5
それはよく晴れた土曜日のことだった。
こんこん、と部屋の扉がノックされて、わたしと桜さんは同時にお互いの顔を見た。誰が訪ねてきたのか、心当たりがまったくなかったからだ。
けれどわたしたちの当惑をよそに、返事をする間もなくかちゃりと扉が開いて、
「Helloマイク! お久しぶりです。元気にしてましたか?」
「あーちゃんっ?」
桜さんが驚いて、慌てて椅子から立ち上がった。桜さんよりも小柄な少女が、部屋の入り口で唇に手を当てて、中をきょろきょろと見回している。
「Oh部屋を移ったって聞きましたけど、……前とあんまり変わりませんね」
「どうして? なんであーちゃんがここに?」
あーちゃん、あーちゃんて誰だろう。少なくとも桜さんの知り合いではあるみたいだけど……。喋り方といい、態度といい、なんだか西洋かぶれの人みたい。それとも本当に外国の人、なのだろうか。
わたしはそんことを思いながら不意の闖入者に目を向けていた。高い位置で二つに結わえたライトブラウンの髪が、彼女の動きに合わせてぴょこんと跳ねていた。
「こちらは? マイクの新しいroom mate?」
「あ、うん。常世野燈さん。いつもお世話になってるの。えーと、こっちの」
「南アリシアです。今年の春までマイクとこの寮に住んでました。よろしく、です」
桜さんの言葉を遮るように、南さん——いや、桜さんの元ルームメイトなら南先輩とお呼びした方がいいのだろうか——がわたしに向かって手を差し出した。
わたしも桜さん同様席を立ち、その手を握った。
「うちは常世野、いいます。よろしゅうお願いします」
「あら、あなたずいぶん背が高いですね。それに……マノンみたいな喋り方するのですね」
「ねえ、ちょっと、わたしの質問に答えてよ。どうしてあーちゃんがここにいるの? あーちゃん卒業したんでしょ? 忘れ物?」
「そんなわけないじゃないですか。あれです。大学の進路相談会の手伝いで、マノンが……ってあれ? Where are you? マノン?」
「そない呼ばんでもここにおるわ。なんや、うちのこと忘れてるんかと思うたわ。なかなか紹介してくれへんし、どないしよ、このまま廊下に立ってればええんかって、やきもきしてたんやで?」
そう言って、南先輩よりもさらに小さな人影が、くすくす笑いながら部屋に入ってきた。ふんわりとした灰色の長い髪と、チュールレースがふんだんに使用されたブラウスのせいで、大層幼く見える。けれどこちらの人物には見覚えがあった。わたしの二学年上で、確か生徒会の副会長をされていた方だ。
「はじめまして、かな? あんたらうちのこと知ってる? 河瀬マノンいうんやけど」
桜さんがこくこく頷いている。わたしも頭を下げて、先輩のことは存じています、と答えた。
「あんた燈さん、やったっけ? ほんまに大きいなぁ。それに色白で別嬪さんやし。うちにその身長と美貌、分けて欲しいぐらいやわ」
河瀬先輩がわたしを見上げて、感嘆の声を上げた。するとその横から。
「何言ってるですか。ちっちゃくて可愛いは、正義なのですよ? ねえ、マイク?」
「……わたしに振らないでよ」
河瀬先輩は二人のやりとりを見て、微笑を浮かべている。わたしは部活を辞めて以来、これほど和気藹々とした空気に包まれたことがなくて、そしてそれは自分が捨ててしまったものなのだと改めて気づいて、……心が硬くなっていた。普段と違ってよく喋る明るい表情の桜さんを見ていると、なんだか少し、切ない気持ちだった。
「あーちゃん、来るなら来るで連絡ちょうだいよ。もしもわたしがバイトとかだったら、どうするつもりだったの?」
「I`m going to surprise you!」
「もう! バカなんじゃないの? そうだ、ロゼにはもう会ってきたの? ロゼだって会いたがっているんじゃない?」
……こんなに楽しそうな桜さん。わたしはこれまで一度も見たことがない。ふと視線を感じて目をやると、河瀬先輩がわたしの顔をじっと見ていた。
「ぼちぼち時間やし。ほならうちは行くわ」
「え? 待って、それならあたしも」
「アリシアはここに居ててええよ。まだまだ二人で積もる話もあるやろし。それにどうせアリシアは雑用係で連れてきただけやしな。そんかわり……燈さん」
「うち、ですか?」
「うん。ちょっと、手伝ってくれへん? そない大したことやないんやけど。かめへん?」
「そりゃかましませんけど。うちなんかで用が足りますやろか」
「んー? 大丈夫よ。じゃ、えーとマイクちゃん?」
「……桜です」
「桜ちゃん、ね。ごめんごめん。ほな燈さん借りてくで」
そうして何が何だかわからないうちに、わたしは河瀬先輩のちっちゃな手に引かれて、半ば強引に部屋の外へと連れ出されたのだった。
並んで歩きながら、けれど河瀬先輩は手伝って欲しいことの内容を、何一つ話そうとはしなかった。どこに行くのですか、と訊ねると、まあ、な、と曖昧な返事しか返ってこない。挙げ句の果てに自販機で紙パックのジュースを二つ買って、一つをわたしに手渡し、呆気にとられているうちにさっさと自分は日陰のベンチに座ってしまった。そしてパックにストローを挿して、いちご牛乳を飲み始めるのだった。……本当に、いったいこの人は何がしたいのだろう。
「はよ座り? あんたを見上げてると首が痛なるわ」
「仕事は? どないしはったんです?」
「どないもこないも。そんなもん、ないけど?」
河瀬先輩はそう言って、自分の隣をポンポンと叩く。そこに座れ、ということなのだろう。
「先生との打ち合わせならあらかた終わってしもたし」
「じゃあ、どうしてですか。うちを連れ出すようなこと、どうしてしはるんです」
渋々ながらわたしもベンチに座り、訝しく思っていたことを訊ねてみた。
「んー。せっかくやから、あの子らふたりきりにさせてあげよう思って。もう、そないな顔せんで。……アリシアなぁ、来る途中ずっとマイクに会えるって、そら楽しみにしてたんやで? それならうちら、お邪魔やん?」
「……そういうものですか」
「そういうものや」
わたしは小さくため息をついて、自分の分のジュース——こちらはバナナオレだった——のパックにストローを挿し、一口すすった。口の中に甘い、不自然な味が広がって、わたしは少しだけ顔をしかめた。
「そういえば先輩、進路相談会のために来はったんですよね」
「うん。うちとアリシアは星花女子の仏文科でな。興味ある?」
「さあ。仏文なんて想像もつかへんし」
「まあ、そらそうやろな」
河瀬先輩がずずっとジュースをすする。
「そやけど燈さんは進路、何か考えてはるんか?」
……進路。桜さんとその話になったのは、いつだっただろう。わたしは自分の将来に関して、まだ答えを出せていなかった。そういえば桜さんは、自分は就職すると思う、と言っていた。あまり踏み込んで訊かなかったけれど、そこには何か理由があるのだろうか。
「特にまだ、何も決めてへんのです。河瀬先輩はどうして仏文科に進まはったんです?」
「んー。うちは父さんがフランスの人やしな。それが一番大きいわ」
その論法で話を進めるのなら。わたしはやっぱり父の跡を追って芸の道に進めばいい、ということになるのだろうか。もちろん、そんなつもりはさらさらないのだけれど。
「アリシアはお父さんがイギリスの人やったかな。けど、大学は仏文科やし。ようわからんわな」
そう言って河瀬先輩はくすくすと笑って見せた。
「さっき歩いてるとき思たんやけど、燈さんは目ぇが悪いんか? ずいぶんおぼつかない感じやったけど。あ、ごめん。不躾やったかな」
「いえ。別に」
「けれどそれもあって、いろいろ悩んでる……ってとこかしらん? あんた、なんや自信なさそうやしな」
わたしは、改めてこの先輩は怖いな、と思った。副会長時代に懐刀などと呼ばれていたのは、きっと伊達ではないのだろう。
「ま、ええわ。うちやったらいつでも相談に乗るし、大学に訪ねておいでな。待ってるで。ほな、……うちも行こうかな」
河瀬先輩はそう言って立ち上がると、大きく背伸びをした。体を構成するパーツの一つひとつは小さいのに。そこには不思議な存在感があるような気がして。
眩しいな、と思った。
「どちらへ行かはるんです?」
そう訊ねると、
「うちも会いたい人がおるんや」
河瀬先輩ははにかんだような、可愛らしい笑みを浮かべていた。
しばらくしてから部屋に戻ると桜さんが一人、勉強机に向かっていた。西日が差していて、彼女の周りに淡い影を作っていた。
「おかえりなさい。お手伝い、大丈夫だった?」
机に向かって何か書きものをしながら。振り返らずに桜さんは言う。
「うん。それより南先輩はどうされたん?」
「あーちゃん? 帰ったわ。多分、ロゼに会いに行ったんだと思うけど」
「ロゼ?」
「あーちゃんの妹」
わたしは備え付けのクローゼットの奥から三味線を取り出して、布袋を解いた。糸巻に手を添え、二上りに調弦する。撥を当てるとろん、と乾いた音がした。
「え? 三味線? 燈さん、三味線なんて弾けるの?」
驚いて振り返った桜さんに、わたしは小さく微笑んで見せた。
左手の指を滑らせる。弦がきゅっと音を立てる。
そして。一瞬呼吸を止めて、叩きつけるように撥を当てると、空気が震えた。
桜さんがわたしの演奏を、息を飲んで見つめている。わたしはその視線を感じながら、ただ、夢中で指を動かし続けた。
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