第3回「二刀流はなぜ広まらなかったのか?廃れたのか?」という疑問

 WEB上で二刀流剣術のことが話題になると、必ずと言っていいほど、


「二刀流が主流にならなかった(廃れた)のは一刀より習得が難しく、一般人に使えない特別の技だから(宮本武蔵は特別)」

「二刀流は片手で刀を持つ。刀は重いので使うのが難しく、両手で持った刀の一撃を受け止めるのは不可能。だから広まらなかった」

「二刀流はかっこいいだけで実際的ではない。宮本武蔵も実戦では一刀を使った」


というようなコメントがされます。


 これらの妥当性はとりあえずそのへんに置いといて、史料や記録から

「二刀流が主流にならなかった」

「二刀流は広まらなかった」

あたりを検討してみたいと思います。


 という前に、言葉の定義について話しておかないと誤解を解こうとして誤解を増やすことになりかねないので、「二刀流」という言葉の定義を考えてみます。(めんどくさいくて申し訳ない)


「主流にならなかった」、「廃れた」とされる二刀流ですが、意味合いとして、


①一般的な意味で「二刀流」、左右の手に大小の刀(もしくは大・大のイメージの方もいるようです)で戦う技術(以下、


②上記の二刀流の技術を表看板(流派の主たる技術)としている流派(以下、


 という二つの意味で受け取る事が出来ると思います。



①の二刀ですが、

「江戸時代の多くの剣術流派に二刀の技があるという事実があるので、少なくとも廃れたとは言えない」

 となります。幕末・明治に活躍した流派でも、心形刀流や鏡心明智流、大石神影流、加藤田神陰流などに二刀の技があったようです。

 ただし、多くの流派で二刀が表看板にならなかった理由は考えないといけませんけども。



②の二刀流派について。おそらく14世紀、念阿弥慈恩の時代から虎乱という名称で左右の手に太刀や刀を持つ技法は存在し、陰流や新当流にも存在していました。ですが、二刀の技を表看板とする流派の歴史上の初出は宮本武蔵の父親である宮本無二であると考えられます。よく、無二は二刀ではなく左手は十手(実手)だ、と言われますが、無二の弟子や孫弟子の伝書を見ると通常の二刀だったようです。(無二流、無双流、当理流などと色々な名称があります)


 つまり、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて二刀流派が現れたのが史実と考えて良いと思います。

 技術としての二刀は、すでに念流、新当流、一刀流、冨田流、新陰流などにありました。ですが、二刀を看板とする流派は、太刀一本を主とする流派が広まっている所に現れた後発の流派という事になります。

 この場合、二刀流派は廃れたというより、宮本家家伝のマイナーな武術が、一刀のシェアを奪って全国各藩に広まったという事になります。全国的な主流にはなれませんでしたが、その地方の主流剣術流派となっている例はいくつもあります。



 二刀流派の記録について見ていくと、江戸初期に宮本家の二刀を広めた人物は先ほどの無二の一門以外には宮本武蔵と青木一族がいます。武蔵は有名ですから、説明の必要はないと思いますが、尾張近辺、播磨、福岡、熊本、新潟などに伝わり、どの場所でも地域の主流剣術となっています。また、どの地方でも根強く伝わり、戦前あたりまで稽古されていた記録があるようです。

 一方の青木一族(何人いたか不明です)も二刀流派という意味では重要です。青木家は無二の弟子とも武蔵の弟子とも、両者から学んだともされています。

 彼らは大阪や江戸、尾張などで江戸初期に二刀を教えていた記録があります。青木家の子孫がどうなったか不明ですが、その系統の流派(鉄人流てつじんりゅう十手流じってりゅう円明流えんめいりゅう両剣時中流りょうけんじちゅうりゅうなど名乗りはさまざまです)は佐賀や信州、新潟などに伝承されました。特に佐賀と新潟では維新後まで残っていたようで、これまた藩の主流流派の一つとなっています。



‐そもそも、どうやって武術流派が広まるのか?‐


 ところで、武術が広まるためには、その流派を学んで広める弟子が必要です。現代でも東京発の文化が全国に広まりやすいように、江戸時代でもやはり全国各藩の藩士が集まっていた江戸や大阪から各地に流派が広まっています。


 全国各地に広まった流派(特に江戸時代以降に創始された流派)を調べると、ほとんど例外なく江戸(または大阪)から広まっています。

 柳生家の新陰流、小野家の一刀流も江戸で教えていたからこそ広まったともいえます。(もちろん将軍家御流儀という威光もありますけども)

 江戸中期以降になりますが、小野派一刀流(中西道場)、直心影流じきしんかげりゅう馬庭念流まにわねんりゅう神道無念流しんとうむねんりゅう鏡新明智流きょうしんめいちりゅう浅山一傳流あさやまいちでんりゅう、田宮流などが江戸から全国各地に広まっています。柔術では起倒流きとうりゅう渋川流しぶかわりゅう関口流せきぐちりゅう)、扱心流きゅうしんりゅう天神真楊流てんじんしんようりゅうなどが同じように江戸で道場を開き全国に広まっています。


 翻ってみて、現在でも有名な示現流じげんりゅう、タイ捨流しゃりゅう香取神道流かとりしんとうりゅうなどはどうでしょうか。


 これらの流派は地方にあり、江戸で教えていた記録がほとんどありません。江戸時代を通して、ほとんど近隣に広まるのみでした。(江戸に出なかったためか、江戸時代の出版物等に出てくるタイ捨流や示現流の記録はかなりいい加減です。ジゲン流としては薩摩の東郷家の示現流ではなく、そこから別れて独自に発展した自源流じげんりゅう自現流じげんりゅうが一般的でした)

 また、神道無念流は二代目戸賀崎熊太郎とがさきくまたろうが剣豪として有名で、江戸で道場を開いていました。ですが、弟子の岡田十松に道場を譲り、田舎に帰って実家で道場を開きます。その結果、全国に広まったのは岡田十松やその弟子の斉藤弥九郎の系統で、家元と言える戸賀崎系は多くの場合、埼玉や茨城など戸賀崎家近隣で行われました。


 どれだけ優れていても知られなければ存在していないも同然ですし、広める弟子がいなければ広まらず、下手をすると途絶えてしまいます。


 二刀流派についても同様で、青木家が江戸や大阪あたりで教えていた時に学んだ弟子が自分の藩に流派を持ち帰っています。ただし、青木家の道場が江戸に在ったのは江戸初期だけらしく、江戸中期以降、江戸で青木家の二刀流の記録は見当たらないようです。(宮本武蔵は江戸で教えていた時期が短いのか、江戸から広まった事が確認できるのは岡崎藩くらいです)



-結局二刀流は?-


などなど、記録を調べて検討してみれば、


 ①二刀の技法自体は多くの剣術流派に存在する。


 ②二刀を表看板とする流派は、一刀の流派が広まったのちに、そのシェアを奪う形で広まった。


 ③二刀を表看板とする流派が広まった先では、維新後までその地方の主流剣術流派である例が多い。


 ③剣術の流派が広まる要因は技術的優位よりも地理的社会的要因の方が重要。


という事がわかります。つまり、


「二刀流はなぜ廃れたか(なぜ広まらなかったか)」


という疑問に対しては、


「二刀の技法は室町時代から広く存在した。また二刀を表看板とする流派は廃れておらず、むしろ先発の一刀を使う諸流派のシェアを奪って広まり、さまざまな地域に根付いていた」


と答えられると言えます。

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