第49話 恨みの炎
玉鈴達が野外へ出た時、空気を震わす男達の怒声と駆ける足音が聞こえた。見れば宦官達が並々と水が入った桶を手に忙しそうに走り回っている。
どこへ避難すればいいのか問おうと玉鈴が片手を挙げた時、
「——玉鈴様!」
聞き馴染んだ声が玉鈴の名を呼ぶ。宦官の波をぬって現れたのは翠嵐だった。側には秋雪が顔を蒼白にしながらも倒れまいと気丈に付き従っていた。
「お怪我はございませんか?」
玉鈴の元へ駆けつけると翠嵐は上下を隅々まで見渡した。そして玉鈴に手を引かれる琳の姿を視界に入れ、驚きに固まった。
翠嵐は今宵、蠱道をかけた犯人を捕まえるためと宮を離れたのになぜ琳が自分の宮から出てきたのか。しかも両手は縄によって拘束されている。どう見ても捕らえられた罪人にしか見えない。
否定しようにも現実は無情だ。聡い翠嵐はすぐさま事実を理解した。
「……なんで」
やっとの事で絞り出すが声は震えていた。翠嵐は続きを述べようとするがその前に琳は動く。
両手首を固く拘束されているので満足に動かす事はできないが自分を奮い立たせ、翠嵐の首を絞めようとする。しかし、爪紅に彩られた指先が首に触れる直前、玉鈴が背後から腕と肩を掴かみ動きを止めた。
「離して下さい!」
琳は地団駄を踏み、背後を見た。
「駄目です。これ以上、罪を重ねないで下さい」
玉鈴はどうにか落ち着かせようと宥めるが琳は錯乱しているのか興奮が収まる気配はない。翠嵐から距離を取りつつ、玉鈴は遠くでこちらの様子を伺いながら消火活動に勤しむ武官の群れに声をかけた。
「誰か来て下さい!」
武官が二名、駆けつけた。
「彼女を押さえてください。必要以上に痛めることは許しません」
玉鈴は琳を武官に預けると翠嵐の元へ走りよった。
「何故、出てきたのです?」
平常からは予想もつかない剣幕で問い詰める玉鈴を見て、翠嵐は身体を硬直させた。
「炎が、それで玉鈴様の事が心配で——」
助けに来たのだと翠嵐が口を開こうとした時、野太い男の悲鳴がそれをかっ消した。悲鳴に驚いて翠嵐と秋雪は手を取り合う。その二人を背中に隠し、玉鈴は背後を振り返った。
「離せ!」
「おい、離せと言っているだろ!!」
「いい加減にしろ!!」
武官らは交互に叫びながら地面を見下ろし、拳を振るい落とす。見れば琳が自分を拘束する武官の腕に噛み付いていた。最期の抵抗なのか凄まじい力で筋肉質な腕に歯を食い込ませ、狂気に満ちた眼差しで翠嵐を睨みつける。血が顎を伝い、地面に染みを作った。
艶やかだった黒髪を引っ張られ、頭を殴られても琳はその行動を止める事はない。武官が腰に佩いだ剣を抜こうと柄に手をかけた。
「おやめなさい!!」
それを見て、玉鈴は叫ぶ。腕に噛みつく琳と、剣を抜こうとする武官に向けての言葉だったが二人の武官はそれが拘束に対してだと受け取ったらしく、訝しみながらも両手を離した。
自由の身となった琳は素早く立ち上がり、距離を取り、てらてらと血で濡れる唇を持ち上げた。
「柳貴妃様。やはり、わたくし、我慢できませんわ」
琳はこてんと首を傾げた。
「その女が生きているのを見ていると、楽しそうにするのを見ていると
「その考えは捨てなさい。罪はまだ、償えます」
「償う必要などありません。わたくしはそれを望みません」
そう吐き捨てると琳は駆け出した。玉鈴は急いで後を追う。
「待ちなさい!」
群青の裾を掴もうとした時、玉鈴の顔付近に小石が飛んできた。咄嗟のことに玉鈴は足を止める。
「琳様、早く仇をとって下さいませ」
松明を片手に琳の侍女が鋭い眼差しで玉鈴を睨み付けた。
「ええ、
歌燕は主人の言葉に頷くと手に持つ松明を近くの茂みに近づけた。すると途端に茂みは勢いよく燃え始める。焦げ臭い匂いで気付かったが前もって油でも塗っていたのだろう。気付けば緑色だった場所が赤く燃え、黒煙を立ち昇らせていた。
「彼女も捕まえなさい! 才昭媛様の保護も!」
玉鈴は近くにいた武官に命じた。一人の武官が侍女を拘束する。侍女は抵抗する気もないらしく、大人しく従った。
片手を負傷した武官が無事だった左手に剣を携えながら翠嵐を庇う様に前に出た。
二人の身の安全を確信した玉鈴は琳の後を追った。
けれど、家族すらも視線を逸らす程、機敏とは言いがたい玉鈴の運動神経では琳に追いつくことは叶わなかった。玉鈴は息を切らしながらも離れず、一定の距離を保ち離れず食らいつく。
玉鈴は誰かに声をかけるつもりだったが琳は庭園の構造を熟知しており、人が最も少なくまだ火の周りが少ない場所を選び走った。
一番、炎が逆巻く場所が視界に入ると琳は足を止めた。
「きっと呪っても貴女が祓うのでしょうね」
琳は両目から涙を流す。昂る感情のせいか涙は止まる気配がない。土に汚れた頬を撫で、顎を伝うが瞬きすら苦痛になるほどの熱風により滴はすぐさま消え失せる。
「けれど、どうしても許せないのです」
琳はその美しい面に心からの笑みを浮かべると、
「最期の悪足掻きぐらい見守って下さいな」
「待ちな——」
玉鈴の静止を聞かずに燃え盛る炎の中、身を投げた。
琳は全身を炎に撫でられ、苦痛に身を捩った。口をはくつかせるが声は業火に掻き消され、玉鈴に届くことはない。黒髪はたちまち燃え尽き、群青の衣服は灰になり崩れ落ち、蛋白質と脂が焦げる独特の臭いが玉鈴の鼻を突く。
どくどくと脈打つ心臓の音に背を押されるように玉鈴は琳の手を取ろうと手を伸ばした。熱した鉄鍋に触れた時と同様の痛みが指先に伝わる。炎はじわじわと指を伝い、手を包み、玉鈴の袖に触れようとした。
「何をしているんだ!!」
明鳳の怒声が聞こえた。
「亜王様」
振り返ると数人の宦官や武官を引き連れた明鳳が駆け付けて、玉鈴を押し倒した。背中と後頭部を強打し、玉鈴は呻き声を挙げた。何をするんだ、と問おうとするが明鳳は「黙れ!」と怒鳴りつけ、上着を脱ぐと玉鈴の右手に付いた炎を消そうとした。
「おい、水を持ってこい!」
宦官が桶を運んできた。明鳳はそれを受け取ると躊躇無く玉鈴に向かって桶の中身をぶちまけた。
「お前は本当に阿呆だ! 才昭媛からあの女を追いかけたと聞いたぞ?!」
怒る明鳳を視界に入れながら、ゆっくりと玉鈴は身体を持ち上げた。水を吸った布が肌に張り付き、不快そうに片眉を持ち上げる。とても生臭い。よく見れば池にある藻のような緑色の物体が付着している。
「周琳はもう助からない」
明鳳は冷めた目で炎の中、蹲る琳を見つめる。
「助けるだけ無駄だ。お前まで死んでしまうぞ」
「助けられたはずなんです」
「はず、だろう? 結果はこれだ」
玉鈴は歯を噛みしめ、琳を見た。力尽きたのか同じ体制のまま動かない。そして、次にその手前にいる女人——玉葉を見る。
「約束をしていました。けれど救えませんでした」
明鳳は「約束だと?」と首を傾げるが玉鈴が琳とはまた別の人物へ話かけているのを察し、背後に控える武官達を見た。
「お前達も早く消火に行け」
玉鈴を背に隠し、片手でしっしと払う。それに異論を唱えたのは一番逞しい体躯を持つ武官だった。
「お言葉ですが賊もまだ捕まえておりません。賊の目的が何か理解していない今、貴方様をお一人にすることはできません」
「心配はいらない。柳貴妃の部下である宦官がもうすぐ着く」
「しかし」
「俺の命令が聞けぬというのか?」
尖った声に武官は顔を蒼白にさせた。「い、いいえ。申し訳ございません」と消えそうな声で謝罪し、地に額を擦りつける。
明鳳が「行け」と再度命じると蜘蛛の子を散らす勢いで武官達は去っていった。
「そこにいるのか?」
「はい」
「お前は止めると約束したのか」
約束というよりも頼まれたというのが正解だが玉鈴は「……ええ」と頷いた。
「けれど、守れませんでした。誰、一人……」
そう言い残すと玉鈴は意識を飛ばした。
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