第7回 古流柔術の技ってどんなん? 柔術ザックリ発展史

 古流柔術というと、

「掴みかかってきた(殴りかかってきた)敵に対して、華麗な関節技(だいたいは手首の関節技)で投げ飛ばしたり固めたりして反撃」「後の先」

 みたいなイメージがある人もいるかもしれません。特に手首を掴まれた際の技をイメージする人も結構多いのではないでしょうか。もしくは、ブラジリアン柔術のような寝技で戦うイメージとかも近年だと多いのでは。マニア気味な人は柳生心眼流や諸賞流を例に挙げて当身技云々と言うかもしれません。


 ですが、実際古流柔術流派、特に江戸時代中期以前の古めの流派だと、手首を掴まれた時の技や敵の手首関節へ掛ける技はほんのごく一部で、多くの流派で掴まれるのが多いのは胸倉です。互いに胸倉を掴みあったところからはじまる、そういう想定の技もよくあります。手首を掴まれることに対処する技というのは、合気道や少林寺拳法などの感覚から言えば、意外なほどに少ない傾向があります。


 私は個人的に、

「古流柔術=手首の関節技とか手首を掴まれた場合の反撃の技」

 というのは明治以降の大東流だいとうりゅう系の流派や間接的に影響受けた流派のイメージだと思っています。


 ところで、ここまで古流柔術と一括りにしていますけども、江戸時代の史料をみていると、藩によってはいくつかに分類している例があります。有名なものは尾張藩の資料「尾張 御家中武芸ごかちゅうぶげいはしりまわり」(以下はしり廻り)です。ここでは、現代でいう柔術を、

小具足こぐそくこしまわ

捕手とりて

組討くみうち

④やわら

 の四つに分類しています。それぞれ、想定や目的が違います。


①小具足・腰の廻り

 小具足ですが、はしり廻りでは

「小具足・腰廻というは戦場の働きの大芸にあらず、平日、敵と膝組ひざぐみの時、敵不意に替りて、我を害せんと仕懸しかけるをとりひしぐの術也」

 となっています。

 小具足・腰廻では短刀や小脇差こわきざしの事を『小具足』と言います。竹内流の伝承では、此の術(小具足腰廻)を身に付ければ、『小具足』(この場合は軽易な武装の事)姿と同じように身を護ることが出来るので小具足という、としています。ただ個人的には戦国時代以前の記録では槍・長刀なぎなた・大太刀を大具足おおぐそくと言っているため、小具足というのは小さな武器を示しているとの説が正しい気がします。


 小具足については、竹内流とか古い流派では双方が短刀を持っている言わば短刀術みたいな感じです。ですが、江戸初期の関口流せきぐちりゅう制剛流せいごうになると、敵が短刀を持って攻撃するのを素手で防ぐ技の割合が増え、江戸時代後期の天神真楊流てんしんしんようりゅうなどでは『小具足』という形が素手で小太刀捕する形名になっています。


 捕手にしろ小具足腰廻にしろ、文献上は竹内流を最古とするわけですが、竹内流の文献にも開祖修行した時点でいくつか流儀があったような事を書いています。当然、無からいきなり流派が現れるわけじゃないので、なにかしら捕手・小具足的な技術はあったんだと思います。(私のもう一つの作品「独断と偏見による日本の剣術史 」の第13話、第14話でそのあたり室町時代の体術についての話を書いています。)


 時代はくだりますが、天流の外物とのものに小具足として、太刀の柄をつかまれた場合、旅行中囲まれた場合、など様々な状況に対する対応法がまとめられています。念流の犬の巻(これも外物)にも同種の技法があるとか。こういった感じで敵を捕らえる場合の心得や、座敷で襲われた場合身を守る方法として技法は戦国時代からいろいろあったんじゃないかと思います。一刀流の外物にも『詰座刀抜つめざかたなぬき』(狭い場所で刀を抜く方法)とかあり、新陰流外物にも『人捕時打所ひととるときうつところ』(そのまま、人を捕らえるとき打つ急所)なんかの心得がある。


 柳生新陰流の柳生宗矩やぎゅうむねのりには『取手小脇差居相とりてこわきざしいあい』という何十手かの短刀護身術や捕手の術の伝書があります。内容は竹内流の小具足腰廻や捕手によく似ていて、互いに脇指を差して対座している際の技法が中心です。父の石舟斉せきしゅうさいも近い内容の伝書を出しています。疋田豊五郎ひきたぶんごろう・柳生石舟斎の二人が似たような内容の伝書を出している以上、彼らの上泉信綱かみいずみのぶつなの時点でたぶん、小具足的な技法や捕手的な技法の心得も何手かあったんだと思います。


捕手とりて

「はしり廻り」では捕手について、

「捕手は竹内流小具足の中に起こりて、小具足とは意味表裏ひょうりし、我より仕かけ、敵の不意をうち捕拉とりひしぐ事。(殺さずに捕えるのは)我にも恨みある者にても討留めては残覚ありやなしや知れ難し故也。捕しめてせんさくせん為にしは乱世の事也。」

 とあります。

『戦国時代の武術は殺し業。」とかいう一般的なイメージと違って、敵を生け捕る捕手ははしり廻りでも捕手は乱世の技、と書かれている古い技術です。はしり廻りに書かれているとおり、当然戦国時代でも、敵の使者なんかを捕縛する必要はありますし、間者を生け捕りにする方が単純に殺すよりずっと価値がある技術なわけです。

 余談ですが、当時の捕手は『逮捕術』のイメージと違って当身技を多用するものだったらしいです。逆手、関節技で華麗に取り押さえるというのは近代柔術のイメージで、戦国時代の捕手は初期の技術だけあって実用性や確実性、即応性が求められていたのか、相当に荒っぽいものだったらしいです。人権意識もないでしょうしね。

 なお、はしり廻りでは、治世では武士が捕縛ほばくなどせず、足軽などがするべき技だが、捕手を知らないと逆に簡単に取り押さえられてしまうので武士も捕手を修行するのだ、というような書き方をしています。


 室町・戦国時代に簡便な捕手・捕縛技術がある程度発展して、そこで捕手・小具足腰廻を1532年頃に大成したのが竹内久盛なんじゃないだろかと考えられています。竹内流の初期の技法は小具足二十五手・捕手五手と手数も少なく、おそらく有用な技術を取りまとめ工夫した感じなんじゃないかと想像します。


③組討

 柔術の源流とされる「戦場組討」、これも戦国時代にいったいどこまで体系化されていたか謎です。はしり廻りでは戦場の組討は我が力に任せて組合、敵を仕留めるのは相撲と同じである、と書かれています。起倒流きとうりゅう柔道の開祖たちが『相撲』の名手とされているところから見て、おそらく戦国時代の戦場で使う組討は、それ専用の技があるわけでは無く、伝統的な相撲(戦国時代くらいまでは土俵が無かったそうです)もので鍛錬して、あとは甲冑相手にどうするか、どこを掴むか、といった心得程度のものだったんじゃないかと想像します。


 ただ、小具足腰廻も別名『組討』というようですし、小具足の技術にある、短刀を持った手を押さえられたのを外す各種のテクニックは戦場組討でも使われていたものでしょうし、関連はありそうな気もします。はしり廻りでは、力任せでは心もとないので、現代の組討といっても表裏の技が様々に作られているというような事を書いています。


④やわら

 はしり廻りでは

「やわらは戦国にはなし。戦場の組討は唯、己が力に任せて組合くみあい巻合まきあいせし事とみへたり。やわらの術、本朝より始まる事は寛永年中かんえいねんちゅう大明だいみんの乱をさけ陳元ピンというもの本朝へ来たり…」

 と有名な陳元ピンと三牢人の逸話が書かれています。また、

「外国の伝を授かるまではかちと云う柔術の道は日本にて知らざる事也」

 とあり、元々日本人は正直律義で正道のみを貴んでいたいたため、後の先、敵の力を利用する(ある意味卑怯な)柔術の道を知らなかった、という書き方をしています。

 実際のところはどうあれ、戦国時代には組討、捕手、小具足といった武術しか存在せず、江戸時代になってから、柔術、やわら、和などと呼ばれる武術が登場したのは事実です。


○柔術の登場

 さて、三牢人と陳元ピンについて少し説明します。

 江戸時代初期、新陰流の柳生石舟斎・柳生宗矩の門下に相撲の名手福野氏ふくのしや茨木氏という人物がいました。彼らが良移心当流りょういしんとうりゅうや起倒流といわれる流派を創始します。これも江戸初期(1620年代?)に陳ゲンピンに福野ら三人の浪人が学んで柔術を創始した、といまでも言われることがありますが、福野の良移心当流和の伝書内容は陳ゲンピンにあった前後で何も変わっていないので、元ピンに会ったとしても参考にした程度と思われます。(しかも古い記録では陳から拳法か何かを習ったのではなく、陳が「人を捕る技」について語ったのを聞いたと書いているだけです)


 福野の良移心当流の伝書は柳生十兵衛が著書に引用しているのでよく知られていますが、体・請身うけみの二つを基本にしたシンプルな体系だったような感じです。この流派から発展した起倒流も初期は表裏おもてうらの十四本程度だったようで、現在伝わる起倒流柔道・柔道古式じゅうどうこしきの形・直信流じきしんりゅう柔道の形を見ても起倒流系の古い技はシンプルで、まとめてしまえば「捨身投」と「膝を付いて後ろへ倒す技」の二つしかありません。これまた古流柔術のイメージからはかけ離れていますが、これが古い柔術の姿の一つだと思います。

(※直信流や起倒流は柔道と最初に名乗った流派と言われています。ちなみに、講道館柔道に最も大きな影響を与えた流派の一つが起倒流柔道です)


 で、『柔術』の起源ですが、起倒流の伝書やはしり廻りなどの資料等によれば、江戸時代も安定してきた頃、力の必要な従来の組討に対して、力ではないもので勝つ技術という意味で『ヤワラ』と名乗ったようです。小具足・捕手・組討というふるい名称に対して『拳法』『和』『柔』という名称が現れました。『拳法』『和』『柔』『俰』などという名称はいずれも『ヤワラ』と読んだようで、これは明治頃まで一般的にそのように読まれていたようです。


※竹内流の初期の師範方には、小柄な体格で大力の兵法者を捕縛した逸話がありますし、「従来の組討」は力づくの技ではけして無かったのです。あくまで世間一般への宣伝文句、もしくは江戸初期には組討捕手というと力づくに見える流派が多かったと言うことだと思います。面白いことに、柔術を名乗った関口新心流せきぐちしんしんりゅう、そこから出て関口正統を名乗った渋川流柔術しぶかわりゅうですが、体格が良く、力が強くないと強くなれない流派との評判だったようです。(江戸中期以降の話です)


○江戸時代初期の有名流派


 江戸初期に現れ、その後隆盛した起倒流以外の柔術流派に関口せきぐち流、制剛流せいごうりゅう楊心流ようしんりゅうなどがあります。関口新心流せきぐちしんしんりゅうは1630頃開流、制剛流は1600年代半ば開流、楊心流は実質的な開祖が1660年代に活躍しており、どの流派も同じく江戸初期に現れています。


 関口新心流は柔術、制剛流は(イ和)、楊心流も柔術と名乗っていました。このうち関口流と制剛流は流派の体系として「小具足」と「捕手」を持っています。特に制剛流は最初に「捕手」を学び、それに対する技(やわら)をその後習う、という感じの体系になっていたようです。


 制剛流は浅山一伝流あさやまいちでんりゅう難波なんば一ぽ流・竹内流たけうちりゅうの三流儀に開祖水早が創始した制剛流を加えたもので、二代目の初期の頃は四つの流儀を教えていたようです。それを二代目で実質的な開祖の梶原直景が捕手・小具足・イ和羽手やわらはでという体系にまとめ、最初に捕手(これは他流の捕手技とか)を学び、それに対するヤワラの技を教えたとかいう話もあります。ここでもヤワラはそれまでの流儀の一つ上の武術として考えていたみたいです。関口流の場合はよくわかりませんが、開祖は「柔らかな力の使い方」を発見し、それによって流派を創始したそうですから、やはりそれまでの体術とは違う、という意識があったんじゃないかと思います。


 楊心流はこれらの流派とちょっと違い、長崎で異人から医術を学んだ人が急所についての知識を加えて創始した、柳の動きから開眼した、とかいろいろ言われています。ただ、どうも初代の医者というのは実在が怪しく、実質的には二代目の肥前の人・大江専兵衛が開祖ではないかといわれています。


 楊心流は関口・制剛と違い、明確に小具足・捕手・ヤワラというような技法分類はなく、古いおもての技は互いに帯刀した座敷での捕手だったようです。ただそれまでの流派と違い、急所についての詳細な知識や締め技と高度な活法・整法を伝承しました。また、その技術も古い捕手と違い、締め技や逆手を併用した、高度な捕縛技術を編み出したようです。締め落としても活法で生き返らせる、という事が出来たことから、『柔術の達人は活殺自在かっさつじざい』、というイメージはこの流派が生み出したようです。起倒流などは楊心流の活殺自在に対して「本当に殺したら生き返らせる事なんか出来ない」と伝書で批判していたりします(笑)


 以上、まとめると、

・室町・戦国時代 捕手と小具足、組討の時代

 捕手とりて(生け捕る技術)や小具足腰廻こぐそくこしのまわり(主に短刀を使った格闘技術)の流派が生み出された。


・江戸時代初期 やわらの登場

 それまでの力ずくの組討・捕縛技に対して「力ではない高度な技術」という宣伝文句でヤワラ(柔・和・拳法)が現れた。また医術を取り入れ活殺自在の技法が出現。



 なお居合(抜刀術)は戦国時代末期、小具足・捕手がすでにあった時代、敵は近間で小具足(短刀)でこちらを攻撃してくるのに対して、長い刀をいかに抜くか、という点から発展したと思われます。よく言われる「ヤワラと剣術の間」のヤワラは小具足や捕手の事と考えたほうがよさそうです。


 以上の話は高橋賢先生が月刊空手道で連載されていた「幻の日本柔術」、島田貞一先生が月刊武道で連載されていた「槍と槍術」、同じく渡辺一郎先生の連載「武道の名著」、それから「尾張 御家中武芸ごかちゅうぶげいはしりまわり」ほか色々な伝書を元に想像で書きました。


○江戸時代中期から明治維新、技の変化

 ついでに江戸中期以降の話も。古流柔術の技のイメージと、古い流派の技が違う点を、これまでの柔術の歴史を踏まえて説明します。

 江戸時代初期までは、武術種目と身分というのはあまりうるさくいわなかった傾向があったようで「武士でも捕手が出来ないとものの役に立たない(間者を捕らえられない)」くらいの説もあったようです。ですが、身分制度が固まってくると「捕手は捕方の技で立派な武士が学ぶものではない」といった身分によって学ぶ武術が決まるようになってきたようです(藩によるようです)

 そうすると、「柔術は組討や捕手より高度な技」という意識も身分制度と関連して起倒流や関口新心流は藩主クラスにも学ばれたようですが、捕手を主とする流派はあまり学ばれなかったようです。


 江戸時代も終わりに近づく頃に創始された流派は、戦国時代の流派が主とした小脇差を使う技や捕手の技より、素手対素手の想定の技が増える傾向があったようです。幕末に創始されたと思われる三神荒木流や気楽流の技法は大半が素手対素手の技法で、古い流派に比較して逆手、関節技もかなり増えてきます。


 維新後、廃刀令により帯刀できなくなった際にさらにその傾向は進み、帯刀技をすべて目録から削除した流派もあったようです。明治後期に創始された大東流は小具足や捕手的な技がほとんど無く、素手対素手で技法がまとめられ、手首や肘の高度な逆手を持っています。この大東流の影響か、大正・昭和に創始された柔術的流派は、帯刀しなくなった影響と、護身術が求められた影響か、手首や肘の逆手が多く、「古流柔術といえば逆手・関節技」のイメージはこの頃の流派(特に合気道や少林寺拳法)の影響じゃないかと個人的に思います。


 技法で言えば、江戸時代以前の小具足の技は逆手が少なく、抑えて短刀で突いたり、逆手といっても腕を押さえたり、脇固めしたり、というかんたんで効果的な逆手がほとんどです。捕手術も逆手で抑える業よりも、合気道で言う入身投的な、相手に入り込んで倒すような技が多いです。


 また、起倒流系で見られるように、投げ技も腰投(請け手が使う)や膝を付いての投げや捨て身投げが主体ですし、楊心流の古い捕手技も締め技を併用しますが、やはり入り込んで倒すような技が多く、逆手のみで相手を制圧するというのは少ない印象です。




(元記事、2014年9月頃のツイートより)

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