2
「改めまして。常世野燈です。こちらこそよろしゅう、ね」
わたしがぎこちない笑みを浮かべると、桃の香りがふわりとゆれた。髪の乱れが気になるのだろうか、桜さんがそっと自分の髪を、手櫛で梳いた。
さすがに二年間もこの寮で暮らしているのだから、部屋の勝手は熟知しているらしく、彼女が手際よく自分の荷物を仕舞っていくさまを、わたしはじっと見ていた。別に手伝ったりはしない。彼女のスペースはきちんと確保してあるし、どうせわたしが出張っても邪魔になるだけだし、私物自体が少なそうだし。それに、自分の荷物は自分で仕舞うのが筋だろうから。
「松木さんは……」
「桜でいいよ」
「じゃあ、うちも燈でええよ。……桜さんはどうして一人になってしもたん?」
ごそごそと教科書を自分用の机に並べながら、桜さんはわたしを見ずに、
「寮監から聞いてない?」
「うん」
「……卒業しちゃったの。わたしのルームメイト、一つ年上だったから」
「へえ、そやったんか」
張りない声で桜さんが呟く。わたしも当たり障りのない相槌を返す。日が少し陰ったみたいで、ほんのわずかに部屋が暗くなる。わたしは椅子に座ったまま、彼女の輪郭をぼんやりと見つめていた。
「燈さんの元のルームメイトはあれでしょ? 国体の強化選手、だっけ。凄いよね」
桜さんはあらかた自分の荷物を片付けると、最後に大事そうに、一冊のノートを鍵のかけられる、机の一番上の引き出しに仕舞った。
しっかりと鍵をかけ、そして小さく背伸びをして、改めて頭を下げた。
「一年間だけだけど、よろしくお願いします」
「ううん。うちの方こそ。でな、……来てそうそうあれなんやけど、うちら一年ときに同じクラスやったやない? 桜さんて、うちのことどれくらい知ってはる?」
「どういうこと?」
訝しげに首をかしげるのが、ぼんやりと眼に映る。これから一緒に暮らす人なのだから、とわたしは思い、それならば最初に話しておくのが筋だろうな、と考えた。普段だったらこんなに饒舌に喋ったりはしないのに。わたしも少し、彼女という存在——あるいはその周囲に漂っている何か——に対して、緊張していたのかもしれない。桃の甘い香りがいつまでもわたしの鼻孔をくすぐっている。
「……うち、あんまり体が丈夫やないから。よう知らんかったらルームメイトの桜さんには迷惑をかけることになるやろな、って思ったんよ。うちがひどい弱視なんは……一年ときにクラスメイトやったから知ってはるとは思うんにゃけど」
わたしは片方のコンタクトレンズを外してみせた。今のわたしは、黒と青緑の奇妙なオッドアイになっているはずだ。
「……実は瞳の色もこんなやし。けったいやろ。いつもはカラコンでごまかしてるけど。でも一緒に暮らしていれば、桜さんにはようごまかしきれんし」
桜さんはちらりとわたしの顔を一瞥しただけで、特に何も言わなかった。
「白皮って知ってはる?」
「ううん」
「うち、生まれつき紫外線に弱くて、その合併症のせいで血も止まりにくいんよ。……生理んときなんかはえらい貧血になってまう。だから、最初に謝っておこう思て。うちみたいな同居人でごめんなさいって」
「わたしもね」
桜さんは小さく苦笑して、さっきノートを仕舞ったばかりの、机の引き出しに視線を向けた。
「生理痛がひどいの。ときには寝込むくらいに。だからお互い様だと思う」
そして口調を変えて、
「わたしが寝込んでいたら看病してね。あ、あと部屋に入ったときに思ったんだけど、燈さんはあんまり部屋をゴテゴテ飾り立てたりしない人?」
桜さんがわたしに訊ねた。わたしはぐるりと殺風景な部屋を見渡してみた。
「そやねぇ。ものが多いと邪魔やし」
「わたしも、余計なものは何もいらないと思っているわ。気が合いそうね」
桜さんはそう言って、にっこりと笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます