第壱章~“異邦人”の目覚め~ / 第一節

「………………」

 魘されていたのだろうか……寝汗で背中が濡れている。

「……朝、か。」

 やおら手を伸ばして鎧戸を開く。眩しい日射しが寝室を照らし、涼やかな風が頬を撫でる。小鳥の囀りが夜明けを告げているようだ。

「水浴びでもするか……」

 やたらと現実味に溢れた夢の事も気になるが、取り敢えず、この心地の悪い背中をどうにかしたい。

 ふと、寝室の内壁を見遣る。天然由来らしい防腐剤のようなものが塗布されているものの、その質感は滑らかな材木のようだ。ただ、周囲を丸く取り囲む壁にもドーム状の天井にも、繋ぎ目のようなものは一切見えない。まるで、巨大な材木の内部をくり貫いて作られたかのような……

「…………?」

 ……そう言えば、自分は何故ここにいるのだろうか。それよりも、自分は何者なのだろう。記憶を辿ろうとしたが、目が覚めるよりも前の事が思い出せない。変な夢を見ただけだというのに、解離性健忘でも発症してしまったというのだろうか。

「ふぅ……」

 まぁ……こういう時は、一先ず問題を棚上げにしてしまうというのが賢明だ。判らぬ事など、悩んでいても始まらぬ。兎にも角にも、先ずは水浴びだ。

 ベッドから降りて辺りを見渡す。寝床は敷き藁の上に亜麻布リネンのシーツを敷き、柔らかな毛織物の掛け布団が掛かっているだけの基本的なもの。壁の一部が競り出しているような構造の台の上に、件の寝床が載っている。台にも壁との繋ぎ目は無く、壁を削り出した時に台も削り出されたようだ。それ以外にはクローゼットのような衣服棚しか無く、実に質素な寝室である。部屋の広さは6畳半ほどで、天井高は最も高い所で約6尺(約181.8cm)。ドアの類いも無く、壁に沿って設けられた階段が下層へと向かうものしかない事から、どうやら、この寝室は建物の最上階にあるらしい。

 階段を下って直ぐの階は、書斎のように見える。部屋の広さと天井高は寝室とほぼ同じで、薄光が射し込む鎧戸を開けると、朝日が部屋を照らし出した。光に照らされた壁の7割ほどは、大きな棚で埋め尽くされている。その内の半分は無数の書籍が納められた本棚となっていて、残りの半分に置かれているのは、乾燥した植物の葉や花、果実、根塊、キノコなどの菌類、動物性の骨や膠など多種多様。頭の中の“知識”を漁ってみると、どうやら、これらの物品は薬の原料であるようだ。所謂“生薬”というやつである。窓の直ぐ下には机と椅子があり、机の上には薬研が据えられている。以上の事柄から、記憶を喪う前のワシは、調薬を行う薬師であったと推測できる。

 ……どうやらワシが喪ったのは、記憶の中でも“生活史に纏わるエピソード記憶”……即ち、自分はどこで産まれた何者で、今まで何をして過ごしてきたのか、という記憶……であるようだ。症状としては“全生活史健忘”と言ったところか。エピソード記憶を喪っても、今までに蓄積された“意味記憶”……俗に言う“知識”……を喪わなかったというのは幸運だ。知識を元にして様々な事を類推できる。

 若干の安堵と共に、壁に沿う階段の続きを降りていく。階段は書斎の下の階で終わっており、ここが最下層である事を告げる。この建物は三階建てのようだ。寝室は三階、書斎は二階、そしてこの部屋は一階である。

 一階は居間兼台所であるようだ。天井高は他の部屋と変わらないが、広さは約7畳ほどと若干ながら広い。原木をそのまま削り出したと思われる素朴な丸テーブルとスツール、簡素な食器棚に木製の食器類、調理用と思われる石積の勘弁な台、石と土とで造られた簡易な竈がある。竈の上には換気口が設けられており、煤で黒く染まっている。食器棚の傍らには薪の束が積まれており、これを火を熾した竈にくべて炊事を行うようだ。一見しただけでは水回りを確認できない。

 階段昇り口の隣には、外に繋がるドアがある。ドアを開くと、木漏れ日が降り注ぐ森の只中であった。素足で草を踏み締めながら、数歩前に歩み出る。森を抜ける微風そよかぜが、爽やかな木々の薫りを運んでくるようだ。背後へ振り向くと、そこにはドアと窓がある巨木が聳え立っていた。どうやら、これこそワシが眠っていた“建物”であり、巨木をくり貫いて中に部屋を拵えた“家”であるようだ。

 ワシは家……恐らくは自宅……である巨木の周りを歩いてみた。巨木は、鬱蒼と繁る木々の狭間の少し開けた場所に立っており、その傍らに澄んだ水を湛える小川が流れている。出入口となるドアの反対側には小川の一部が流れていて、その周りは少し窪んでおり、川の対岸に向けて巨木から突き出した太い根が屋根のように川の上を覆っている。屋根のような根の下はささやかな淵となっており、水浴びをするには丁度良さそうだ。恐らくは、ここに水回りを集約しているのだろう。もし外部からの視線があっても、張り出した根がそれを遮ってくれる。

「さて……」

 ワシは根の下の淵に降り立ち、亜麻布リネン地の寝間着を脱いで窪みの縁に置いた。一糸纏わぬ姿で川に入り、両手で水を掬って背中を流す。柔らかな冷水の感触に、眠気も洗い流されていくようだ。

 睡魔が頭から立ち去ったのを確信したワシは、再び、件の夢に意識を向ける。

 “ブラックホール”という名の極大重力源、星の海を航行する船に乗って“球状の穴”の底へと墜ち逝く“自分”、最期を悟った己が目撃した、脳髄が熱暴走してしまいそうな恐るべき光景と啓示……例え夢であるとしても、余りにも現状から乖離し過ぎている。そもそも、こうして息をして立っている以上、ワシは死んでいない筈だ。夢は過去の経験から来るものであるから、死んでいない筈のワシが死に逝く“自分”の見た光景を夢見る筈も無い。しかし、それにしては余りにも現実味に溢れている夢だった。まるで、本当にその光景を目撃してきたかのように、あの夢は現実感にまみれていた。

 矛盾……そう、矛盾だ。生きている者が死んだ己の夢を見るという矛盾、今の現実から見れば余りにも現実離れした、だが現実感に溢れる夢という矛盾……ワシは頭蓋骨の内側が熱されているような感覚を覚える。どうやら少し考えすぎたらしい。

 ワシは川縁に突っ伏して頭を川に突っ込み、考えすぎに起因すると思われる気だるさを洗い流そうと試みた。頭頂部から余分な思考が流れ出ていく気がする。まるで耳が洗われているような、少々くすぐったい感触……ちょっと待て。

 本来ならば顔の側面にある筈の感覚が頭頂部から来ている……間違いなくそれは耳の感覚だ。ワシは急いで水面から頭を上げ、両手で頭頂部を触ってみる。

「これは……濡れてはいるが細やかな毛が生えていて……この形は……獣の耳?」

 ふと水面に目を遣ると、波紋が消えて水鏡となった川面に己の姿が写し出される。

 白銀の長髪に、狐目で紫の瞳の幼顔、色白で透明感のある素肌、華奢で小柄で貧相な体つき……そして、頭頂部から生える狐のそれに酷似した耳。それに、同じく狐のそれと同等な尻尾が背後に見え隠れしている。耳と尻尾に生えた毛は、髪と同じ白銀色。背後に手を伸ばして尻尾に触れてみると、それは腰の直下、尾てい骨の部分から生えていて、多少濡れてはいるがフワフワとした豊かな毛を持ち、触れていると妙にこそばゆい。尾てい骨周りをそっと撫でられた時と感覚的には似ている。

 夢の中の“自分”とは、大分異なる容姿だ……いや、眼の色こそ違うが狐目で幼顔というのは共通しているし、“貧相”と言われても仕方ない程に平坦な身体つきも同じだ。少し残念ではあるが……

 ……夢の中で見たのとは大いに異なる容姿を持つ“自分”……“亜人デミ・ヒューマン”と呼ばれて差し支えないようなこの姿……己が何者であるかという問いに対して、未だ多くの謎が渦巻いたままである……

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