組打、伯耆流ほうきりゅう居合、楊心流ようしんりゅう長刀)

 ◯江口弥三(扱心流きゅうしんりゅう体術たいじゅつ

 ◯和田傳(新陰流)

 の四人でした。


 剣術・柔術・槍・長刀・棒・居合・遊泳などなど旧藩時代の藩校の稽古がそのまま続いたような形です。前述の雲弘流健部氏も発起人に名を連ねています。


 振武会は活動の中心として講武所を建設します。講武所は

 撃剣げきけん道場 

 体術たいじゅつ道場

 の二棟がありました。広さはそれぞれ三間八間(5.4m×14.4m)。講武所の他に学校でも稽古していたようです。


 撃剣教師は14名で寺見流、雲弘流、新陰流、武蔵流(二天一流)、四天流、當流神影流とうりゅうしんかげりゅうの6流派。

 体術教師は7名で四天流してんりゅう、扱心流、竹内流(竹内三統流たけのうちさんとうりゅう)、塩田流、楊心流の5流派。

 居合教師は7名で真道流しんとうりゅう、楊心流、四天流、伯耆流、無手勝流むてかつりゅうの5流派。

 長刀教師は2名で楊心流と古流こりゅうの2流派

 棒教師は1名で真道流。

 遊泳も1名で小堀流こぼりりゅう


 となっています。

この中の流派で

撃剣の寺見流、雲弘流、新陰流、武蔵流。

体術の四天流組打。

居合の伯耆流居合。

長刀の古流と楊心流。

遊泳の小堀流。

上記の流派は現在でも伝承され稽古されています。


 ところで当時、熊本の剣術では現在の竹刀(籠竹刀だとかコミ竹刀と呼ばれていた)はまだ殆ど使われていませんでした。熊本の流派は現在「袋竹刀ふくろしない」と呼ばれる形式の、革で作った袋に割った竹を詰めたシナイを使っていました。(竹の割り方はいろいろありますが、ここでは省略します)


 ですが、九州北部の流派や関東の流派は既に現在と同じ形式の竹刀を使っています。

 明治政府の役人は各地からくるため、これら現在の竹刀を使う流派の人が警察関係者などに何人かいたようです。振武会の撃剣教師たちの中には和田傳を筆頭に警察で指導している者も多かったのですが、新式竹刀と試合すると袋竹刀ではどうも分が悪い、という事で徐々に竹刀を受け入れはじめます。

 この竹刀改良の筆頭だったのが喜伝の父、和田傳だったようです。和田傳は維新前、お役目で江戸に行った際に北辰一刀流・神道無念流しんとうむねんりゅう鏡新明知流きょうしんめいちりゅうなどの稽古を見聞きして道具の違いを知り、早くからコミ竹刀を導入しようとしていたと伝わっています。ただ、変革を拒否する人も多かったため、なかなか苦労したようです。


 ともかく、振武会しんぶかいは明治15年から明治30年まで15年活動し、その間に熊本全体で袋竹刀からコミ竹刀への変革が進んだようです。明治29年に京都に大日本武徳会だいにほんぶとくかいが設立され、明治30年には熊本支部ができます。その際、武徳会の目的と振武会の目的は一致する、という事で振武会は解散、ほぼそのまま武徳会熊本支部へと変わります。明治末の頃には稽古や試合の様子は現代剣道にかなり近かったようです。(ただし、昭和初め頃まで入門者や初心者が袋竹刀ふくろしないや旧式の防具で稽古する事が続いていたようです。熊本の剣道稽古から完全に袋竹刀が無くなったのは第二次大戦後のようです)


 著者の和田喜伝は明治6年生まれです。一般に肥後藩では十代から二十代初めが剣術修行の中心期間だったようですから(幕末や明治の記録を見ると、子供の頃から学んでいる人は、16~18歳で目録もくろく、21~24歳程度で皆伝かいでんです)、おそらく振武会が存在した頃(9歳頃~24歳頃)に修行していたと思います。まさに熊本の剣術が旧藩スタイルから近代スタイルへ変化した時期にそれを見て体験したわけです。


 

次回、明日更新にしようかと思いましたが、思いのほか解説が長くなるので、来週木曜日にしたいと思います。



 今回の参考文献

 

 武藤七之助「神道無念流剣術心得書」杉山叢書(国立国会図書館)

 長尾進「熊本における雲弘流に関する研究」武道学研究21-(3) 1989

 熊本県体育協会編「肥後武道史」

 甲野義紀「増補改訂 剣の精神誌」筑摩書房 2009

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