3
バイト帰りの桜さんからは、いつもの桃に似た匂いと共に、雨の匂いがした。部屋に上がると靴下がぴちゃりと音を立てた。わたしは急いでタオルを手渡した。触れた彼女の制服はしっとりと濡れて、肌に張り付いていた。
「ありがとう。急に降ってくるから」
桜さんが髪を拭きつつ、わたしを見上げながら言う。
「傘、持って行かへんかった?」
「バイト先に置き傘してあると思ったんだけど。……燈さんはお風呂済んだ?」
「うちはさっき」
「じゃあ、わたしこのままお風呂行って来ちゃうね。風邪引いちゃう」
わたしは苦笑する彼女をそのまま送り出した。彼女のが消えると、部屋の中には雨の匂いだけが残った。不思議と桃の匂いは彼女と共に消えていた。
窓際の勉強机に座り、わたしは目を眇めた。細い雨が、銀色の糸のようだった。すっかり葉桜に変わった桜の向こう側に、大きな欅の木が見えた。太い幹と枝ぶりはいかにも雄々しかった。
雨に目を凝らすと、わたしの狂った瞳がゆらゆらとゆれる。目眩を起こしそうになって、慌てて目を閉じ、じっと雨の音に耳を傾けていた。
食堂で夕食を食べている最中のことだった。桜さんが何かを見つめているのに気付いた。わたしはその視線を追った。どうやら食堂に備え付けてある大きなテレビを、見ているみたいだった。遠くてよくわからないが、NHKのニュース番組が流れているようだった。
食事中にお行儀が悪い、そう注意しようとしたのだけれど、彼女の顔があまりにも真剣で、切実そうに見えたので。わたしは何も言えなかった。
「……いたこ」
「へ?」
驚いて、間抜けな声しか出なかった。
「イタコ、って知ってる?」
「潮来……茨城県の?」
「地名じゃないわ。死者の口寄せをする、なんていうのかしら……霊媒師みたいな」
「東北のが有名やねぇ。恐山とか。それがどうかしたん?」
「本当に死者と会話ができるのかしらね」
「さあ。……どうやろ」
よくわからなくて、わたしは曖昧な答えを返した。
「どうしてそんなこと訊くん?」
「ううん。別に」
桜さんの箸が鶏肉の照り焼きに伸びた。わたしは付け合わせのプチトマトを奥歯で噛みながら、桜さんの箸の動きを、肉を咀嚼するその口を、ただ見つめていた。
「そういえば……燈さんは卒業後の進路ってもう決めているの?」
「進路?」
「うん」
「そういう桜さんは?」
「わたしは……」
一口ご飯を食み、間を置いてから。桜さんは口を開いた。
「大学にはいかない。就職、かな」
「そう」
「本当は、ね」
桜さんは苦笑して、
「……世界を見てみたいの。旅をしたい」
「グローバルな感じでええねぇ」
「そういうんじゃないのよ。わたしの場合は、ただ」
逃げているだけ。
そう呟いて、桜さんは小さく笑った。
深夜になっても雨は降り続いていた。二段ベッドの上から、桜さんの寝息が聞こえている。わたしは寝返りを打ち、雨の音と桜さんの寝息に耳を傾けていた。
進路。わたしたちもすでに三年生になり、自分の身の振り方を考えなければならない時期に差し掛かっている。最初は……父を追って落語の世界に身を投じることも考えていた。父とわたしを繋ぐものは、結局のところそれしかなかったから。でも……義理の兄のひとりが真打に昇進したのを知って、それも馬鹿らしく思えてきた。所詮、わたしは妾の子だ。あの狭い世界の中にもしも住まうとしたら。わたしの存在は父にとっても義理の兄たちにとっても、迷惑なものでしかないだろう。
それが肌でわかったとき。わたしは落語を捨てた。落研を辞めたのだ。不思議と未練はなかった。もう、誰もわたしを芸名の黒雪とは呼ばない。そのことに安堵したくらいだった。
でもわたしは、それならばどうやって生きていくのだろう。生きていけばいいのだろう。この陽の光に弱い白い肌と、弱視の目を抱えて。
ベッドから起きだして窓の外を見つめる。窓ガラスの向こう側に水滴が付いている。桜も散ったというのに、夜は随分肌寒い。
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