第32話 鴉の番
どこか楽しそうな雰囲気を纏う翠嵐を宮まで送り届けた玉鈴は
ゆっくりと歩みを進めると、すれ違う宦官や宮女が上質な衣を纏う玉鈴を見て急いで平伏すのが視界の端に入る。面をあげるように言おうと思ったが、逆に萎縮させてしまうと考え口を閉ざし、気を紛らわすように空を見上げた。
陽はもう傾きつつあり、
仲睦まじい様子は
——あの子は元気にしているでしょうか。
思い出したのは幼い頃に可愛がっていた一羽の鴉。胸に指二本程の白い模様がある鴉は雛の時、巣から落ちていたのを玉鈴が助けたのがきっかけで懐いてきた。
とても賢い子で、玉鈴が人前で擦寄られるのが苦手だと察すると姿を見せず、その代わり玉鈴が一人になると甘え不足を解消するようにべったりと離れない。
玉鈴が後宮に上がるまで、友と呼べたのはその子だけだった。
出会ってから二十年近くは経っている。鴉の寿命は長いというが、きっとあの子はもういない。幽鬼になっていないという事は未練もないのだろう。
そう思うと心臓がきしりと音を立てた。その痛みから顔を反らすように鴉の後を辿る。よそ見しながらの歩行は危険だと理解しながら、その姿にあの子を重ねていると背後で、ガサリ、葉と葉がぶつかり合う音が聞こえたと思ったら、
「——あのっ!」
勢いよく袖を引っ張られ、玉鈴は転倒しそうになった。
体制が崩れる直前で足を踏み留まる。
急な事に心臓が先程とは違う意味で悲鳴をあげた。ばくばくと鳴る心音を聞きながら驚きにすぐさま後ろを振り返れば先ほどの宮女が顔を真っ青にさせて袖を掴んでいた。
呆然と立ち尽くし、袖を握る己の右手に視線を落とし、転びそうな体制のまま固まる玉鈴を見比べる。
少しして状況が理解できたようで、
「————っ!!」
声にならない悲鳴をあげ、許しを乞おうと膝を折り、地面に額を擦り付けようと体を屈ませた。
玉鈴の袖を右手で握りながら。
「——あっ」
玉鈴は短い嘆声をあげた。吸い込まれるように、勢いよく傾く身体に驚いて、両目を強く閉じる。
どうにか体制を整えようとしても武に疎い身体は思うようには動かない。地面に平坦にひかれた灰色の小石に顔面が打つかる直前、無意識に突き出した両手が衝突を防いだ。
きりっとした痛みが手のひらに広がる。
が、顔面の直撃は避けることができた。
「どうかされましたか?!」
安堵に胸をなでおろしていると警備に徹していた名も知らない宦官が顔を蒼白にさせて駆け寄ってきた。
丸い頬が特徴的な年若い宦官は玉鈴に手を貸すべきか、先に宮女を捕らえるかを迷っているらしく顔を交互に見合わせて狼狽える。
「申し訳ございません。驚いてしまっただけですので問題ありません」
膝に手を起き、身体を起こすと玉鈴は宦官に備に戻るように促した。納得がいかない様子だが己より身分が高い妃に命じられた宦官は不服そうに踵を返して持ち場に戻る。
それを確認してから玉鈴は全身をさっと見渡した。
膝や袖が汚れたのと小石によって布がよれてしまったが特に問題はないだろう。手の平の怪我もそこまで酷くはない。擦ったようで若干の腫れはあるが、この程度ならすぐに完治して跡も残らない。
「あの、貴女は怪我とかありませんか?」
玉鈴は無言で立ち尽くす宮女を見た。
他の宮女同様に整った美貌は酷く青白い。声をかけても反応はない。ただ無言で、今にも死にそうな形相で立ち尽くしている。
その手には玉鈴の袖がまだ握られていた。離して貰おうと軽く引っ張ってみたが宮女は放心しているようで硬く握られた指は解けない。
——あまり、許されることではありませんが……。
青白い頬を優しく二度叩く。
「大丈夫ですか?」
膝を折り、目線を合わせて声をかけるが宮女の反応はいまいちだ。
もう二度、頬を叩くと瞳が揺らめいた。
「怪我はありませんか?」
宮女ははっと顔を持ち上げた。ぱちぱちと両目を瞬かせ、何事かと周りを見渡す。下の見た時、自分が玉鈴の袖を握っていることに気付き、指を解いた。皺がついた袖は重力に逆らって元の位置に戻る。玉鈴の膝や袖が汚れていることに気付いた宮女は謝罪しようと頭を下げようとした。
「謝罪はいいです。私に用事があって声をかけてきたのでしょう?」
「えっと」
「ゆっくりで構わないです。急いでいませんから」
「はい」
宮女は泣きそうに顔をくしゃりと歪ませ、「……知っています」と小さな声で呟いた。
とても小さい声だったので前半はなんと言ったのか聞こえなかったが玉鈴は唇の端を持ち上げた。
「教えて下さい」
宮女は目線を左右に動かし、悩む仕草を見せるが小さく頷いた。
「……はい」
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