夏の桜

月庭一花

 さようなら、燈。元気で。


 彼女はそう言って、小さく笑って見せた。そしてわたしの背後を……自分が二年間暮らしていた部屋を、名残惜しそうにじっと見つめていた。わたしたちの部屋はひどく殺風景だったけれど、それでも……愛着がないわけではないのだろう。そこには悲しみも喜びも、わたしたちの多感な時期の、全てがあったのだから。

 彼女の見つめる先には、突き当たりに小さな窓があって、その向こう側では、桜の蕾がやわらかくほころび始めている。春がすぐそばまで来ている。

「応援しているわ。あなたがどこにいっても」

 わたしはそう言って、輪郭のぼやけた彼女を見ていた。彼女の傍らには大ぶりのスポーツバッグが一つだけ。ほとんどの荷物はすでに業者が運び出している。

「……最後にもう一度、名前を呼んでくれないか」

 彼女が照れくさそうに、ちょっとぶっきらぼうな口調で言うので、わたしは彼女をそっと抱きしめて、

「さよなら。……うちのいとしい美羽」

 囁きながら。

 いつかのお返しのように、そっと彼女の耳に唇をつけた。


 春は別れの季節、などと古臭いことを今更言ってみたところでどうしようもないのだけれど。わたしは三年生に進級しようというこの時期に、二人の大切な人を同時に失うことになった。

 一人目はルームメイトの美羽だった。二度目の東京オリンピックから正式種目になった空手は、今や日本のもう一つのお家芸だ。美羽は強化選手の一人となり、この春から東京の高校に編入することになった。あるいは次のオリンピックでわたしたちは彼女の勇姿を見ることができるかもしれない。

 二人目はゆいだった。本格的に芸能活動を始めたゆいは、わたしの手から巣立っていった。彼女も今は拠点を東京に移して、活躍を続けている。いっときは恋仲だったわたしがその姿を見ることはたぶんないけれど、テレビをつければ、あるいは彼女を目にすることがあるかもしれない。

 落研も辞めてしまったわたしには、それこそ友達と呼べそうな人間が、周りには一人もいなくなっていた。いなくなってしまったのはひとえに自分の至らなさのせいではあるのだけれど、わたしはそのことを寂しいとは感じていなかった。独りでは到底生きてはいけない存在なのに。それなのに。わたしは自分自身のしがらみを、どこか鬱陶しいものだと思っていた。あるいは縁が切れてしまうことを、心のどこかで喜んでいたのかもしれない。

 ただ、そんなわたしにも一つだけ憂鬱なことがあった。

 春は出会いの季節、などと古臭いことを今更言う気はないのだけれど。わたしが入寮している桜花寮は成績上位者の集まる全室個室の菊花寮と違い、二人一部屋が基本になっている。美羽が退寮した今、わたしの部屋には新しいルームメイトがあてがわれることになるのだけれど……三年生になろうというこの時期に、また一から同室者としての関係を構築するのは些か面倒だった。美羽とのように良好な関係を築ければいいのだが。少なくとも部屋にベタベタとアイドルの写真を貼ったり、コロンの匂いをやたらと振り撒いたり、のべつまくなしお喋りをしている、というタイプは御免被りたかった。

 とは言うものの、わたしには白皮に関連した障害の上に弱視というハンデがあって、少なからず同室者には迷惑をかけることになってしまうし、わたしの目の秘密も、ルームメイトには隠しおおせるとは思えない。だから、最低限のところでわたしという存在を許してくれる人がいい、とだけ思っていた。

 わたしは窓の外をぼんやりと見ながら今日から一緒に暮らすことになる、その人を待っていた。寮監から先日告げ知らされたその人は、以前はクラスメイトであったはずなのに、あまりにも印象が薄すぎて、どのような人物だったのかまるで覚えていなかった。そしてそれを象徴するみたいに。わたしの弱視の目には四分咲きの桜がその輪郭を失って、淡いもやに見えていた。

 淡い桜色の影は、いつまでも視界をゆれ動いていた。

 コンコン、と部屋の扉がノックされたのは、それからしばらく経った昼過ぎのこと。

 部屋の扉が開いた瞬間、わたしは桃の匂いを感じた。瑞々しくもどこか不吉な匂いがした気がして、わたしは少しだけ身構えた。


「……今日から同室になる松木桜です。常世野さんとは、一年生のときに同じクラスだったよね。よろしくお願いします」

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