第4回 「古武道」のイメージ

(※2016年4月9日に書いた記事の改訂版です)


 現代では日本の古い武道や武術、特に形稽古かたげいこを主とする(と思われている)武術を指す『古武道』という言葉ですが、この言葉や概念自体がいわゆる現代武道(剣道、柔道)が成立したことにより出来上がった概念であるようです。中嶋哲也先生の「近代日本の武道論」にはそのあたりが詳しく書かれています。


『古武道』という概念の登場は上記の書籍で論じられていますが、いわゆる『古武道』という概念が昭和初めに出来上がるまで、


『現代武道 対 古武道』


 という対立関係ではなく、同じ武道(武術)の中の新しいものと古いもの、くらいの理解だったというところが事実に近いようです。(つまりそれ以前に現代と同じような概念の「古武道」という言葉は存在してなかったわけです)


 幕末から大正の頃まで、たとえ流派名を名乗っていても修行の主体は竹刀稽古しないげいこ(いわゆる剣道)や講道館式乱捕(いわゆる柔道)という人が多かった事が記録からわかります。このことからも、いわゆる『現代武道』と『古武道』が対立概念では無かった事がわかると思います。


 創作作品で見られるような、『現代武道 対 古武道』という対立は流派単位ではあったとは思います。例えば講道館で修行した柔道家が地方へ派遣され、その地方の流派の師範と試合したとか、江戸や東京の竹刀剣術しないけんじゅつで修行した人が昔ながらの袋竹刀ふくろしないの地方流派の人と試合した、という記録は各地に残っています。


 ただ、全体の推移からみれば、巷で見かける、

「明治以降、古武道が現代剣道柔道へ負けて消滅」

「形稽古しかしない古武道に対して、乱取・竹刀稽古の柔道剣道が取って代わられた」

「第二次大戦後にGHQに実戦的な古い武術が禁止され、消滅させられた」

というWEB上で見かける話と、実際の記録から見えてくる史実はずいぶん違う感じがします。


 ちなみに明治大正生まれの剣道や柔道師範の記録を見ると、出身地で何々流道場に入門、その後(多くの例では十代後半で)更に修行するために武徳会(や講道館や東京の道場)に入門だとか、警察官となって剣の修行を続ける、という流れの方が大変多いです。


 今の古武道と現代武道の対比的なイメージからは奇異に感じる人もいるかもしれませんが、当時の人の感覚派、現代でいえばせいぜい地方の剣道場(柔道場)や高校の部活から中央の有名大学剣道部(柔道部)や警察に入るような感じだったと思います。


 ここで、時代物の創作作品が好きな人は、幕末を舞台にした作品を思い浮かべて貰えば納得いただけると思いますが、幕末当時すでに他流試合が一般化し、地方の藩で地元の流派を学んだ人が、江戸の有名道場に留学する例がよくありました。

 北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうに留学した坂本竜馬や、神道無念流しんとうむねんりゅうを学んだ桂小五郎などが有名です。彼らはそれぞれの藩の流儀、土佐の小栗流おぐりりゅうやわらや長州の新陰流(柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう)を学んでいました。どちらの流派も既に試合稽古を行っていたようですが、最新(流行)の道具を使用した他流試合を学ぶために江戸の流派に留学したと思われます。


 また、江戸時代中期の18世紀後半の剣術流派や有名な剣術家について書かれている「撃剣叢談げっけんそうだん」には、しない(現代でいう袋竹刀ふくろしない)を使った試合稽古をおこなわず、木刀での形稽古のみを行っていた流派について、その事を特別に書いています。つまり、当時すでに(他流試合をする、しないは別として)しないを使った試合稽古がある方が普通でした。

ついでに書けば形稽古といっても、単なる決まった手順の演技ではなく、技の掛かりが甘ければ反撃する、というような稽古は一般的だったようです。


 ですから、大正頃までは『形稽古かたげいこしかしない古武道』という意味での古武道のイメージは(とくに剣術や柔術などの場合は)存在していなかったと考えてよいと思います。


 ですが、昭和初め頃に剣道や柔道がスポーツ化、西洋的になったとの批判から、古来の武道を見直そう、という方向性でいわゆる『古武道』の形の演武が行われはじめました。これが現在の古武道振興会に繋がっています。そうした形で、現代武道との対比から出来上がってきたイメージが、「試合をおこなわない古武道」ではないかと思われます。明治頃には試合をおこなっていた流派でも、現在では試合的な稽古をおこなわなくなった流派や、「試合は剣道、流派としては稽古が中心」という流派も多くあります。これも現代武道との差異を表現するためかもしれません。


 ただし、幕末明治以降にどの流派も互角稽古ごかくけいこ(柔道の乱取や剣道の試合のように互角の条件で実施する稽古や試合)を取り入れた訳ではなく、竹刀稽古を受け入れなかった剣術流派や柔道式の乱取を否定した流派も多くあります。それらの中の代表例が柔道が捨てた技術を集大成したかのような大東流合気柔術だいとうりゅうあいきじゅうじゅつです。大東流は明治三十年代に登場し、後の素手武術に大きな影響をあたえました。この試合をおこなわない大東流系の柔術(合気道や八光流)のイメージが『試合をおこなわない古武道』に与えたイメージは個人的には大きいと思っています。また、大正頃から剣道家の間で急激に広まって現在でも大流行している土佐の居合(無双直伝流、夢想神伝流)も試合をおこなわない古武道のイメージに影響がありそうです。



※互角稽古について:

現代では試合というと双方互角な状態で稽古するイメージがありますが、江戸時代初期の記録を見ると、双方の条件が平等ではない試合の方が一般的だった事がわかります。

例えば新陰流系では片方が短い小太刀を持ち、片方が通常の太刀を持ち、長い方が好きに打ち懸かるのに対して、短い方がそれを防ぎながら勝つという稽古が行われていたようです。宝蔵院流ほうぞういんりゅうなどの槍術でも、長い素槍すやりで自由に突いてくる相手(これを突き方と言ったりしています)に対して、短い十文字槍じゅうもんじやり(こちらを入身いりみなどと言ったりします)で素槍すやりの内側、身際まで入る稽古がありました。


こういった平等ではない試合稽古に対して、お互いに互角な条件で行う試合を互角稽古や互の稽古などと書いたりします。同じ武器を使っていても、攻撃側と防御側が決まっている稽古もありました。

現代剣道にもこの互角稽古という言葉は残っています。

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