第19話 反魂の術


「丁度、一回り離れていますね」


 そう考えれば翠嵐が可愛らしい少女のように思えて、玉鈴は微笑ましそうに笑った。


「柳貴妃様は母様のようですね」

「僕が?」

「優しくって、暖かくって、守ってくれます」


 翠嵐は嬉しそうに頷いた。


「ずっと私を守ってくれた、大切な人に似ています」


 玉鈴の温和な人柄に触れ、翠嵐は破顔はがんする。そこには先ほどまで、おどおどした少女の面影はない。


「母親、と言われたのは初めてです」


 玉鈴は恥ずかしそうにはにかんだ。

 途端、翠嵐は固まった。泣きそうに顔が歪む。


「本当に、似ています。また、会いたいです」


 慣れない後宮で、知らずに呪詛をかけられて限界だったのか翠嵐はぽろぽろと涙を零し始めた。

 いち早く反応したのは今まで無言で背後に控えていた秋雪だった。


「こちらを」


 焦ったように瞠目どうもくし、懐から桃色の手巾しゅきんを取り出すと翠嵐に渡す。翠嵐はそれを受け取るとそれで顔を覆った。

 小さなしゃくりあげる声を聴きながら玉鈴は席を立った。裙をひるがえしながらゆっくりと翠嵐に近ずくと、彼女の隣に跪いた。しゃらん、とかんざしが澄んだ音をたてる。しゃがんだ拍子に前髪が顔に落ちてくる。それを耳にかけ直し、翠嵐の手に己の手を重ねた。


「才昭媛様の御母堂ごぼどう様はずっと側にいますよ」


 翠嵐は驚いたように顔を上げた。目尻から今にも溢れそうな涙を指で掬い上げ、玉鈴は嫣然えんぜんと笑みを深めた。


「特別ですよ」


 人差し指を唇に当てると秋雪に視線を投げる。


「秋雪様」

「は、はい!」


 いきなり声をかけられ、秋雪は薄い肩を跳ねさせた。


「刃物を用意して貰えますか? なければ燭台でもかまいません」

「分かりました! すぐに持って来ます!」


 激しく首を上下させると秋雪はぱたぱたと小走りで房室を出て行った。

 大きな瞳を瞬かせて、翠嵐は震える声を絞り出す。


「あの、何を……?」

「僕の力は『視る』だけではないんですよ」


 玉鈴は右目を指差すと曰くありげに目配せした。






 ***






 青銅でできた燭台が、窓から差し込む陽光に鈍く光を反射させた。表面には細かい意匠いしょうが刻まれている。それを持ち上げて、玉鈴はその意匠を指先で撫でた。

 見事な細工さいくである。この房室に置いてある調度品と同じくらい価値がありそうだ。これも才家から持ってきたものなのだろう、と思いながら玉鈴は秋雪を見た。


「ありがとうございます。これで十分です」


 秋雪は安心したように肩の力を抜いた。

 次に玉鈴は秋雪に外から中を見られないように格子窓に窓掛けを張るように命じた。

 全ての準備が整ったのを確認してから玉鈴は左手に持つ燭台を胸元に掲げ、右の人差指で燭台の針を押し潰す。先が鋭くない針先は簡単に指先の皮膚に食い込まない。先ほどよりも力を込めて押すとやっと針先は指先に穴をあけた。鈍い痛みが指先を走り、真っ赤な血が針先を染める。


「い、今すぐ手当をします!」


 慌てて翠嵐が走り寄ってきた。それを片手で止め、玉鈴は唇を持ち上げる。


「大丈夫ですよ。痛くはないし、すぐに治ります」


 玉鈴は燭台を呆然としてる秋雪に手渡すと血に濡れる指先を前に差し出した。白い指先から血の雫が落ちて、床に触れ、飛散する。血は炎と化して、床一面に炎の海原が広がった。

 翠嵐と秋雪が小さく悲鳴をあげた。けれど、すぐさま落ち着いたようだ。舐めるように広がり、煌々こうこうと輝く炎はほのかな温かさはあるが、それが肌に触れても暑くはならない。


「これは?」

「鬼道の一種です」


 短く答えると玉鈴は前方を指さした。

 床を舐め尽くす炎が一箇所に集合する。それはやがて人の形を取り始めた。

 輪郭がはっきりと見えるようになると翠嵐がはっと息を飲み込んだ。三毛猫を胸に抱く、緑の襦裙に身を包んだ女が現れたからだ。


「母様」


 悲愴ひそうな声が玉鈴の耳に届く。


「母様!」


 翠嵐は震える指先を女に向けた。母様、と呼ばれた女は困ったように微笑もうとした。けれど、殴られたように腫れた顔では笑うことができないらしく、ひくひくと唇の端が動くのみ。

 折られたのか二倍に腫れた左腕はだらりと垂れ下がり、右腕には老猫が丸まっている。

 老猫は翠嵐を見ると小さく鳴いた。軽く音を立て床に降りると一目散に翠嵐の足元に近づいて、甘えるように首をすり寄せる。

 猫の鳴き声に悩まされ、猫に対して良い印象がない翠嵐は後ずさりした。腕で身体を抱きしめ、顔を真っ青にさせると猫から距離を取ろうとする。

 拒絶されたと知った猫は悲しげに一鳴きすると女のかいなへと戻っていった。


「その子は貴女を守ろうとしているのです。無下むげにしてはいけません」


 玉鈴は優しくさとす。


「今見えるお二人は、ずっと才昭媛様を守っていてくれているのです」


「私を?」

「ええ。ずっとです」


 何か言いたげに俯いた翠嵐の元に、今まで黙っていた女がゆっくりと近づいてきた。腕にいた猫は女の考えを理解したのか、するりと肩の上へ移動している。空になった右手を娘の頬へ伸ばそうとした。

 しかし、触れることはできない。爪が剥がされ、肉が露出する指先は翠嵐の桃色に染まる頬を通過する。女は悲しげに両目を細めた。

 触れれないと知ると口をぱくぱくと開く。けれど、それも声にはならなかった。

 女の首元には横一文字に赤い切れ目が入っていた。刃で切られたのだろう。これでは声を出せるわけない。

 母がなんと言っているのか理解しようと翠嵐は紫色に腫れた唇を凝視する。だが、どれほど凝視してもその意図は読めない。困ったように顔を歪めると背後から玉鈴が静かに声をかけてきた。


「『ごめんなさい』と言っているようです」


 女は「そうだ」と頷くと再度口をはくつかせた。

 だが、言葉の途中で女と猫の身体は薄氷うすらいが壊れるように崩壊し始め、霞が晴れるように胡散した。残ったのはきらきらと輝く光の粒子のみ。それもはらはらと舞い振り、床に触れると雪が溶けたように無くなった。

 身体を硬ばらせる翠嵐に駆け寄り、玉鈴はそっと声をかけた。


「すみません。反魂はんごんはあまり得意ではなくて」


 もう少し持つと思ったが、やはり自分には反魂の術は不得意だったらしい。玉鈴は項垂れた。


「もし、気になるのでしたらもう一度――」


 その先の言葉は翠嵐の「柳貴妃様」という声で掻き消された。


「母様は最後、なんと言っていたのでしょう?」


 玉鈴は言い淀む。この先を言っていいのか、それとも言わない方がいいのか。玉鈴は先ほど女がいた場所へ視線を向けた。

 翠嵐と秋雪には今は見えないが、女はまだこの房室内にいた。玉鈴の視線の意味を理解すると緩やかな動作で頷いた。


「……『あの子を許して』と言っていました」

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