第5回 なぜ居合は大刀を一本差しで座るのか??

(※2019年4月19日に書いた記事の改訂版です)


 なぜ居合は大刀を一本差で座っているのか?


 この疑問は居合や古武道関係書籍でよく見る疑問で、流派や会派ごとの考えはあったとしても、居合の歴史における通説といえる答えも存在しないと思います。これまでの記事における、武術の時代による変化の実例として居合を題にしてみます。


 WEB上でよく見かける質問・疑問に

「正座して大刀一本を差して抜刀するなんてありえない」

 があります。


 江戸時代の礼儀では、室内では脇差わきざし(小刀)のみになり、大刀は腰から抜き、屋敷のものに預けたり、手に提げたり床に置いたりするのが普通だったのはよく知られているところです。その一般的な礼儀から言えば大刀・小刀の両刀を腰に差したまま、もしくは大刀のみを差して座るということは通常ありえない、という話です。


 実際に様々な流派の技法・形などを見ると、居合に限らず、捕手とりて・柔術・棒杖術ぼうじょうじゅつなどで打太刀うちだち仕太刀しだち※1、もしくは両者が大刀(多くの場合大刀のみ)を帯刀して座している形が存在します。(座り方は正座に限らず、胡坐あぐら片胡坐かたあぐら※2・立膝たてひざ蹲踞そんきょ等さまざまな座り方があります)


※1 一般的に打太刀は形で負ける側、仕太刀は勝つ側で、稽古では師や先輩が打太刀となるのが一般的です。

※2 片胡坐とは、片方の足は尻の下に足を敷き、もう片方を胡坐のように前に出して座る座り方です。居合や柔術の流派でこの座り方が見られます。


 歴史が長い古武道とはいえ、創始した時と同一で伝わってきているわけではありませんし、そもそも流派によって成立時期が二百年も三百年も違ったりしているものを“古武道とは”とか“居合とは”としてひとまとめにするのはかなり乱暴です。


 さらに同じ流派でも時代時代で変化があります。同一流派の史料を調べている際に、技や形についての解釈も変化や深化などがある事を多数見かけます。


 ですから、実際のところ

「何故大刀の一本のみ差して座るという形が存在するのか」

という問いに対する答えは流派によって、あるいは同一流派でも時代によって複数あると思います。


 個人的には田宮流たみやりゅう※3の創始期において

「なぜ座って大刀を差す形が作られたか」

 という問いに対する確定的な答えを求めていますが、いまだ確証的な史料は見つけておりません。


※3 田宮流は安土桃山時代から江戸時代初期を生きたと思われる田宮平兵衛たみやへいべえを祖としています。田宮平兵衛は林崎甚助はやしざきじんすけより学び、多くの居合流派の源流となっていますが、非常に謎の多い人物です。


 現在言われている

「なぜ座るか」

「なぜ(大刀)一本差か」

 といった問いに対する仮説・流派の伝承などは以下のようなものが見られます。それぞれについて解説をくわえてみます。(ここでは居合で長い刀が使われこと、特に田宮流系の流派で常寸よりかなり長い刀が使われた理由についての検討は省きます)


 1・元々は居合抜刀術いあいばっとうじゅつ立技たちわざであったが、江戸時代に正座が広まり、室内で稽古が出来るように座り技が作られた。


 2・江戸時代には大小の二本差で稽古されていたが、維新後に一本差となった。


 3・大刀ではなく大脇差おおわきざしなので一本帯刀、大刀帯刀でおかしくない。(また、この説に加え稽古のために長めの刀を使っているとされる場合も多い)


 4・実際は立技だが稽古の方便として座っている。実戦では同じ技を立って使う。


 5・要人警護のために大刀を帯刀して座って控えている。


 6・座っている事により身に付く術理・体捌きがある。


 7・座っている事自体が立っているより有利と考える、もしくはそういったシチュエーションを想定している。


 8・一本差の身分の人間が居合を使ったため。


 9.日本の武術流派では伝統的に稽古に必要ないものは身に帯びないため。




 1・『元々は居合は立技であったが、江戸時代に正座が一般化し、その作法に合致し室内で稽古が出来るように座り技が作られた。』

 この説は江戸時代に新しく剣術から作られた居合(大森流おおもりりゅうなどにそういった話があります)や元々立技のみだった居合流派(立身流たつみりゅうなどはそういった話があります)には合致します。

 ただし、田宮流系(林崎系)や伯耆流ほうきりゅう系、関口新心流せきぐちしんしんりゅう影山流かげやまりゅうなどの慶長頃から江戸時代初期に成立した居合流派には当てはまらない話です。これらの流派は流派成立当初から形の大部分が座り技で、特に田宮流・関口流では立技での抜刀技法は「立合たちあい」と言って居合とは区別しています。

 また大刀の一本差である点については説明がありません。(立身流も大刀一本差です)




 2・『江戸時代には大小の二本差で稽古されていたが、維新後に一本差となった。』

 この説はWEB上で散見しますが、江戸時代の居合の稽古が二本差で行われていた記録は、大小を使う形以外の場合ではほとんど見当たらないので、誤りと言ってよいと思います。

 大小を使う技は、田宮流系などの奥伝的技法で見られます。また、剣術流派の中には正式な演武では脇指を差すこととしていた流派もありますので、知られていないだけで普段の稽古で大小を差して稽古する流派が存在していた可能性はあります。ただ、一般的でなかったのは間違いありません。



 3・『大脇差なので一本帯刀、大刀帯刀でおかしくない。』

 脇差でも二尺前後(60cm前後)のものを差すことも場合によっては珍しくなかったようです。いわゆる常寸が二尺三寸(70cm前後)ですのでかなり近い長さになります。この説は個人的に説得力を感じます。



 4・『実際は立技だが稽古の方便として座っている。実戦では同じ技を立って使う。』

 立って使う形・技を技と座って稽古している、という説です。座ることにより立ち技より足腰の鍛錬効果があることや、室内での稽古が可能になることが理由といいます。この場合、流派によってはあきらかに立っていたら成立しない形があること、敵が帯刀して座っている捕手とりて・柔術・棒杖術ぼうじょうじゅつの形には当てはまらないという問題があり、一部の流派にのみ当てはまる話かと思われます。しかし居合流派の場合はありえそうです。実際この説を提唱されている師範もいらっしゃいます。これも一本差の理由は別に考える必要があります。



 5・『要人警護のために大刀帯刀して座って控えている。』

 伯耆流(星野派)にこの想定があります。ただ少なくとも稽古・形では大小帯刀ではなく大刀のみ帯刀しています。この想定も捕手や棒杖の場合でも合致していると思います。ただし一本差の説明にはなっていませんし、伯耆流(星野派)に限ってみても、要人警護としている形は一つです。



 6・『座っている事により身に付く術理・体捌きがある』

 これは2のバリエーションで、近年活躍されている複数の古流系の師範が類似の説を提唱されています。不自由な姿勢でこそ合理的・術理にかなった動き・無理無駄のない動き、などが身に付きやすい、という理論です。これは現在(また江戸時代に)伝わっている流派がなぜ座って稽古しているか、に対する説明にはなっています。



 7・『座っている事自体が立っているより有利と考える、もしくはそういったシチュエーションを想定している。』

 香取神道流かとりしんとうりゅうの大竹師範の語られている話では、自宅などで襲撃があった際に咄嗟に大刀を帯びてしゃがんで備えている、という理由だそうです。また夜間の場合、屋外でも低い方が敵や状況が良く見え敵からは見えにくい、という利点があります。その他天井が低い場所では膝をついた姿勢の方が天井に太刀があたらず自由であるという理由もあるとか。また黒田鉄山師範の話では居合の座構えは座っているので、敵が立っていた場合、敵の太刀が頭に届くまで立って構えるより余裕があり有利である、という話です。

 この『自宅で襲撃を察知し待ち構えている』という想定は捕手や棒杖で“敵(捕縛対象)が座って帯刀しているのをこちらは立って近寄り取り押さえる”という想定に合致しますし、逆に帯刀側は敵が立ってくるという想定の場合は納得できそうです。



 8・『一本差の身分の人間が居合を使ったため。』

 修心流しゅうしんりゅうの町井師範が提唱されています。居合は若党わかとうなどの一本差の武家奉公人(侍)が使う武術であり、本来一本差しである、という事です。

 たしかに藩によっては身分で学ぶ流派や術に傾向があった事はいくつかの史料から見られます。残念ながら若党に居合が好まれ学ばれていた記録などは存じませんが、たとえば福沢諭吉が書いている事では、中津藩で居合を学んだのは下級武士であり、上級武士は居合を学ばず鎗や馬術などを学んだと福翁自伝にあります。

 ただし、下級武士であり立身新流たつみしんりゅうを修行した福沢も一本差の身分ではありません。また、この福沢の記録はおそらく正しくありません。中津藩主奥平昌服おくだいらまさもと(福沢諭吉より4歳年上で同時代を生きた人物)は青年時代に田宮流系の新當流しんとうりゅう居合を学び、目録や歌の巻を伝授されています。

 その他、藩主やその一族が居合を学んだ例としては、弘前藩津軽家(林崎新夢想流はやしざきしんむそうりゅう)、松代藩真田幸道さなだゆきみち関口新心流せきぐちしんしんりゅう)、紀州徳川家(田宮流)、彦根藩井伊家(新心流)、岡山藩池田家(田宮流)、平戸藩主松浦静山まつらせいざん(田宮流)などがあります。また居合で有名な師範たち、紀州藩の田宮流田宮常圓や関口流の関口家、鳥居元忠に仕えた一宮左大夫いちのみやさだゆうやその弟子の谷小左衛門・尾張藩の上泉孫次郎かみいずみまごじろう講武所頭取こうぶしょとうどりの田宮流窪田清音くぼたすがねや彼らの門弟たちは下級武士や武家奉公人とはいえないと思われます。




 9.『日本の武術流派では稽古に必要ないものは身に帯びない』

 日本の武術流派では、形や稽古で必要ないものは身に帯びないのが普通です。剣術の稽古の際に鞘や脇差は帯びませんし、棒や槍、長刀の稽古でも形で使わない場合は刀や脇差はさしません。(当然例外はあります)

 柔術の居捕いどり※4でも、脇差を使う形なら脇差を帯びますが、使わない場合は何も帯びません。同じように居合の稽古でも脇差を使わない形の場合は脇差を差さないという説です。

 この説に対して反論として「脇差の有無で抜刀の勝手が違う」と言われますが、この反論は居合だけでなく外の武術種目(剣術や長刀など)すべてにあてはまりますので、剣術や薙刀などで鞘や脇指を差さない理由についても検討する必要があります。


※4 居捕。居合いあい居相いあいなどとも言いますが、柔術では座った状態からの技一般を居補(居取)、立った状態の技一般を立捕たちどりや立合と言います。



○では何が正しいか?


『大刀一本差で座っている』理由については上記のようにいろいろな理由が考えられます。

 今までいくらか江戸時代の居合の伝書を読みましたが、現代では問題になる

「実戦のためには大小二本差で稽古すべきである」

「大刀での居合は非実戦的である」

 という内容については読んだことがありません。居合自体が剣術に比べて役に立たないものである、という批判の記録はいくつもあります。逆に居合こそとっさの場で不覚を取らないために武士たるものが身に着ける武術である、という意見も古文書で多数見つけることが出来ます。


 そもそも居合の稽古に日常の礼儀や常識というものが武術の稽古方式にどの程度影響していたのか、また武術や武芸を日常の任務のために稽古する割合がどの程度だったか、という点についてもよくわかりません。実用のためというより、武士としての心構え、修養、また鍛錬のためという意識で稽古している例が多かったことは古文書等からも読み取れます。武芸流派の目録を得ていなければ家を継げない、という藩の例もありました。また芸事として考えれば流祖より代々伝わった技・心・形などを伝承するという事にも価値があったでしょう。(もちろんいざというときに役に立たなければ意味がないわけですが)


 資料や記録から推測する限り、田宮や片山といった居合の流派は慶長前後には流行しはじめています。また江戸時代初期にはすでに田宮流・伯耆流・関口新心流の三つの流派(私は勝手に三大居合流派などと言っています)が江戸で流行していたことは事実があります。これらの流派はいずれも一本差で座っておこなう武術です。


 各地に広まった居合がこの江戸時代以前に生まれたと思われる


「大刀一本差で座っておこなう」


 という形式を墨守した理由はわかりませんが、芸事として伝統の墨守・流祖の作った形の伝承などという意識があっただろうことは想像できます。


 少なくとも、定説では幕府に禁止されたとされている、常寸をはるかに超えた三尺や三尺三寸といった居合刀が田宮流や関口流で全国的に使用されていたという事実もあり、実際の礼儀作法や常識とやや無関係に武芸は伝承されたのではないかな、という印象もあります。ちょうど帯刀が出来なくなった現在でも真剣を使用して居合を稽古する人がいるように、江戸時代でも時代や社会状況にあわない想定でもそのまま保持され、これまた現代で武道を修業する理由がいろいろと語られるように、その古い稽古方法に新しい理由づけがされたと思います。上記の護衛のために座って控えているのであるという理由や一本差の身分の武術であるという理由などが後世に新たに付け加えられたり新しく解釈されたものでしょう。


 という事を考えると、16世紀後半に田宮流が成立した時点、もしくはその前になぜ大刀一本差で座って行う事を修業したか、という点がまさにこの問題の原点で、これを解明しなければこの「なぜ座って一本差か」という疑問の根本はわかりません。(と最初にもどってしまいますが)




おまけ:居合の流派などの概略説明


・田宮流

 安土桃山時代に池田家に仕え、その後紀州徳川家に仕えた田宮常圓(田宮対馬守たみやつしまのかみ長勝)が教えた流派。その後も子孫や弟子たちは紀州藩に仕え、紀州藩の代表的剣術(居合)流派となっています。常圓の子平兵衛長家へいべえながいえなどの弟子から各地に広まっていますが、主に西日本各地に伝わりました。江戸にも伝わっており、講武所頭取の窪田清音も田宮流でした。窪田の元には全国から留学生が集まっていたようです。

 「田宮流」と言っても田宮平兵衛(長家ではなく、安土桃山時代の人物)の弟子、長野無楽ながのむらく三輪源兵衛みわげんべえ(水戸藩の新田宮流しんたみやりゅうもこの流れ)なども田宮流となのっており、紀州田宮家の田宮流とその他の田宮流が存在します。田宮平兵衛と田宮対馬守長勝の関係は親子と言われていますが、詳細は不明です。


・林崎新夢想流

 林崎甚助の流派とされていますが、実際には田宮平兵衛の弟子、長野無楽の弟子一宮左太夫や沼澤甚五左衛門ぬまさわじんござえもんの系統が名乗った流派名です。そのうちの一系統が弘前藩に伝わり、これが林崎新夢想流(神夢想林崎流しんむそうはやしざきりゅう)として残っています。長野無楽の弟子は田宮流を名乗っていた者も多くいるようです。また長野無楽の弟子、尾張藩の上泉孫次郎(孫四郎)は夢想流むそうりゅう居合と名乗っていました。


・伯耆流

 安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した片山伯耆守久安かたやまほうきのかみひさやすが創始した居合流派です。久安の親族や弟子が各地で教えていた記録があるためか、全国で伝承されていました。久安自身は若い時は畿内で、のちに江戸、晩年は岩国で教えていたとされています。子孫の片山家は岩国藩に仕え、片山流剣術として伝承されていました。維新後も存在していましたが、広島の原爆投下で最後の師範が亡くなったそうです。現在残っている伯耆流は肥後熊本藩に江戸前半頃から伝承されていたもので、星野派と熊谷派の二系統が現存しています。


・関口新心流

 江戸時代初期の武芸者、関口柔心せきぐちじゅうしんもしくは関口氏成せきぐちうじなりのいずれかを開祖とする流派で、子孫の関口家は紀州藩に仕えました。柔術で有名ですが、居合も伝承されていました。関口氏成は槍も有名で新心流槍術という流派もあります。関口流居合も関口家やその門弟が江戸などで教えたため、全国に伝承がありました。現在でも肥後細川藩の関口流抜刀せきぐちりゅういあいや紀州関口家の関口新心流せきぐちしんしんりゅうが伝承されています。


・立身流

 戦国時代の立身三京という人物が開祖です。総合武術とされていますが、その技術の根幹はむこうまるいという二つの抜刀の技とされています。居合(座った技)を基本とした田宮流や関口流、伯耆流と違い、立技を基本としています。堀田家中(山形藩→佐倉藩)に伝承されていたようですが、奥平おくだいら家中(中津藩)にも伝わり、ここでは外他流とだりゅう剣術などの影響を受け立身新流たつみしんりゅう抜合と名乗っていました。福沢諭吉が学んだことは有名です。

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