第45話 覚悟の夜に
格子窓から花の香りを運ぶ微風が入り込み、琳の髪を優しく揺らした。風により解けた髪を耳にかけ直し、琳は静かに臥所に歩み寄る。足音一つ、絹擦れすら立てないようにゆっくりと慎重に。手足を繊細に動かしながらも仙女と謳われた美貌は憎悪で歪んでいた。
——ああ、忌々しい。
真っ赤な唇から声にならない呪詛が漏れる。
琳は才家が嫌いだ。特に末娘の翠嵐は殺したいほど憎かった。
本当ならば蠱道で長い期間、苦しめて殺すつもりだったが柳貴妃が出てきたせいで失敗に終わってしまった。彼から教えて貰った最後の悪足掻きすら、柳貴妃のせいで無駄になった。彼は
銀釵の作り方は間違えていないはず。教えて貰った方法で誠実に作り上げたのだから。
だから琳は呪具が効かないのは柳貴妃のせいだと考えた。柳貴妃の力について詳しくは知らないが大災害を鎮め、万物に通ずる力を持つと言われる彼女相手に呪術を使うのは得策ではない。
だからこうして深夜、侍女の目をかい潜って翠嵐の宮を訪れたのだ。
——けれど、それも今日で終わりよ。
ゆっくりと口角が持ち上がる。琳は嬉しくて仕方がなかった。本来の筋書きとは程遠いがやっと目的を達成できる。
臥所の側にいくと両手で短剣を握り締め、振りかぶる。狙うのは首だ。深く斬らずに首の上半分を斬れば筋肉や骨も硬くはないので女の腕力でも事足りる。喉を掻っ切れば翠嵐は叫ぶ事も助けを呼ぶ事もできない。動けば動くほどに出血が多くなり、苦しんで死ぬことだろう。
憎い相手が苦しんでいる姿を想像すると赤い唇が喜びに震える。
琳は敷布を掴んだ。そのまま敷布を引っ張り、短剣を振り下ろそうとした時、ある違和感に気付く。
敷布の中央は丸く盛り上がり、人型を取っているが微動だにしない。何故だと思いゆっくりと敷布を引っ張れば覗いたのは丸められた布の塊が顔を覗かせた。
——バレたの?
琳は呆然と褥を見下ろした。ここは翠嵐の臥所で間違いないはずだ。
それなのに何故、臥室の主である翠嵐は寝ていない? 今夜の奇襲は誰にも話しをしていないはずなのに、どこから漏れた?
ぐるぐると色々な考えが浮かんできた時、
「もう、やめにしましょう」
凛とした声が、暗く閉ざされた臥室内に響き、満ちて行く。
「周美人様。そのようなことをしてその身に蓄積された恨みは晴れますか?」
はっとし、振り返れば柳貴妃が哀れみが浮かぶ眼差しで琳を見つめていた。
「……柳貴妃様、どうしてこちらに?」
背筋がぞっとする妖しさを秘めた金眼が自分を見ている。この世のものではない眼に見つめられ、琳は急いで視線を下げた。
「貴女を止めにきました。今宵ここを訪れると知っていました」
「その
玉鈴は小さく頷いた。
「御母堂様が教えてくれたのです」
「母様が?」
その言葉の意味が分からず琳は片眉を持ち上げた。
「ならばなぜ、わたくしがこの様な行動をとったのかご存知なのですね」
一寸の希望を持って問いかける。違うと否定して欲しいが玉鈴は「はい」と肯定した。
「彼女は心配しています」
玉鈴の言葉に雷に撃たれたような衝撃が走る。
「嘘と思いますか?」
「……いいえ。わたくし、今宵ここを訪れる事を誰にも話していませんもの。信じますわ。柳貴妃様のお言葉を」
琳が悠然と微笑むと玉鈴は眉を下げ、悲しみにその美貌を染めた。
「今ならまだ罪は軽くなります」
「そういう事に興味はありませんわ。どうせ死罪は免れないでしょう」
まだ誰も死者を出してはいないが亜国きっての名門、才家を呪ったとなれば死罪は避けれない。例え、才家がどれほど周囲から恨まれていようが断罪されるのは琳の方だ。
「まだ公表していませんが才卿が捕らえられました」
琳は下唇を噛みながら逃げ道はないかと視線を彷徨わせていたが玉鈴の言葉に疑いの眼差しを向けた。
「あの男が」
捕らえられた、とはどういう意味だろうか。
「その言葉通りと受け取ればいいのでしょうか?」
「才卿は亜王様の御前で罪を告白しました。楊卿に罪を重ね、その奥方を
「そうですか。あいつが……」
琳は放心したように呟くと短剣から手を離した。自由になった短剣は柄から床に落ち、カランと音が立てる。
面を伏せ、床を睨みつけながら琳は内心毒づく。
——全て知られているのね。ああ、本当になんて忌々しいのかしら。
異様なほどに整ったその顔をズタズタに引き裂きたくなるのを我慢する。賢人とも言われた柳貴妃が一人で翠嵐の宮を訪れているとは考えられない。きっと物陰にでも昼間の宦官が潜んでいるのだろう。
才林矜が捕らえられたとしても琳の目的は翠嵐を痛ぶり殺す事だ。どう諭されようが目的は変わらない。
琳は考えた。ここで逃げて翠嵐を探すのと柳貴妃を殺害してから翠嵐を探すのはどちらが得策だろうか。
——いえ、一層のこと。
こいつも殺してしまおう。琳はもう後戻りができないところに来ている。それに、両親の事を亜王は知っていると言っていた。琳の心情を知っていても、琳は才家を呪殺しようとしたのは事実。遅かれ早かれ獄に繋がれて、処罰を受ける未来は変えられない。
玉鈴にバレないように帯に隠していた金釵を取り出し、袖で隠した。
「ねえ、柳貴妃様」
「はい」
「母様は喜んでいますか?」
玉鈴は琳の左後ろを見た。
「いえ、悲しんでいます」
「そうですか。悲しませるつもりはなかったのに」
静かに歩みよりながら、金釵を強く握り締める。
あと数歩というところで小さな足音が聞こえ、琳は身体を硬らせるが玉鈴の「亜王様」という呼びかけに肩の力を抜いた。
視線をあげれば入り口近くの壁に背中を預けてこちらを見ている少年王の姿。
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