第壱章~“異邦人”の目覚め~ / 第二節
「さて、これからどうしようかのぅ……」
水浴びで眠気と寝汗を流し終えたワシは、寝室のクローゼットに入っていた服に着替えてみた。木綿の胸当て帯と、同じく木綿のブレー……丈が膝下のゆったりとしたズボンのような
靴を探すが見つからず。はて、これは如何なることか……と思い、足を見遣ると、脹ら脛の下半分辺りから爪先まで、綺麗に毛で覆われているではないか。細やかで柔らかく手触りの良い毛の質感と色は、耳や尻尾に生えているものと共通する。足の全体的な構造は人間のものと相違無いが、その指先に生える爪は、黒く太くて頑丈そうな、獣の指先に生えているそれと酷似している。この爪の構造は、深く突き刺さる事で地面を捉え、加速や方向転換を効率化し、俊敏な走行を実現する為のものであり、イヌ科の動物に特徴的なものだ。靴を履いてはこの爪の強みを殺してしまうことだろう。また、ご丁寧にも、足の裏側……土踏まずと指の間……には黒ずんだ肉球までもが存在する。元来、人間の足裏には、獣の肉球と近い役割を果たす“母趾球”という部位が存在するが、まさか、そこに本来は獣のものである筈の肉球が形成されているとは驚きだ。この肉球は、表面こそ硬くしっかりとした角質層で覆われているようだが、その質感はプニプニとしていて柔軟だ。これは、走行時の衝撃を吸収する事で、より高速の走行を可能とするもの。また、音を吸収する効果もあるようで、これなら獲物に勘づかれる事なく接近できる。これもまた、靴を履いてしまっては活かせない。要するに、斯様な足を持っているのであれば、靴なぞは用するに足らず……ということなのだろう。
足の毛並みを撫でて再確認していたら、同質同色の毛並みが手の甲を覆っているのに気がついた。足先が獣なら、手先も獣……という事なのだろうか。掌側に毛は無く、素肌が露になっている。肉球はあるが足裏のそれよりも小さく薄く、地面に接地しないからか黒ずみが薄い。そして、より柔らかく、よりプニプニとしている。それらの肉球が五指の付けに一つずつ、片手で計五つ存在しているのだ。手の爪もまた足の爪と同様であり、形は太く短く浅い鉤状で、色は黒曜石のような光沢のある黒。鋭さは無いが非常に硬く、その硬度は、森に繁る樹木を引っ掻いて、その樹皮に深い爪痕を残す程だった。恐らく、単純な硬度では足の爪を上回るだろう。
「……これでは、獣そのものじゃな。」
五筋の爪痕が刻まれた樹木を眺めながら、そう嘯く。樹に爪痕を残して縄張りを主張するというのは、肉食獣の常套手段である。それにその爪痕は、自らの扱いを間違えれば、他者を容易に傷付けてしまうという証明でもあった。もしかすると、記憶を喪う前の自分は、“
……いずれにせよ、今は情報を集めたいところだ。と言うのも、今いる“この世界”の情報が、脳内知識の中に見当たらないからである。ワシが長期間、この地で過ごしていたのなら、この地の一般的名称はエピソード記憶ではなく意味記憶として保存されている筈で、そう仮定するならば、ワシはこの地の呼び名を思い出せなければならない。そうでないとするならば、ワシはこの地に最近越してきたばかりの新参者、という事になる。いずれにしても、確証を得るには余りにも情報が足りない。何故、エピソード記憶と一緒に意味記憶の一部が喪われてしまったのか、そもそもワシは何者なのか……知らなければならない事が多すぎる。
「とは言え……」
このように
……取り敢えず、住まいがこれだけ豊かな森であるなら、当面は生活について案ずる事も無かろう。食い物は木の実や果実を採ってもいいし、獣を狩ってその肉を頂くのもいい。道具を拵えて釣りをするのも一興だろう。小川の水は十分綺麗だし、竈にくべる
考察を一区切りしたその時、腹の虫がグゥと悲鳴を上げる。
「ふむ……腹が空いたな。」
そう言えば、目覚めてから何も食べていない。太陽の昇り具合からして、今は真昼頃といったところか。今から狩りをしていたら、昼飯が夕飯になってしまうやも知れん。何か備蓄はなかったか、探してみるとしよう。
「むぅ……」
自宅に戻り、台所を物色してみたが、これといって有意な結果は得られなかった。食物の保存に適したスペースがあり、かつて保存されていたであろう痕跡こそ発見できたが、現物は見当たらない。要するに、保存食などの備蓄は見つけられなかった、という事である。水筒として使えそうな、或いは使っていたであろう皮袋……恐らくは獣の胃袋を乾燥させ加工したもの……を発見できたのが、唯一の成果と言ったところか。取り敢えず、これで飲用水を携行する事ができる。
まぁ、無い物は仕方が無いものだ。狩りや釣りをするとなれば手間も掛かろうが、木の実や果物を探すくらいなら、大した手間にはならないだろう。少なくとも、今から武器の類いを工面して、鹿や猪を追い掛けるよりかは、幾分かマシな筈だ。序でに、人里も見つけられれば御の字というもの。
「さて、行くとするかのぅ……」
こうしてワシは、小川の水を皮袋に汲み、空きっ腹を抱えながら、森へと繰り出したのである。
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