終章


 明鳳は嵐のように訪れ、嵐のように去っていった。庭園に一人残された玉鈴は二人が去った方向をしばらく見つめ、ゆっくりと首を左右に振る。


 ——駄目ですね。僕らしくない。


 明鳳が側にいると玉鈴は自分が自分でいられなくなる感覚に何度か陥りそうになった。天真爛漫で、自分が正しいと信じて疑わない彼はとても眩しい。彼を見ていると偽物である自分が側に立っていい相手ではない、と卑屈に思ってしまう。

 玉鈴は考えを捨てるため、また首を横に振る。けれど、一度抱いた疑念はどんなに捨てようとしても心から離れることはなかった。

 ああ嫌だ、と玉鈴は顔を覆う。こんなことで悩むなんて自分らしくない。疑念を捨てることができないのならば別のことをしよう。そうしなければ心が擦り減ってしまいそうになる。

 顔を覆う手を外すと玉鈴は庭園の出口に向かって歩み出した。帰って琳と玉葉へ祈祷を捧げようと思ったのだ。


「……あっ」


 途中、忘れ物をしたことを思い出す。歴史を書き綴る巻物を柳の木の下に置いたままだった。ここが蒼鳴宮の庭園だとしても無用心だ。

 取りに戻ろうと踵を返すと柳の木の下でたたずむ男の存在に気付く。紅蓮の長袍を身に纏う男は根元に置かれている巻物を見下ろしていた。



「……高舜、様?」



 今、目の前に広がる光景が信じられず玉鈴は確かめるためにその名を呼ぶ。

 名を呼ばれた男はゆっくりと振り返る。男は玉鈴の姿をとらえると笑ったらしく白い毛が混じる口髭が微かに動いた。


『久しいな』


 耳朶に届くのは聞きたかったあの人の声。


「……おかえりなさい」


 玉鈴は泣きたくなるのを我慢すると一刻でも早く、彼の元へ行きたくて駆け出した。


『無用心だぞ』


 高舜は玉鈴が側にくると笑いながら巻物を指さした。


『手渡そうと思っても触れることができないのは不便だな』


 豊かな顎髭を撫で、高舜は困ったように肩を竦めてみせた。


「少し気が緩んでいました」


 はにかみながら玉鈴は巻物を拾い上げた。


『良い傾向と思えばいいのか』

「お好きに思っていただいて結構です」


 心を見透かされ、玉鈴は冷たく返した。

 それを見て高舜は面白いものを見た時のように笑いを噛み締める。嬉々とした表情に遊ばれていると感じた玉鈴は手にした巻物を持つ手に力を込めた。


明鳳あれはどうだ? 木蘭に似て可愛らしい子だろう?』

「あまり、亜王には向かないと思っています」

『だろうな』

「けれど、貴方は彼を亜王にしたいのですね」


 高舜は答えず、口角を持ち上げた。


「分かっていますよ」


 玉鈴は深く長息する。高舜が言いたいことは何年も前から理解していた。高舜は明鳳を亜王にすることを望んでいる。その補佐役を自分にして欲しいことも。


「貴方との約束はきちんと守ります」


 地面に視線を落として玉鈴は答えた。

 かつて、蒼鳴宮の庭園で「明鳳を支えて欲しい」と高舜は幼い玉鈴の手を取って頼み込んだ。一方的に押し付けられた約束だが、敬愛する彼の頼みだと玉鈴は快く受け入れた。

 玉鈴は高舜の願いならばどんなことでも叶える覚悟を持っている。中途半端な存在の自分を認めて、居場所をくれた彼が大事だから——。

 考えの海に沈んでいると「玉鈴」と低い声で名を呼ばれる。

 玉鈴が面を上げると高舜が柔和な眼差しで自分を見つめていた。


『すまない』


 高舜の体は淡い光に包まれていた。


「……木蘭様や義遜様にお会いしなくていいのですか?」


 もう時間がないと悟った玉鈴は震える声で「寂しがりますよ」と言った。


『無理だな』


 高舜は自分の手を見つめた。指先から徐々に雲散し始めている。

 それは、高舜の未練がなくなったことを意味していた。未練は魂をこの世に縛る鎖だ。鎖がなくなれば魂は輪廻の輪に還っていく。


「待ってください!」


 玉鈴の頬を一筋の涙が伝う。高舜を繋ぎ止めようと袖を握りしめるが袖は光が解けるように消え去った。

 光の粒子が煌めく中、高舜は最期に思いっきり笑った。亜王としてではなく、蒼鳴宮でいつも見せていた少年の顔で。



『亜国を、明鳳を頼んだ。——ゆえ



 ふわふわと宙を漂う粒子を胸に抱きしめると玉鈴は地面で蹲り、押し寄せる感情のままに静かに涙を零す。




「はい。高舜様、……貴方の御心のままに」


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