第48話 本当の狙い
臥房を静寂が支配する。残された四人はしばしの間、微かに残り宙を浮遊する粒子を見つめていた。
重々しい静寂を最初に切り裂いたのは琳だった。
「まさか、母様に会えるなんて思いもしませんでした」
琳は感極まる様子で胸の前で指を組んだ。
「母様はわたくしを止めたかったのね。ずっと側で見守ってくれていたのね」
目尻を下げた琳は小さく呟くと両手を持ち上げて尭へと近付いた。何事かと警戒を露わにする尭ににっこり微笑み、
「降参です」
と両手を尭に差し出す。
急な展開に尭は玉鈴に目配せをするが玉鈴は無言で頷いた。拘束しろという意味だと察した尭はすぐさま所持していた縄を細い手首に巻き付けた。
琳には抵抗する気はもうないらしい。宦官だと毛嫌いしていた男に触れられてもその笑みは崩すことはなく、落ち着いた様子で立ち尽くしている。
「怨恨は晴れたか」
拘束が終わった後、明鳳が問いかけた。その内容に琳はくすくすと笑声をあげる。
「あら、貴方様がおっしゃっていたではないですか。相応の罰を与えてくれるのでしょう? それなのにこれ以上、わたくしが手を汚せば母様をもっと悲しませるわ」
「分かった。きっとお前の望む処罰を与えよう」
明鳳の言葉に満足そうに肯くと琳は玉鈴へと視線を投げた。
「どうされました?」と問えば玉鈴は表情を歪めたまま口を開く。
「一つ、お伺いしたい事があります」
「内容にもよりますが」
「才昭媛様は、貴女の——」
その先の言葉は続かない。琳が遮ったためだ。
「言わないでください」
琳は吐き捨てた。背筋を伸ばし、強い意志が宿る瞳で玉鈴を射る。
「その言葉は聞きたくありません。認めたくもない。忌々しい」
「……失礼しました」
「いいえ」
琳は先ほどの取り乱しが嘘のように落ち着き払った表情で前を向く。今から投獄され、尋問を受けるというのに微笑を止めず、拘束を甘んじて受け入れた。
その笑みにある種の気味の悪さを覚える三人だが口には出さず、明鳳を先頭に獄舎へと向かった。
***
回廊を歩いている時、三人は違和感の正体に気付いた。
最初に気づいたのは野生児並の感覚を持つ明鳳だった。並外れた嗅覚が平常では嗅ぐ事もない異臭を察する。次に耳を澄ませば聞こえるのは爆ぜる炎の音。早足で一番近くの格子窓に近づくと乱暴に戸を開けた。外から入り顔を舐めたのは空気を歪ませるほどの熱。夏の夜といえど、ここまでの熱気はありえない。明鳳はすぐさま臭いと音がする方向へ視線を向けた。そして明らかな異変に舌を打つ。
「おい、何をしたんだ?!」
尭によって拘束される琳に近付くと胸ぐらを掴んで睨み付けた。その行為を咎めようとした玉鈴だが明鳳の言いたい事に気づき、窓から身を乗り出した。
「なんてことを……」
目の前に広がる光景が信じられず、
「後宮に火をつけるなんて」
庭園を舐める大火は静かに、けれど確実に黒煙を上げながら勢いを増している。夜半だというのに周囲は昼間のように明るい。
琳は明鳳に胸ぐらを掴まれてもなお笑みを崩したりしなかった。
「許すわけないでしょう。あの姿を見て、気持ちは前よりも硬くなったわ」
淡々と、感情を感じさせない声で言う。
明鳳が「共犯者の名を言え!」と命じるが琳はくすくすと笑うばかり。口を開く気はないと理解し、明鳳は琳の背にいる尭を見上げた。
「宦官! こいつは俺が押さえるから他の奴らに逃げるように言いに行け!」
「尭、行きなさい。妃達の避難が完了したら、他の官と合流し鎮火に勤めなさい」
双方に命じられ、尭は頷き、琳を明鳳に預けると駆け出した。
「おい、柳貴妃! どうにかできないのか?!」
「僕の力では不可能です」
玉鈴には人為的に起こされた大火を鎮める力は無い。その事実を伝えると明鳳は怒りに身を任せて頭を掻き毟った。
「糞が!! そこまでして才家が憎いのか!!」
口汚く罵り、最優先事項を頭の中でまとめる。もっとも優先すべき事は玉鈴が先ほど述べた通り妃嬪の避難だ。次に消火。そして火を放ったであろう琳の僕を捜して捕らえること。
しかし、それには人数が必要だ。明鳳が把握している後宮勤めは掃除夫を含めても千人余り。避難対象である妃嬪や宮女等は合わせて三百人近くいる。避難に人手を割けば火災による被害は酷くなるとは容易に予想がついた。けれど消火を優先すれば妃嬪達を守ることができなくなる。それに琳の僕は混乱に乗じて身を隠す恐れがあった。
出来る限り被害を最小限に抑えるために最も効率が良い方法は——。
頭を抱える明鳳に玉鈴は努めて優しく声をかけた。
「亜王様、先に避難をなさって下さい」
「女より先に逃げろだと? ふざけるのも大概にしろ」
「貴方は亜王です。御身を第一になさって下さい」
玉鈴は語気を強めた。王族の血を継ぐ者は他にもいるが先王の実子は明鳳ただ一人。亜国の未来のためにもどうにかして彼を逃がさなければならない。
数秒の睨み合いの末、先に折れたのは明鳳だった。
「分かった。俺は朝廷に向かい指揮を取ろう」
「はい、そうしてください」
「周美人には聞きたい事がたくさんある。死なすなよ」
明鳳は尭が去った後を辿り、走り出す。「お前も死ぬな」とぶっきらぼうにだが付け加えてきたのが面白く、玉鈴は口角を持ち上げた。
「御意のままに」
「……楽しそうですね」
供手の礼をする玉鈴を見て、琳は小声で囁いた。
「子の成長を見守るっていうのは楽しいものですよ」
「柳貴妃様にとって亜王様は男児と同位なのですね」
「彼が赤子の時から知っていますからね」
さて、と前置きをして玉鈴は窓の外へと視線を向けた。轟々と燃え盛る炎の海は先ほどよりもゆっくりと、しかし確実にこちらへと手を伸ばしている。
「貴女は予想に反した事をしてくれますね」
玉鈴が毒付くと琳は蠱惑的に微笑んで見せた。
「わたくし、もう長くはありませんの」
「知っています。蠱道を選んだ代償は小さくありません」
冷たく跳ね除けられても琳は笑みを絶やさず、玉鈴の腕に手を絡ませて、耳元に唇を近付けた。
「柳貴妃様、ありがとうございます。全て、言わないでくれて」
「いいえ。しかし、今後、その事実が公にならないとは言い切れません」
「ええ、重々承知しておりますわ」
琳はそれっきり口を固く閉ざした。玉鈴が何度問いかけても頷くだけ。まるで人形のようだが玉鈴が背を押せば、静かに従った。
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