第20話 薄明


 鈴虫の歌声が草陰から聞こえる薄明はくめい。辺りは薄闇に染まりつつある。

 与えられた宮を背後に、翠嵐は落ち込んだ面持ちで秋雪を従えていた。


「このような時間までお邪魔してすみません」


 申し訳なさそうに呟かれた言葉に玉鈴はゆるく首を左右に振った。


「いえ、とても楽しいお時間でした」

「私もです。このような楽しい時間を過ごしたのは久しぶりです」


 このような時間まで話に夢中になるなんて、と翠嵐は自分自身に驚いた。翠嵐は他者が苦手だ。話すときに目を見ることすら恐ろしく感じる。それなのに玉鈴と話す際は目を見て、ゆっくりと思ったことを話すことができた。会話の途中、翠嵐が言葉を詰まっても彼は決して急かさず待っていてくれた。

 尭が玉鈴を迎えに来なければ自身の宮に泊まってくれと言っていたことだろう。亜王の妃である自分が、同じ妃といえ男を泊めることは姦通罪にあたると知っても――。


「また、いらしてくださいませ」

「その時は手土産を持ってきます」


 尭を従えた玉鈴は帰り際にまるで母親が子にするように翠嵐の頭を優しく撫でた。踵を返し、帰路へとつこうとする彼の背に翠嵐は慌てて声をかける。


「あの、思い出したことがあります」


 玉鈴は足を止め、こてんと小首を傾げた。


「私、あの」

「ゆっくりで構いませんよ」

「母様が、抱いていた猫は。あの子は私の親友だったのです」


 翠嵐はぽつぽつと喋り始める。


「私、小さな頃、三毛の猫を隠れて飼っていたのです。母様が亡くなって、悲しかった時にその子は私の元に訪れたのです」


 傷を負った三毛猫は、何かに逃げるように翠嵐の房室に紛れ込んできた。母を亡くしたばかりで気落ちしていた翠嵐はその猫を手当てし、匿う事にした。猫は人に害されたためか最初は翠嵐に心を開かなかったらしい。けれど、渾身的になって接していると少しずつだが懐いてくれた。膝の上で寝るようになる頃には翠嵐にとって唯一の心の拠り所になった。

 けれど、その猫は林矜に殺された。猫嫌いの父に見つからないようにと使用人にお願いしたのに、使用人は林矜に報告し、その結果、猫は棒で叩き殺された。


「あの子はずっと側にいたのですね」


 ほろほろと大きな瞳から真珠の涙が頬を伝う。母を失い、親友を喪った。その喪失感は耐え難いものがあるが翠嵐は口を閉ざした。使用人が父に報告したのでさえ、――発覚時の自分への叱責を免れるためでもあるが――翠嵐の肌に傷をつけることを心配してだというのを理解していたから。翠嵐は耐え忍ぶことを選んだ。


「忘れていたの。友達だったのに」


 ぽっかりと空いた胸の穴を抑えるように翠嵐は両手で胸を抑えた。抑えきれない嗚咽おえつが口から漏れる。


「今日はもうお眠りください。御母堂様と三毛猫さんはずっと貴女を見守ってくれてます」


 玉鈴は翠嵐を落ち着かせるように声をかけた。






***






 水色の背中が見えなくなると翠嵐は秋雪を伴って元来た道を戻ろうとした。

 回路を歩く際、柱の影から様子を伺っていた他の侍女逹が両目を赤く腫らした翠嵐を見て憤ったように声を荒げると近寄ってくる。


「柳貴妃が泣かしたのですか?」


 年嵩の侍女が両目を釣り上げた。


「亜王様の寵姫といえど眼に余る行動ですわ」


 同い年の侍女が袖で口元を隠し、侮辱的な眼差しで蒼鳴宮の方向を睨みつけた。


「遠目から見ていましたけれど、胸もなければ背だけが高い人でしたわ。確かに見目は麗しいけれど、どこにでもいますわ」


 続けられた言葉に、側にいた気が強そうな侍女がふんと鼻を鳴らす。


「あの金眼でしょう。亜王様も珍しいから通っているだけだと思います。きっとすぐに才昭媛様が寵妃となりますわ」


 目の前で繰り返される会話に翠嵐は両耳を抑えたくなった。父に命じられ後宮入りする際に付けられた四人の侍女は秋雪を除き野心家であり、名誉欲がとても高い。翠嵐に仕えているのも翠嵐に対する忠誠心ではない。才家の娘付きならば高官に見初められる可能性があり、年棒も高く貰えるからだということを翠嵐は知っていた。


「ごめんなさい。疲れたの。今日はもう休ませて」


 早くこの場を離れたくて作り笑いをする。三人の侍女はあからさまに苛立った様子を見せるが異論はせず、居丈高いだけだかな態度で膝を折った。


「申し訳ございません。ごゆるりと」


 代表して年嵩の侍女が言葉を述べた。

 翠嵐は頷くと回路を進む。背中に感じる刺すような視線に、気圧されながら足を進めた。

 無言に耐えられなくなったのか道中、秋雪がそわそわし始めたのに気付く。「どうしたの?」と翠嵐が振り返り問えば秋雪は慌てた様子で腕を左右に振った。


「いえ、すごいと思って! 死んだ人とお話しできるなんて!」


 自分の行動が侍女として不適切だと気づいた秋雪はすぐさま腕を下ろし、口元を袖で隠す。袖で隠すのは彼女の癖だ。


「どんなにおっかない人かと思いましたが、優しい人でよかったです」


 子供のように無邪気に笑う秋雪に、翠嵐はふわりと笑った。


「そうね。とても優しい人だったわ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る