第44話 才林矜
入室したのは翠嵐の父、才林矜だった。憔悴しきった顔は青白く、恰幅の良かった体型は今は野良犬のように痩せさらばえている。
「りゅ、柳貴妃様にお取り次ぎを!」
明鳳には目もくれず、林矜は義遜に縋り付いた。
「柳貴妃だと?」
まるで誰かに追われているかのような剣幕に驚いて明鳳が尋ね返す。
「でないと私は殺されてしまう!!」
明鳳の存在に気付かないのか林矜は義遜の襟を掴んだまま叫んだ。
「義遜殿っ。貴殿は柳貴妃様と旧知の仲と聞く、ぜひ、かの方にお取り次ぎを!!」
「林矜、お前は何を言っているんだ」
あまりの取り乱し様だ。明鳳は林矜が正気を失っていると察し、椅子から立ち上がり、林矜に駆け寄った。
林矜の肩を掴み、義遜から引き離そうとするが骨ばった体からは予想もできない力で拒否される。
「あれはずっと私を殺そうとしている!!」
「おい、落ち着け!」
「柳貴妃様に、柳貴妃様に早く合わせてくれ!!」
白髪混じりの髪を振り乱し、脂汗を浮かべ、林矜は叫び続ける。
「離していただけますか?」
冷たい声で義遜は命じた。
温厚な丞相の冷たい対応に幾分か冷静を取り戻したのか、林矜は襟から手を離すと三歩、後ろに下がる。自分を落ち着かせるために深く息を吸い込み、吐き出した。
「林矜殿とあろうお方が驚きの取り乱し様ですね」
義遜の侮蔑が籠る言い方に反論する元気はないのか義遜は項垂れ、小声で「柳貴妃様に謁見を」と言った。
「柳貴妃になんの用だ?」
「それは、その……」
冷静を取り戻した林矜は、この場に明鳳がいると知って言い淀む。義遜だけを追っていたので気づかなかった。柳貴妃との密通を疑われる行為はできる限り避けたい。
「相談したいことがありまして」
「それはお前にかけられた呪詛で、か?」
林矜はぱっと顔を持ち上げた。かつて美男として持て囃された面には喜色が浮かぶ。
「柳貴妃様はご存知なのですか?!」
「ああ」
「あのお方はやはり龍の子なのですね! 私の呪詛を解こうとしてくれるなんて!!」
「いや、それは——」
違う、と明鳳が言おうとしたら今まで静観していた玉鈴に肩を掴まれ、阻止される。
「謁見の場を設ける前に何があったのか教えていただけますか?」
玉鈴の登場に林矜は一瞬、動きを止めるが身に纏う緑色の官服を見て両目を鋭くさせた。
「お前に言ってはいない! 腐れ者風情が!!」
腐れ者——宦官への侮辱の言葉である。陽物を切り落とされた宦官を不浄だと嫌う者も多い。
才家は矜恃の高さから宦官を嫌悪する者が多いため玉鈴はさして気にはしなかったが、明鳳はそれを許さなかった。怒鳴り返そうと一歩前に進むが玉鈴に止められる。
「なぜ、止める?!」
「いいからあっちで待っていて下さい」
と義遜の方へ背を押された。
口では勝てないのは痛いほど知っているため、明鳳が黙って従うと林矜が驚いて口を大きく開けた。唯我独尊で他人をこき使っていた明鳳が下級宦官の命令に文句一つ言わず従うなど、幼い頃を知っている分、信じることが出来なかった。
「僕は柳貴妃様に仕える官です。そのような乱暴な口を開く者を主人に合わせるわけにはいきません」
間抜けな表情を浮かべる林矜の前へ行くと毅然とした態度で玉鈴は言った。
柳貴妃に仕える、と言われた林矜は「えっ」と情けのない声をあげる。
「柳貴妃様の?」
「はい。主人から話を聞くようにと命じられ、ここに馳せ参じたのですが」
言葉を区切ると玉鈴は林矜の全身を組まなく見渡し、
「元気そうだったと伝えておきますね」
爽やかに言った。
「待ってくれ! 金ならいくらでもやるぞ!」
「金品で買収される程度の忠誠心は持ち合わせておりません」
「取り次いでくれるのならばお前に娘をやろう!」
「腐れ者風情に勿体無いです」
林矜は次々に提案を出すが、玉鈴はそれを一蹴する。
そんな二人の会話を明鳳ははらはらとした気持ちで見守った。立場は玉鈴の方が上だが短気な林矜がいつ手を出すのか、と不安で気を揉む。すぐ止めれる位置から行く末を見守っていると隣に控える義遜が、
「数日前から私の後をつけていたので彼をお呼びしたのです」
と小さく耳打ちした。
明鳳はなるほどな、と納得する。
「ならば
朝廷では柳貴妃が侍女と宦官に全幅の信頼を寄せているという話は有名だ。そんな彼らに暴力を振るい、暴言を吐いたと知られれば柳貴妃は力を貸さないとも言われている。
林矜が玉鈴の機嫌を戻そうと必死に言葉を重ねるが頑なに首を縦に振らないのを見て、林矜は両手で顔を覆うと床に崩れ落ちた。指の間から嗚咽混じりの、言葉とならない声が漏れる。
そんな林矜を見下ろしながら玉鈴は静かに息を吐き出した。
「貴方が困っているのは知っています。けれど、それは他人に願う態度ではありません」
林矜は答えない。
「こうなったのは全て貴方様の行動が原因だと理解しているのでしょう?」
くぐもった声で林矜は「違う」と否定の言葉を繰り返す。
「違いません」
玉鈴は無意識に責める口調になる。
「貴方が他人の幸せを潰し、捻じ曲げた結果が御身にかけられたものです」
はっきりと述べられた言葉に、繰り返された否定の言葉は謝罪へと変わる。林矜はその場で蹲った。
その背に手を置いて、玉鈴は口元に優麗な笑みを浮かべた。
「己の行いを反省する者を主人は決して無下にはしません。さあ、話を聞かせて下さい」
打って変わり、優しい声音で問いかけると林矜は震える声で己が犯した罪を告白し始めた。
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