4
灰色の厚い雲の隙間から、淡い一筋の光が射していた。あれは何かの兆しなのだろうか、と考えながら、わたしは暗い、明け方の空を見つめていた。日曜日でそれほど早く起きる必要はないのに。彼女のことが心配で早く目が覚めてしまった。ただ、本当は少し、予習でもしようかと思っていたのだが。
ううっ、という呻き声が聞こえて、勉強机から後ろを振り返る。二段ベッドの上段で、桜さんがもぞもぞと体を動かしているのが、朧げに見えた。
「ごめん、起こしてしもた?」
「ううん。目は覚めてたの」
掠れた声が返ってきた。
「……大丈夫?」
「だめ。……子宮でちっちゃいボクサーが暴れてる」
「お薬は?」
「効かないから、いい」
「そう。なんか欲しいもんあったら言うて」
「……コーラ」
「炭酸なんか飲んで平気な?」
「ん」
わたしはやれやれと思いながら立ち上がった。自室に備え付けの冷蔵庫の扉を開き、中に入っているものを見て、けれど結局何も取り出さずに冷蔵庫を閉めた。そして自分の財布を手に取ると、桜さんに黙って廊下に出た。五月を過ぎたというのに廊下は少し寒かった。わたしは一度身を震わせて、カーディガンを一枚羽織ってくればよかったな、と思った。
廊下は電灯が絞られていて薄暗かった。わたしはぱたりぱたりとサンダルで歩きながら、寮の自販機を目指した。遠目からでも自販機が明るく光っているのが見えていて、なんだかほっとする。
よくよく見てみると、自販機の前で四つん這いになり、床をゴソゴソとしている人影がある。何か探し物でもしているのだろうか。もしかしたら小銭を落としてしまったのかもしれない。そんなことを思いながら近寄ってみると、彼女はどうにも丈の短いワンピース型のパジャマを着ていて、お尻をこっちに突き出しているものだから、下着が丸出しになってしまっている。同じ女同士でも、なんとも目のやり場に困る場面に遭遇してしまった。
「どないしたん? お金落としたん?」
腰を屈めながら訊ねると、彼女は一瞬ビクッとして、恐る恐るわたしを振り返った。
「……なんだ、あんたか」
「なんだとはえらい言いようやねぇ」
それは今年から同じクラスになった理純さんだった。
「何してはんの。お尻丸出しで。風邪引くえ?」
「……別に。それより、その関西弁どうにかならないの」
「どうにか、言われてもねぇ」
わたしは顎先に指を当てて苦笑した。何か関西弁に恨みでもあるのだろうか。わたしがそれ以上何も言わずにいると、彼女はさっさと立ち上がって、ムッとしたままどこかに行ってしまった。
わたしはその後ろ姿をしばし見つめてから自販機でコーラと烏龍茶を購入すると、水滴の浮かぶペットボトルを両手に持って、部屋に戻った。なんだか狐につままれたような気分だった。
「ごめんね、買い置きなかった?」
わたしが戻ると桜さんがあわててベッドから起き上がって、申し訳なさそうに言った。わたしは苦笑して、寝てていいよ、と返した。
「冷蔵庫にもあるにはあったんやけど。……はい、これ」
「あれ? これ、色が?」
桜さんはしげしげと、手にしたペットボトルを見つめている。コーラのラベルは、赤でも黒でもなく、金色をしている。
「寮の自販機にカフェインレスのが売ってたなって。思い出したん。遅なってごめんね」
「ううん。でも、どうして?」
「生理中はカフェイン控えたほうがええよ。あと、過度のお砂糖も」
「そうなんだ。ありがとう」
ペットボトルの栓を開ける、プシュ、という音が聞こえた。わたしは彼女が喉を鳴らしているのを、ぼんやりと見ていた。
「……うん。ちょっと落ち着いた、かな。気持ち悪かったのが少し収まった」
「なあ、桜さん」
「なに?」
「下、降りてこられる?」
「……ん」
桜さんの顔色は青白く、階段を伝って降りてくるのも大儀そうだった。
「おトイレ行くんも上やと大変やろ。下、使って」
「でも、それだと燈さんが」
「うちのことはええから。ほら、はよベッド入り」
わたしは遠慮する桜さんを半ば無理やり自分のベッドに押し込んで、布団をかけた。
「腰さすってあげる。……反対向いて」
「いいの?」
「……桜さんには普段色々とお世話になってるし。たまにはええよ」
「じゃあ、甘えちゃうね。お願いします」
わたしは下着に貼ってあった熱を失いつつあるカイロを剥がして、そっと彼女の腰をさすった。
「そういえば自販機の前で変な子に会うたよ。四つん這いになっててパンツが丸見えやった」
「……それ誰」
「うちのクラスの理純さん」
「……ああ、あの」
「あら。有名な人な?」
「噂は、少しだけ。それよりもさ、燈さん。あなた……コンタクトレンズ、してなかったんじゃないの? 見られてない?」
そう言われて、一瞬手が止まった。桜さんはちらり、とわたしを振り返った。
「……暗かったし。多分、大丈夫やと思うんけど」
「わたしのせいでごめん。でも、気をつけて」
「うん」
五分くらいはさすってあげていただろうか。ふと気づくと桜さんがすうすうと寝息を立てている。わたしは手を止めて、寝癖のついた彼女の髪を見ていた。それはまるで、傷を負って薄暗がりでうずくまる、黒い猫のようだと思った。
「……光」
不意に彼女が、小さな声で言った。聞き返そうとしたが、それはどうやら寝言のようだった。誰かの名前だろうか、と思いながら、わたしは再び明け方の空に視線を移した。
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