第伍章~帝都に吹く“風”~ / 第三節
『……教授! 起きてけさィ!』
……誰だ? ワシの事を“教授”などと呼ぶ者は?……
『んん……今、何時じゃ?』
『朝の7時だ。随分と心地良さそうに寝ていたな、机に突っ伏して……』
身体を起こし、周囲を見回す。ワシは質実剛健とした革張りの椅子に腰かけていて、目の前には立派な机……側に女と男が一人ずつ立っている。どちらも普通の人間であって、“聖霊人”では無い。だが……
『……ナトラ、ワシは“准教授”じゃぞ? 間違えるでない。』
『んだって、もうすぐ出世されるンでねぇの?』
『この歳で“教授”になったら、それはもう、大出世だろうな。』
『エラセド……またワシの年齢を詐称する心算か? 言うほど若くないのじゃぞ、ワシは……』
……ナトラとエラセドだ。間違いない。見た目はまるで別人だが、口調や受け答えは、正に彼らである。
『それよりナトラ……レポートは仕上がったのか?』
『あンやぁ、忘れっタ!』
『早く仕上げてこい。出来たらオレが添削してやる。』
『んだば、オラぁこれにテ!』
……これは夢だろう。以前も同じような夢を見たのだ。また見たとて不思議ではない。
“
『おい、また寝そうになっていないか?』
『……すまん。昨晩は徹夜でのぅ……』
『ここ最近、研究室に入り浸りだからな。たまには自宅に帰って、ベッドでゆったり寝たらどうだ?』
『そんな暇があるか! レポートの確認と添削、それと最新の論文のチェックとで、ワシはもう、てんてこ舞いじゃよ……後、何文字見れば終わるか、確認してくれんか?』
『ざっと計算して……おおよそ、50万文字ぐらい……といったところだな。』
夢のエラセドは、机の上に山積みにされているレポートと論文の束をざっくり確認しながら、そう言った。
『はぁ……これでは、ワシ自身の研究がちっとも進まんではないか……』
『“モナド仮説”……だったか?』
『そうじゃよ。宇宙の最小構成単位……それは一次元上の1ビットとして記述可能な“
『理論物理学では思考実験が重要だと言うじゃないか。隙間の時間でもできそうなものだが……』
『思考実験は頭の中だけで行うものでは無いのだぞ? 物理的に反応を起こしたりするワケではないだけで、それ以外の部分は通常の実験と対して変わらんのじゃよ。』
『それもそうか。』
『諦めたように言うでない……』
はぁ……と再び溜め息を吐き、また机に突っ伏す夢の中のワシ。そのまま左手首に視線が向くと、視界に腕時計が映る。針は、7時15分を告げようとしていた。
『……それより、そろそろ講義の準備をせねばならぬ時間ではないのか?』
『……そう言えば、そうだな。確か2時限目にオレの講義が予定されているんだった。ニハルは?』
『今日のワシは“非番”じゃぞ。』
『なるほど……今日の講義の予定は無い、と……』
『そんな事をメモって何になると言うのじゃ……兎も角、この書類の山さえ片付ければ、今日は存分に休んで、自分の研究に打ち込めるというワケじゃな。』
背凭れに寄り掛かりながら、そう言った夢の中のワシ。夢のエラセドは、板状の電子端末……“タブレット”と呼ぶらしい……を操作している。
『じゃあ、オレはそろそろ行くぞ……寝過ぎるなよ?』
『判っておるわぃ……ふあぁぁっ……』
忠告しながら部屋を出る夢のエラセドを余所に、大欠伸をしながら椅子に凭れ掛かる夢の中のワシ。睡魔には抗えず、次第に閉じていく瞼。夢の中のワシが微睡みの裡に沈んだ後、“ワシ”の意識は、深い夢の
………………
……………
…………
………
……
…
「……ご主人!」
「んむっ?」
顔面の違和感と大声に叩き起こされたワシは、思わず目を見開いた。ナトラの愛くるしい顔が、眼前に迫っているのである。まるで、恋人同士が今まさに
「
「そ、そうか……心配掛けたのぅ。」
今いるのは、ごとごとと揺れる荷馬車の中だ。帝国の騎士ゲオルギウスが提案したところによると、“軍に見つからずに帝都に入るなら、皇家御用達の品を運搬する荷馬車に潜り込め”との事だった。幾ら強硬派の多い軍と言えども、そして、飽く迄も立場上の関係と言えども、自軍の最高司令官に当たる“雲の上の人”が取り寄せた品を、一般の兵士が傷付けてしまったとあれば、それこそ切腹ものである。そういう物が積まれた荷馬車の中に隠れれば、軍が検問を張っていたとしても、潜り抜ける事が出来る……という事らしい。
そういうワケで、ワシらは、通りかかった政府公認の運搬商が引き連れた二台の荷馬車……盾の中に獅子が描かれた紋章が掲げられている……の中に、ワシとナトラ、シェラタンとエラセド、二手に別れてそれぞれの荷馬車に潜んだ。ゲオルギウスの部隊が検問を装って荷馬車を足止めしている隙に、である。シェラタンによると、荷馬車に掲げられた紋章は、皇帝一族の紋章であるらしいから、この運搬商は皇家御用達であるようだ。
ワシらは、この運搬商が“偶然”通り掛かったように思ったが、どうやら、ゲオルギウスが予め手配していたらしい。耳を澄ませて外の音を聞いたところによると、兵士たちの検問に引っ掛かった荷馬車が皇家御用達のものである事を、ゲオルギウスが兵士たちにわざとらしく知らしめるというような小芝居が繰り広げられていたようで、一通りの演技が終わった後、運搬商がゲオルギウスに対し、“今後ともご贔屓に”と静かに言っているのが聞き取れた。随分と手の込んだ芝居である。これも軍の体面を保つ為だろうか。
「ところでナトラ……」
「何でがショ?」
「今は昼か? それとも夜か?」
「夜でがスよ。」
「……ならば、何故起こした?」
「だってェ、オラぁ夜ンなっと目ェ冴えちまう時あンだォん……」
ネコは夜行性だから、仕方の無い事か……
「で、ワシの眠りを妨げてまで、何をしてほしいのじゃ?」
「えっとォ……い、言ってもいいのスか?」
「何か憚られる事情でもあるのか?」
「……ご主人に“めんこがられてぇ”ンでがス。」
妙にモジモジしながら、何故か恥ずかしげに言うナトラ。“めんこがられたい”とは確か……“可愛がってほしい”という意味だった筈だ。
「何じゃ、可愛がってほしいのか。」
「んだスぺ。」
「オヌシが良ければ幾らでも可愛がってやるぞ?」
「やったぁ~!」
ワシの眼前から顔を離していたナトラが、大喜びで、今度はワシの胸に飛び込んできた。荷馬車の床面に座るワシに、覆い被さるようにして身体を密着させるナトラ……少し興奮しているのか、その身体はポカポカと暖かい。
「ゴロゴロゴロゴロ………」
ネコが安心感を抱いた時に発する特徴的な鳴き声に似た声を発しながら、ナトラはワシに身体を擦り付ける。折角、可愛がってやると宣言してしまった以上、可愛がらないワケにはいかない。ワシは、左腕で身体を抱き止め、右腕でその頭を抱えながら、右手で側頭部を撫でた。
「ミャァ……」
嬉しそうに鳴き声を上げるナトラ……何だかこちらまで火照ってきた気がする。背徳的とも思われかねないこの状況に、さっき以上に増大する心拍数……これが体温上昇の原因か?
ナトラは可愛い。これは間違いない。だが、ワシの中にあるこの感情はなんだろう。慕ってくれる者への純粋な愛しさか、愛くるしいが故の恋しさか、はたまた、仲間としての友愛か、親が子に対して抱くような親愛か……或いは、その全てが入り雑じった複雑な感情なのかもしれぬ。
「ゴロゴロ……スゥ……」
いつの間にやら、スヤスヤと寝息を立て始めたナトラ。
夜通し進む荷馬車の中で、ワシらは互いを暖めあいながら、深い眠りの裡に沈んでいった……
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