第50話 老猫のお礼


 柔らかな日差しに包まれた庭園は夜間の静けさなど嘘のような活気に溢れていた。皇太后の好意によって植えられた薔薇の蕾はふっくらと膨らみ開花の時を待つ。薄紅色に色付く蕾はもう二、三日すれば可憐な花を咲かせるだろう。甘い蜜が待ち遠しいのか枝には天道虫てんとうむしが数匹止まり、そんな天道虫を狙っているのか木の枝にはつぐみの群れが羽を休めていた。


 柳の木に背を預け、玉鈴はぼうっと池を眺めていた。

 ふと足元にぽわぽわした毛玉が動いているのに気づく。玉鈴の視線に気付いたのか毛玉は「にゃお」と鳴きながら顔をあげた。扁桃アーモンド型の瞳が嬉しそうに細められる。不自然なほど短い尾を揺らすのはいつぞやの老猫である。


「ああ、お礼は良かったのに」


 玉鈴は老猫を抱き上げた。手には重さも温かさも伝わらない。

 老猫は言葉を理解しているのか玉鈴を見つめると大きく口を開く。


 ――にゃお。


 猫の言葉など分からないが、老猫は感謝を述べているように思えた。老猫の主人である翠嵐は才家出身だと捕らえられたが明鳳によって恩赦が認められ、減刑処置がとられた。今は事実確認のために身を拘束されているが死罪となることはないだろう。


「どういたしまして」


 老猫をゆっくりと地面に下ろしてやる。


 ――にゃお。


「お前は彼女の元に戻りなさい。大切なのでしょう?」


 ――にゃあ。


 最後に一つ鳴くと、老猫は玉鈴の足に首をすり付けて軽い足取りで主人の元へと歩き出す。


「また、困ったことがあれば僕を訪ねなさい」


 手を振っていると庭園の小道を明鳳が歩いてくるのが見えた。


「お仕事はよろしいのでしょうか?」


「ああ」と短く返事をすると明鳳は玉鈴の横にどかっと腰を下ろす。


「火傷は?」


 明鳳は玉鈴の右手をちらっと見た。

 玉鈴の右手には火事で負った火傷を隠すための包帯が巻かれていた。火傷を負った直後は水風船のように皮膚が盛り上がり、乾燥した大地のようにひび割れていたが二日経った今、腫れが残るだけだ。もうしばらくしたら腫れすらも引いて、いつものような手に戻るだろう。


「もうほとんど治っています」


 玉鈴は包帯を摩った。


「そうか。誰か来ていたのか?」

「猫です。才昭媛様を守っていた子です」

「猫の幽鬼もいるのだな」

「はい。人もいれば犬もいますし、虫もいます」

「周琳の幽鬼はいないのか?」


 それには首を横に振った。


「幽鬼、というよりも怨念の塊と言った方がいいです。もう人の形すら保てていません」


 首を降りつつ玉鈴は目を閉じた。蒼鳴宮の使われていない房室に寄り添う二人の姿が脳裏に浮かぶ。

 申し訳なさそうに俯く玉葉と黒い泥の塊——琳は怒りと恨みに身体を支配され、とうに人間ではなくなった。玉鈴がその恨みを祓っても人として輪に還ることは難しいだろう。

 琳は誰かが近づくともぞもぞ動き、表面を覆う水疱瘡みずぼうそうに似た水袋をパン! と破裂させ威嚇する。泥々とした液体が皮膚に付着すれば、そこから病にかかるので玉鈴が隔離したのだ。


「僕はしばらく彼女の恨みを晴らすため尽力します」


 玉葉は琳が恨みを晴らすか無くすまで冥土に行く気はないらしい。ずっと泣きそうな顔で娘を抱きしめている。

 これ以上、玉葉の憂い顔は見たくない。出来る限り早く琳の恨みを晴らそうと玉鈴は心に誓う。


「それが僕ができる唯一の罪滅ぼしです」


 一呼吸置いて、明鳳は気遣わしげな視線を向けた。


「周琳の自死についてはお前のせいではない」


 それは本心からの言葉だった。全ての元凶は才林矜だが周琳の自死は彼女の意思であり、玉鈴のせいではない。

 琳は才家を潰すためにそういった行動にでた。明鳳が諭しても彼女は納得せず、結果的に死を選んだ。


「いえ、僕の罪です。全てを知っていたのに救えませんでした」

「お前は全てを背負うのか」


 心を探るように発せられた言葉に玉鈴は答えない。代わりに静かに微笑んで見せた。


「お前は、難儀だな」


 独り言を呟いて、明鳳は額に手を置いた。頭痛を抑える様に深く息を吐き出し、玉鈴の横顔を見る。


「俺からお前に下す命は三つある」


 玉鈴は姿勢を正すと頭を下げた。


「なんなりと。どのような罰でも受け入れます」

「顔を上げろ」

「はい」


 玉鈴は唇を引き締めた。覚悟はしていたが対面して罰則を言い渡されるとはこのような不安や緊張を抱くのだな、とどこか他人事のように思う。

 自分は死罪でも構わない。尭と淼、豹嘉の三人が無事ならば。


「一つ、才翠嵐を侍女に迎えろ」


 え、と玉鈴は声をあげた。


「僕の侍女にですか?」


 まさかの内容に玉鈴はこてんと首を傾げた。男なのに女装して後宮に暮らし、数々の明鳳への悪態を咎められるのだと思っていたのだが明鳳からの命は正反対だった。

 侍女に迎えろ、ということは今の時点で玉鈴を廃妃する予定はない、と受け取れる。


「ああ、そうだ。才翠嵐の生家は財産を全部没収した上で解体した。けれど、あの女には身よりがないという。それならお前の侍女に加えればいい」


 そうだろう? と問われて玉鈴は力無く頷いた。覚悟をしていた分、拍子抜けした気分だ。


「亜王様のご意志に従います」

「ここは三人で住むには広すぎるからな。少しは楽になるだろう」


 明鳳はにやりと口角を持ち上げた。


「二つ、俺に真実を教えろ」


 大きな瞳は好奇心で輝いている。


「真実、ですか」

「龍の子とはなんだ?」

「えっと……」

「柳の名を持つ者と関係があるのだろう?」

「まあ、そうですね……」

「過去の文献を遡ってみたんだがどの時代にも柳の名を持つ者が亜王の側近として側にいた。だが、祖父の時代以降、急に歴史から名がなくなった」


 興奮して明鳳は早口になる。


「それは何か関係があるのだろう?」

「えっと、その前に三つ目はなんでしょう?」


 明鳳はむっとした。


「先に二つ目に答えろ」

「……とても長くなりますよ。亜王様にとって許し難い事実かもしれません。信じられないと思うでしょう」

「それでもいい」


 明鳳が強く頷いたのを確認して玉鈴は袖から赤子の腕ほどある巻物を取り出した。酸化してボロボロの巻物はいつか明鳳に見せようと書庫から引っ張りだしてきたものだ。


「ここに全てが記されています。亜国の成り立ち、真実が、全てです」


 明鳳は玉鈴の手から巻物を受け取ると中身を開く。そこに綴られた文字に目を滑らせ、渋い顔をする。


「読めない。どこの文字だ?」

「……昔に使われていた文字ですが王族にはもう伝わっていないのですね」

「お前は読めるのか?」

「はい。教えて貰いました」

「読め」


 玉鈴の胸に巻物を押し付けた。

 巻物を受け取ると玉鈴は紐を解き、膝の上で開く。


「今はもう誰の記憶にも残らないほど遠い昔の話です」


 玉鈴は静かに語り出した。誰もが忘れてしまった物語を。血に縛られた盟約を。

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