剣術・剣道・居合の歴史メモ(南北朝から昭和まで)

 ※2017年10月に他ブログで書いたものです。「独断と偏見による日本の剣術史」の原型ですが、一応昭和初期(戦前)まで記載しています。



 間違っているところもあるとおもいます。独断と偏見でざっくり書いています。


1・南北朝から室町時代中期(1336頃~1490くらい)

 剣術流派の成立の時代です。源義経や鞍馬の天狗、ふらりとあらわれた神僧などから伝わったとする流派があらわれます。この時代に成立した流派に念流、中條流平法、新當流などがあり、現在の流派も遡ればこれらの流派に繋がります。この時代はまだ竹刀の類いは無く、木刀や木の枝で稽古していました。思いきり打つと危険ですから、寸止めや軽く打つ形で稽古していたと思われます。


 この時代の兵法家に「奥山の念阿弥慈恩」、慈恩の弟子の中條兵庫助と堤宝山、新當流の開祖飯篠長威とその弟子松本備前守などがいます。




2・室町時代中期から戦国時代(1490頃~1570頃)

 塚原卜伝(鹿嶋新當流)、上泉信綱(新陰流)、富田勢源(富田流の小太刀)、有馬大和守(有馬流)、斎藤伝輝坊(天流)、伊藤一刀斎(一刀流)など今でも名の知れた剣豪があらわれます。この時代、まだ木刀で稽古していましたが、上泉信綱が今の剣道の竹刀の原型(撓、読みはシナイ。現代では袋竹刀と言われます)を考案して安全に体を強く打つ事が出来るようになりました。


 また、「竹内流小具足腰廻」という柔術柔道の先祖のような武術があらわれました。室町時代中期の中条流に既に同種の技法がありましたが、大成したのは竹内流でしょう。この武道の技術は室内、座敷など刀を持ち込めない場所、脇差のみを腰に指した状況で敵に教われた場合の戦い方や、刀を腰に指した状況、道を歩いている時に突然敵に襲われた場合どうするか、というようなものです。


 この流派は現在まで四百数十年ずっと竹内家に伝わっています。


 竹内流の演武の動画(※元ブログでは動画にリンクしていました)

 この武術(小具足腰廻)は居合の概念を理解する上で大事ですので、こちらに書きました。




3・安土桃山から江戸初期(1570~1640)

 上で書いた剣豪たちの弟子や孫弟子が活躍します。新陰流上泉信綱の弟子だと、

・柳生石舟斎やその子供や孫(柳生宗矩や柳生兵庫)、いわゆる柳生新陰流。

・疋田豊五郎とその弟子たち

・丸目蔵人(タイ捨流)


 伊藤一刀斎の弟子だと

・小野忠明(将軍指南役)

・古藤田勘解由

 などが有名です。薩摩の秘剣として有名な示現流もこの時代にあらわれます。


 この時代には撓(袋竹刀)がかなり全国に広まり、いろいろな流派で使われはじめています。前記の疋田豊五郎は1600頃に全国を廻り袋竹刀で他流試合をしています。この時代に各地で新しい流派がうまれ広まっています。宮本武蔵もこの頃に活躍しています。


○居合について

 この時代に居合の流派が突然あらわれ広まります。記録に残る初期の居合の使い手は田宮平兵衛、長野無楽斎(田宮平兵衛の弟子)、片山伯耆守です。最初の二人は田宮流、片山伯耆は俗に伯耆流と言われます。


 居合は現代のイメージでは刀を抜いて切りつける技の事ですが、戦国時代や江戸時代初期の文献では座った技という意味で使われています。合は武術では「敵と会う」「武器を合わせる」くらいの意味で使われて、立合なら互いに立って戦う、太刀合なら太刀と戦う、槍合なら槍と戦う、座合や居合なら座って敵と戦うくらいの意味です。相撲の立合もこの意味です。


 先ほど紹介した竹内流小具足腰廻の極意の捕手(現代で言う逮捕術)には居合と立合という技がありますが、居合は互いに向かい合って座った状態から敵を取り押さえる技、立合は互いに立って向かい合った状態から敵を取り押さえる技です。


 古い居合の技は、互いに向かい合って座った状態で敵が脇差を抜き突こうとした所を、こちらが先に太刀や大脇座を抜き、その右腕を刀で切り押さえるような技です。現在、青森県や東京に残る林崎新夢想流(先ほど名前を出した長野無楽斎の流派です)がその技をよく残しています。


 林崎新夢想流の動画(※)


 これらの技がどういう状況で使われることを想定したか、この時期の資料には書かれていないので推測するしかありたせんが、


「敵か味方かわからない相手と室内で対座して詰問中、突然短刀を抜こうとしたので、こちらも抜刀して敵の腕を切り止めた」


 というイメージではないかと思います。


 もともとは座った技という意味の「居合」でしたが江戸時代の前期にはすでに今のような抜刀術の意味で使われはじめています。




4・江戸時代中期(1650~1780)

 この時代に防具を着けて竹刀(まだ袋竹刀です)で試合をする事が広まります。流派としては心形刀流、直心影流、神道無念流など幕末に活躍する流派が出てきます。ただ、各地の藩で古くから伝わる流派は武家社会にしっかり根を張っていたので、これらの新流派は受け入れらない事もありました。他流試合は禁止という方がまだまだ普通でした。武家階層以外の剣士が増え、それらの階層から新たな流派が現れるのもこの頃です。また、それらの武家階級以外、庶民の流派は比較的自由に他流試合をおこなっていたようです。


 この時代には流派ごとに多種多様な技や特徴がありました。この時代より少しあとの時代ですが、「上段に構えて素早い足さばきを使う流派、剣道のような中段にかまえ、突きを使う流派、手や足や頭どこでも打つ流派、剣術と柔術の両方がある流派は組み付いて投げ技が得意」など他流の得意技について記載した古文書もあります。


○この時代の居合

 元々、相手をつけて稽古していた居合ですが、だんだんと一人で稽古する流派が多くなっていきます。いろいろな剣術や柔術の流派に居合の形が含まれるようになります。(例:直心影流、浅山一伝流、神道無念流など)

 以下のような居合の特徴、


 一人で座って立って抜刀、納刀するだけでかなりの運動量になる。座敷の中でも稽古できる。刀剣の扱い方の練習になる。

 イザという時に刀が抜けず不名誉とならないため。

 という用な形で侍たちに受け入れられていったようです。元々は居合は敵と自分、一対一で座った状態から立ち上がり抜刀する形がほとんどでしたが、この頃から立った状態から抜刀したり、四方八方の複数の敵を切るような形が現れ始め、現在の居合のイメージの原型が完成したようです。




5・江戸時代後半から維新、明治(1780~1870頃)

 全国的に他流試合が盛んになり、この時代に現在の剣道で使う防具や竹刀が完成します。今の竹刀は真剣よりかなり長いですが、1832年頃に九州の柳川の人、大石進が現在の竹刀と同様の構造の長い竹刀を使い、江戸中の道場で勝ち続けた事件がおきます。これ以降長い竹刀が流行り、いろいろあって今の竹刀の長さになりました。


 幕末から明治にかけ、竹刀での試合が剣術の修行の中心になり、他流試合が普通になって、他流と交流するようになります。するとどこの流派も似たような技を使うようになります。(竹刀での試合で有効な技、となるとやはり限られてくるようです)




6・明治から昭和10年代(1870~1940)

 武士の世が終り、剣術など武術はどう生き残るか皆工夫しました。撃剣興業など見世物として残っていく方法を考えた人達もいて、この興業は一時期全国的に人気があったようです。西南戦争等で剣術が見直され警視庁等でも盛んに稽古されるようになり、そして明治三十年頃に武徳会という武道家の組織ができます。毎年京都で全国の武道家による試合と演武会が行われるようになりました。(京都大会の名前で現代まで続いています)


 武徳会では実力や実績に応じて練士や教士、範士の称号があたえられ、これはかなり社会的な権威があったようです。各地の道場(なになに流剣術などの道場)でも、流派伝統の形の稽古よりも、武徳会が制定した形(現在の剣道でおこなわれる日本剣道形と同じ物です)の稽古と試合用の稽古が重視されることが多くなりました。道場を継ぐ予定の人(例えば道場主の息子や、才能ある弟子など)も、伝統の流派の稽古よりも、最新の試合技術を武徳会の学校(武術専門学校、京都にありました)に入学したり、武徳会の師範に入門したりして学びました。


 こうして、各地方に江戸時代から伝わっていた流派はだんだんと消えていきます。これが大正から戦前の昭和くらいまでの話です。これが現在の剣道になります。


 それとは別に、大正や昭和頃から試合中心の競技化した武道は本来の武道では無い、という考えが生まれてきました。そう考える人たちは、江戸時代から伝わる武術流派の形を演武する大会を開催したりして、それら古い伝統のある流派の形などを剣道や柔道とは違う、日本古来の「古武道」と呼んで区別始めます。


 この頃から競技武道では本来の武道武術の技が無くなる、と考えた人たちが剣道や柔道から距離を取り始め、伝統的な形や試合形式で稽古をしたり(剣術で言えば示現流や薬丸自顕流、柳生新陰流などの流派などです。現在、古武道と言われているものはほとんどがこのパターンです。)、そもそも剣道や柔道が存在しない田舎だったので、江戸時代のままの流派が残っていた例(東北などに多いです)などもあります。


○居合の復活

 記録を見ると維新後も明治期初期には幕藩時代の流派が各地で行われていたようです。 ところが居合の各流派は明治から大正にかけてかなり衰退します。やはり廃刀令の影響もあったのでしょうか。


  ところが、武士として生きた人達が死に絶えた大正の頃から、日本刀の使い方や切り方をわからない剣道家が増えたためか、「日本刀の扱い方を身に着け、実際に切る方法を見につけるために居合は有効である」と居合が見直され始め、土佐に伝わっていたある居合流派(無双直伝流や夢想神伝流)が剣道家の中で大流行します。これが現代の居合道につながっています。




 戦後の話はまた別にまとめます。

(※まとめませんでした…)

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