ハワイに渡った熊本の新陰流(一)

 今回から5回に渡って、旧肥後藩ひごはん(熊本藩)で新陰流しんかげりゅう師範だった和田家、その出身の人物が、明治43年3月にハワイの邦人学校で剣道について講演した記事を紹介したいと思います。


 この記事は和田家旧蔵資料に含まれていました。現在は肥後新陰流ひごしんかげりゅう東京稽古会が所蔵しており、同会の許可を得てテキスト化、公開することにしました。


 この記事は明治43年8月、講演者の和田喜伝わだきでんが故郷熊本の新陰流一門と父、叔父にあてた手紙に、スクラップされて貼り付けられていたものです。


 喜伝の父や叔父が読んだ後、一門の長老格であった財津志満記ざいつしまき氏によって一門の間で回覧された事が手紙に付けられた表紙によってわかります。このスクラップ記事が何に掲載されたのかは不明ですが、ハワイの日本語新聞などではないかと思います。


 講演は明治43年3月にホノルルの布哇ハワイ中学校で『通俗文化講演会』と題されておこなわれたものです。


 物部ひろみ『戦間期ハワイにおける日系二世女子教育 -日本語学校から料理講習会まで―』によると、1930年代にはハワイには200を超える日本語学校があったそうです。中でもホノルルの本願寺付属布哇中学校は日系二世に最も人気があったとか。


『戦間期ハワイにおける日系二世女子教育』によると、布哇中学校の設立目的は以下の通りだったそうです。


『在留邦人子弟に充分なる日本語を教授し、徳性訓練の機会をあたえへて、正当に日本民族の過去現在を諒解さしめ、進んで将来米国市民として、日米両国親善の楔子たるべき彼等の思想を啓発し、東西文明渾融の先覚、世界平和の先駆たらしめん」という、まさしく「架け橋」育成を趣旨として1907年、オアフ島ホノルル市フォート街に創立された。』(引用終わり)


 上記のように日本文化を教えるという意図で行われた講演会なのかもしれません。1907年、明治39年に布哇中学校は創立されたわけですが、その時に学務委員として嘱託されたのが和田喜伝です。



 和田喜伝について


 講演をした人物は和田喜伝。明治6年生(?)で旧肥後藩ひごはん新陰流しんかげりゅう師範和田家の長男として生まれました。父は最後の藩校師役しやくの和田つたえ。明治以降の熊本剣道界の中心人物で武徳会より剣道範士の称号を与えらています。和田傳は明治44年に大日本帝国剣道形だいにほんていこくけんどうかたが制定されるにあたり、全国の剣道家から選ばれた25名の調査委員の一人でもあります。


 和田家の由来を見ると、その本家は丹後時代には細川家に仕えていたようです。ですが、剣術師範としての和田家は本家から分家し江戸時代、17世紀末頃に新陰流上野家に入門し師範の一人となった事から始まります。


 (※肥後藩上野家は剣術初代の上野左右馬助そうまのすけ。新陰流四天王とも言われる疋田豊五郎ひきたぶんごろう(文五郎)の弟子でした。)


 宝暦ほうれき五年(1755)、熊本藩の藩校はんこう時習館じしゅうかんが創立した際、当時浪人として新陰流兵法を教えていた和田傳兵衛でんべえは、師匠筋の上野家からの推薦で時習館の剣術師役の一人となります。初代和田傳兵衛から最後の和田傳まで師役は五代続き、代々多くの門人を育てていました。


 剣道の家に生まれた喜伝は当然新陰流の修行し、明治二十九年、24歳(数え歳)で新陰流の印可を得ています。その後は熊本商業学校で教師をしていたようです。明治三十年代末にはハワイに移住し、講演のあった明治四十三年には布哇中学校の学務委員だったようです。


 以下、原文を現代仮名使いに変えていますが、おおよそ原文のままです。注が必要と思われる記述は※を付けて解説をしています。


 第一回は講演会の内容を紹介した新聞記事、第二回以降は和田喜伝による剣道の話(全四回)です。


 ━━以下記事━━


 一昨日曜日にちようび第三回通俗講演会つうぞくこうえんかい開催された例にって丹生教授の挨拶あり次で正九時三十分、第一田嶋教授の明治文芸めいじぶんげい十講の江戸趣味えどしゅみの四大文士だいぶんしと題する講話がはじまる。


 私が江戸趣味えどしゅみ江戸趣味えどしゅみうので、何でも世間では私が江戸趣味を鼓吹すいこせんとしてるなど云う批評を頂戴ちょうだいしてるそうですが、私は布哇はわいにまで来て江戸趣味を鼓吹こすいする考えもなければ其の必要も認めない、江戸趣味を説く者をもくしてただちにれは江戸趣味鼓吹者こすいしゃなりとなすは、酒を説く者をもくしてれは飲酒奨励者いんしゅしょうれいしゃなりとすと一般いっぱんの非なるものである。


 とは言はれないんだが何でも一寸ちょっとそんな話があって、氏は明治文学めいじぶんがくちゅう|江戸趣味代表文士ぶんしを尾崎紅葉、斎藤緑雨、泉鏡花、夏目漱石の四人

(※この一行欠損)

 情多根、緑雨の油地獄、鏡花の湯島詣、漱石そせきの我輩は猫である等、彼ら等文士の代表的作物数種づつを挙げて説明する所、一々肯繁こうけいに当り頗る面白い、氏は確かに文士通ぶんしつうだ。


 次に三神有吉氏の人口調査じんこうちょうさついての講演こうえんあり。これ目下実際もくかじっさいに調査されつつある必要事件ひつようじけんであるから、別に氏に寄稿きこうを求めて本紙ほんしに掲載する事にした。


 つぎ和田喜伝氏わだきでんしの剣道の話、眉目清秀びもくせいしゅうの氏が演壇えんだんに現われ、おうぎを持って粛然しゅくぜんとして立った時は和田伯爵わだはくしゃく出現しゅつげんしたように見えた。氏の家は代々剣道だいだいけんどうもっもんを張ってたのであるから自身の腕はうからぬがはなし一寸ちょっとくわしく中々なかなか面白い、一本の扇子せんすもっ竹刀しないに代用し、運功流うんこう真影流しんかげりゅう※の流儀りゅうぎならびに流儀りゅうぎっておこった要点等ようてんとうところすこぶる落着いたものだ、


(※運功流は雲弘流うんこうりゅう、真影流は新陰流で、両流派ともに肥後藩の時習館で学ばれた代表的剣術流派。雲弘流は相抜けで有名な無住心むじゅうしん剣術から出た流派です。)



 剣は武士の魂である、剣道は畢竟ひっきょう精神せいしん胆力たんりょく気合きあいあらそいであると、例を荒木又右衛門あらきまたえもん柳生但馬守やぎゅうたじまのかみ※の仕合しあいの一じょうに取りて名人と名人とのあらそいは生死しょうし超越ちょうえつして只隙ただすきをねらう一てん帰着きちゃくするので、荒木が三ぽう熨斗紙のしがみを取って但馬たじま大上段だいじょうだんかざしてんで来た刀先きっさきながに但馬にかぶとがしめたのは虚構きょこうの事ではあるまい、ヨシつくり事としてもう事はべき事である、んとなれば名人の争ひは生死しょうし超越ちょうえつしてる、只隙である、ただじょうき危機一髪の間をねらうのであると説くところ聞く者として成程とうなずかせしめる力があって話に一寸ちょっと魂が這入はいって居た。いずれれ氏にうて其の大要を別にかかげる。


(※柳生但馬守とあるが、次回以降の和田喜伝氏の記事では柳生飛騨守ひだのかみ(宗矩の子、宗冬)となっている。荒木又右衛門の時代とすると但馬守(宗矩むねのり)の方が適当ではないかと思う)


 ━━記事終わり━━


 以上で新聞記事部分を終わります。

 この講演では明治の文士、人口調査、剣道の三つの講演があったようです。『我輩は猫である』が出てきたのでいつ発表されたのかと思ったら、明治三十九年に連載していたのですね。知りませんでした。明治4大文士という括りが面白い。


 剣道に関しては、記者が簡単に書いていますが、後の和田喜伝による記事では流派の特徴、剣道の極意、新陰流の稽古や構えなど中々興味深い内容になっています。


 残り4回です。(一回終)




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