第8話 猫の声
全員が椅子に座ったのを合図に盆に茶器を乗せた豹嘉が青色の裾をひるがえしながら中央へと躍り出た。
「お熱いのでお気をつけ下さい」
湯気が立つ茶器を
「豹嘉。いい加減にしなさい」
明鳳が怒りを静めるように両拳を固く握るのを、喋るのを禁止された貴閃が青筋を何度も作るのを見て本日何度目か分からない叱責が玉鈴の口から放たれた。それに豹嘉が叱られた子犬の様な表情で小さく「すみません」と謝罪して、端へと下がった。
「申し訳ございません。では秋雪様、何があったのかお聞きしてもよろしいですか?」
秋雪が緊張した面持ちで頷く。
「猫の声が聞こえるのです」
明鳳と貴閃の視線を気にしながら、秋雪は手に持つ茶器に視線を落とした。
「私の主人が後宮に上がった日の晩からにゃおにゃおと聞こえると言っております。ここ二、三日は昼間も聞こえると言って、恐ろしいと房室から出ようともしません。私どもが何度も散策に行きましょうと言っても嫌だ、と」
「猫、ですか……」
猫ならば王の許しが出れば後宮で飼う事が許される。そうでなくても、時々野良猫が迷い込むのでその類いではないか、と玉鈴が問うと秋雪は顔を青白くさせて否定した。
「私共といる時ですら聞こえるみたいです。幻聴かと思い、医官に診てもらいましたがそうではないと言われております」
後宮入りした年若い妃の中で時折、環境が変わった事や両親と会えなくなった心労で不眠になる者や食欲がなくなる者がいた。中には幻聴と似た症状もある。
今現在、後宮の医官長を担当する老齢の男は長年その職に勤めている為、似た様な症状を何度も診てきた。腕もいい為、彼が違うといえば違うのだろう。
「それで心配してお見舞いに来たお妃様にここを訪ねる様に言われました」
十六で後宮入りした才昭媛を気にかけたのは周美人という半年前に後宮入りした妃だという。位は才昭媛より下だが、自分より年下の彼女をいつも気にかけてくれているらしい。
「周美人? あの顔もキツい、香水臭い女か?」
その名を聞いて、明鳳が苦虫を踏み潰した顔で睨むように目をすがめた。
「知っているのですか?」
「ああ。婚姻の際、始終ベタベタと引っ付いてきて鬱陶しかった」
女に興味がないと思っていた明鳳の口から出た名前に玉鈴はおやと片眉を持ち上げた。しかし、話を聞けば彼女が明鳳の興味を引いた、というよりもしつこ過ぎて覚えていただけのようだが。
「あれは好かん」
椅子の背に背中を預け、明鳳は腕を組みながら空中を睨みつけた。周美人との婚姻の儀を思い出したのか忌々しそうに舌を打つ。
「俺は確かに他人の心の機微には疎いが、あれはすぐに分かったぞ。亜王である俺に媚びへつらう気持ちの悪い女だ。俺のお気に入りになって子でも産みたいのだろう」
明鳳は相当苛ついているらしい。がしがしと乱雑に髪を掻きながら、ふんと鼻で嘲笑う。
「あんな浅ましい女、初めて見る。男に媚びるしか出来ない無能だ」
脳裏を掠める甘えた声音。香で満たされた房室で、色香を含ませた指先が布越しに肌を辿った感覚を思い出し、明鳳の肌が粟立つ。重なるように悪寒も感じ、温めるために袖ごと腕を摩った。
「そう言うものではありませんよ。彼女は王の妃です。妃としての仕事は王の子を産む事。手段はどうであれ、その勤めを果たそうとしただけです」
玉鈴はやんわりとたしなめた。
「ベタベタする奴は嫌いだ。あんな奴、俺の後宮にはいらない」
玉鈴から咎める眼差しを受け、明鳳は拗ねたようにそっぽを向く。まるで子供の仕草だ。もう話しかけるな、と横顔に書いてある。
これ以上、何を言っても無駄だろうと悟った玉鈴は視線を明鳳から秋雪に移す。
話す事は無くなったからか、秋雪は先ほどよりも体を小さくしながら指先で茶器を弄っていた。落ち着かないのか視線は定まらず、房室の調度品を見ては手に持つ茶器を。豹嘉を見ては、恐る恐る明鳳を。壁を見ては天井に、と上下左右に動かしていた。
玉鈴が彼女の名前を呼ぶと肩が面白いぐらい跳ね上がった。
「は、はいっ!」
「そこまで怯えなくていいですよ」
生きの良い魚の如く跳ねたので思わず玉鈴はくすくすと笑ってしまった。口元を隠して笑う玉鈴を見て、恥ずかしさからか可愛らしいそばかすが急速に真っ赤に染まる。
羞恥から視線を膝に落とす秋雪を見て、玉鈴はこほんと咳払いを一つ落とした。
「からかいすぎましたね。すみません」
「い、いえ」
「お話しは分かりました。その猫の鳴き声が何かを探って欲しい、という事でよろしいでしょうか?」
秋雪は俯いたまま首がもげるのではないかと思う程、頷く。
「恐らくですが、これは僕案件ですね」
玉鈴は白い指先を自身の唇に押し当てるとどこか楽しそうに両目を細めた。
「貴女の主人の宮に案内してください」
華の様な顔でにっこりと笑う。笑う事で目尻の陰影が濃くなり、一段と愁いを帯びた美貌を引き立たせる。
それを見て、秋雪と豹嘉は揃って頬を染めた。
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