近江に伝わった義経流の末裔、成孝流刀術

 先日、ヤフーオークションに成孝まさたか流刀術の伝書三巻が出品されていました。「膳所留守居方ぜぜるすいがた」と書かれ家紋が入った立派な木箱に入った三巻の巻物です。

 興味はありましたが、最終的に五万円で落札されており、とても手が出ませんでした。しかし伝書の画像が色々と公開されていたので読んでみて、書かれてる人名などから少し調べたところ、成孝流は非常に興味深い流派だという事がわかりました。


 この成孝流刀術、近江の山里、京都と日本海(小浜)を結ぶいわゆる鯖街道の中間に位置する朽木くつきが発祥で、義経流の末裔だったようです。


 成孝まさたか流について


 成孝流、江戸時代中期に彦根藩の志賀仲敬が編纂した「日本中興武術系譜略」に名称のみが載っており、名前だけは江戸時代から知られたようです。ですが、維新後の「日本剣道史」ほかの資料でも流派名しか出てきません。綿谷雪編「増補大改訂武芸流派大事典」ではセイコウ流と読んでいますが、後に書くようにマサタカ流と読むようです。

 村山勤治「滋賀県諸藩における武芸教育に関する研究(その1)」1985 では、幕末頃の膳所藩剣術流派の一つとして成孝流の名前が挙げられており、師範名として


 杉浦喜十郎 ⇒ 森傳太夫


 とあります。(ちなみに膳所藩の剣術流派は直心影じきしんかげ流、今枝いまえだ流、天心独名てんしんどくみょう流、成孝まさたか流の四流派となっています)


 これだけでは全くどのような流派かわかりませんが、今回ヤフオクに出ていた膳所藩の古文書である程度の概略がわかりました。


 成孝流、最初に書いたように近江は朽木くつきに発祥します。朽木は鯖街道の要所で室町時代から維新まで朽木氏が支配していました。朽木藩と言われる事もあるようです。成孝流はこの朽木の住人、山本喜内きない成孝まさたかを開祖とします。成孝は義経流の本流を学び、のちに成孝流を名乗ったようです。二代目の岸本一平も朽木の人で、この人は京都へ出て兵法を教えていたようです。岸本より学んだのが膳所藩士の中神藤助なかがみとうすけです。


 中神家は武術家の家系だったようで、藤助の次代、中神藤左衛門は関口新心せきぐちしんしん流柔術を津田磯右衛門と木嶋周意の二人から学び、両系統を合併しました。中神家は二代に渡って成孝流と関口新心流の師範となっています。


 幕末頃には成孝家の師範は先ほど書いたように杉浦喜十郎となっていますが、今回ヤフオクに出ていたのは、まさにこの杉浦家の八十次という人が膳所藩師範、中神藤左衛門とうざえもんの二代目から文化十一年(1814)伝授された伝書でした。

 開祖山本喜内はいつ頃の人でしょうか。開祖の弟子、岸本一平から学び膳所藩に伝えた中神藤助は、享保の頃(1716〜1736)の膳所藩の記錄に名前が現れます。そうするとおそらく岸本一平が京都で教えていたのは18世紀前半頃、となると開祖の山本喜内成孝は17世後半から18世紀初頭頃の人物でしょうか。

 朽木は山里ですが、先ほど書いたように交通の要所でもあり、室町時代から京都とも縁があります。また代々朽木氏が支配し足利将軍が逃げて滞在をしたような歴史のある場所です。室町~戦国時代の兵法が江戸時代初期になっても伝承されていてもおかしくなさそうです。朽木の古文書を調べれば何かわかるかもしれません。


 ところで、ヤフオクに出ていた目録、その内容を見ると、居相いあい表(=居合でしょう)の武性剣に始まります。武性剣には

ほこを止めるは、すなわち国をおさめ天下をたいらげるのかなめにしてサムライの産む技なり。陰陽の剣をもって敵を斬るは術の性なり」

とあります。このあとに左旋剣、右旋剣、通明剣、陽生剣、陰剣五箇、陽剣五箇と続きます。ここまでが流派の基本でしょうか。よく言われる武の字義、戈を止めるを流派の第一としているようです。


その後に立相たちあい(立位での抜刀術でしょうか)、小太刀、兵法へいほう(=剣術)、棒、杖、鎖杖、柔術、捕縄とりなわといわゆる総合武術の様相をしています。膳所藩校では剣術となっていたので、おそらく剣術が表看板だったのでしょう。


 膳所藩成孝流師範 杉浦喜十郎


 膳所藩成孝流師範、杉浦喜十郎の孫(杉浦重剛)が祖父について書き記しています。

 それによると、祖父喜十郎は成孝流刀術の他に御家流の書道にも達しており、杉浦の家には多くの門弟が集まっていたそうです。。慶應元年(1865)に80歳で亡くなったとあるので、安永元年(1786)頃の生れでしょうか。ヤフオクの伝書の宛先、八十次やそじが喜十郎の前名とすると、29歳で免許皆伝になったという事で、妥当な年齢です。

 杉浦喜十郎は武術や書道だけでなく、藩士としては勘定所かんじょうしょに出仕しており、藩士としても業績を残したとあるので優秀な人だったのでしょう。才覚があり畑や屋敷を多くもち、中小姓なかこしょうの身分にしては裕福な生活をしていたとあります。


 息子の盆太郎は父から兵法や書道を学び免許皆伝、さらに算学にも優れ儒学もまなび京都や大阪にも遊学したとあります。また幕末には勤皇派だったとか。


 なお、師範は親類(盆太郎の妻の弟?)の森傳太夫でんだゆうが継いだようです。この人は文より武の人であったと杉浦重剛が書いています(重剛から見ると傅太夫は叔父です。)。重剛は体が弱かったらしく、成孝流は学べませんでした。叔父には非常に可愛がられたということで、ある時叔父が「俺は剣術ばかりで文学を知らないから教えてくれ」と重剛に頼んだ際(重剛は十代初めから人に文学講義をおこなっていました)、「では私に何か撃剣の秘伝を教えてください」と頼んで「思無邪おもいよこしまなし」の秘伝の太刀を学んだそうです。


 森の叔父が言うには

「お前のように細い者には撃剣は出来ないから、一つだけ教えておこう。思無邪おもいよこしまなしということだ。どういう事かというと五分と五分の勝負という事である。やり方は相手は上段の時、こちらは青眼せいがん。敵が切ればこちらは突く。敵が突けばこちらは切るという事だ。これ以外は素人には出来ない」

という事でした。

 重剛が後年(明治二十年代半ば)に郷里の膳所に戻った際、成孝流免許皆伝めんきょかいでんの人に思無邪について聞いています。それによると、思無邪は成孝流の一番奥の手で、正月の稽古始めには道場の床の間に「思無邪」の掛け軸を掛け、礼拝する事になっていたそうです。オークションの目録を見ると、兵法の項目の第一が思無邪となっていますし、やはり成孝まさたか流における重要な太刀(技)であり、極意であり心法しんぽうだったのでしょうね。新年初稽古で思無邪の掛け軸を礼拝するという文化も現在の武道では見かけず面白いです。


 維新後の成孝流剣術については、残念ながら明治後半まで滋賀県の旧膳所藩付近に免許皆伝の人が居た事しかわかりません。近江発祥でなおかつ近江に伝わった流派は私が知る限り成孝流以外には知りません。武芸流派大事典によれば、宇都宮藩や宮津藩に伝わったとしていますが、残念ながらそれらの伝書や記録を見る機会が無く実態が不明です。


(追記)

 先日、X(旧Twitter)で各流派の武芸伝書を公開されているイッチ―さんがヤフオクに別系の成孝流の伝書が出ていたと書かれていたので検索したところ、たしかに出品されていました。


 ところがその巻物、形の名称が膳所藩のものと違い、さらには開祖の名前が

成孝

となっています。成孝ではありません。二代目は岸本市平、三代目は中神藤助となっており、膳所藩と同じです(一平ではなく市平ですが、同じ読みで字が違うというのは江戸時代の文献にはよくあるので同一人物で問題ないでしょう)

四代目は織田十太夫という人物です。その後三代織田家が続き、代々十太夫を名乗っています。少し検索したところ、中神藤助と同時代の伊勢亀山藩板倉家(その後に備中松山藩へ所替え)に織田十太夫という人物がいました。とすると、この織田家十太夫は板倉家備中松山藩の師範という事でしょうか?情報が少ないためよくわかりません。ちなみに織田十太夫が亀山藩にいた当時の藩主は板倉勝澄かつづみ。その妻は宇都宮藩主戸田忠余ただみの娘です。なんとなく成孝流と宇都宮藩との関係がありそうですね。


 目録にある技の名称が違うのも、(成孝は同じでも)開祖の名前が違うのも興味深い点です。両藩ともに三代目中神藤助までは同じなので、①織田家で変えた、②中神家が変えた、③両家とも変えた、と3パターンが考えられます。開祖の名前が違うのは、もしかしたら岸本一平が師匠の名前を成孝とだけ言っていたのかもしれません。まぁ、このあたりはもっと調べてみないとわかりませんね。


 義経流の末裔であるというのも面白く、もう少し詳しく調べてみたいです。

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