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昔、と言ってもたかだか十年前のことなのだけれど。わたしはひとり家族と離れて、■県南部に位置する空の宮市に住んでいた。
あまりおおっぴらに口外するようなことではないのだが、当時わたしの家庭は少しばかり複雑な事情を抱えていて、わたしはそこに居続けることができなかった。だから。わたしは家を出て、その街にある寮制を置いている女子校の、学生寮に入っていた。
中等部と高等部が併設されているその学園に於いて、寮は中等部菊花寮、中等部桜花寮、高等部菊花寮、高等部桜花寮の四つに分かれており、わたしはその中の一つである高等部桜花寮に入寮していた。桜花寮は優秀な生徒が集まる全室個室の菊花寮とは違い、わたしのように凡庸なその他大勢の生徒が集められた場所だった。一室の広さは菊花寮とさほど変わらないのに、桜花寮は全室が二人一部屋になっていた。中は窓の手前に備え付けになっている背中合わせの勉強机と共用のクローゼット、トイレ、そして二段ベッドがあるだけのいたって簡素なものだった。どの部屋も多かれ少なかれ同じような作りになっていた。だからだろうか。入寮している年頃の女の子たちはそんな部屋での生活を少しでも快適にしようと常に苦心していて、ぬいぐるみやら小物などを置いて見栄え良く飾り立てていた。
大概の部屋の壁にはジャニーズのアイドルや若いタレントのポスターが貼られていた。猫や犬の写真を貼っている子もいた。自意識の高い子は、自撮りした写真を貼ったりもしていた。そしてどの部屋にも思春期特有の女の子の甘い匂いが漂っていた。少しずつ組成は違っていても、それらすべては少女たちの体臭とコロンとお菓子の織り成す匂いだった。
ううん、違う。違うのかもしれない。あるいはそれら自体こそ、少女たちを形作っていた何かだったのかもしれない。女の子はなにで出来ているの、と愛らしく語りかけるマザーグースの歌みたいに。
しかしわたしの同居人は可愛らしく飾りつけられたすべてのこまごまとしたまがい物を好まない質だったし、形だけの存在なんていっそ唾棄すべきものだと考えていたし、わたしも別にあってもなくてもどうでもいいものなら最初からお金の無駄だと思っていたから、入寮して三ヶ月が経った今でも部屋はモルグのように静かで無臭でシンプルだった。
わたしはよくその寮の窓から中庭を見つめていた。大きな欅の向こう側の、芝生の先。掲揚された校旗がはたはたと風にたなびいているのを飽きることなく見つめていた。六芒星の中央に百合が描かれたその校章を眺めていると、わたしにはそれが、閉じ込められた少女のメタファーとして存在しているように思えてならなかった。そして、旗の中の小さな百合を見つめて確かに感じていた。
あの花はわたし自身だと。
高校生最初の夏休みが間近に迫ったこの時期になっても、わたしは馬鹿みたいにそう思い続けていた。
「ねえマイク。いつもいつも、いったい何を見ているのです?」
わたしは振り返って同居人を見つめた。同居人は飲みかけのコーラが入ったペットボトルを片手に、不思議そうに首を傾げていた。彼女はわたしをマイクと呼ぶ。初対面のときに松木です、よろしくお願いします、と挨拶をしたら渾名がマッキーになり、それがいつの間にか気づくとマイクになっていた。どう考えても女の子の渾名じゃない、と思うのだけれど、彼女はその渾名が殊の外気に入っている様子で、寮の外でもお構いなしに、わたしをマイクと呼ぶ。おかげで恥ずかしい思いをすることもしばしばだった。
「それとも、あなたは夢見るアリスちゃんなのですか?」
……誰が夢見るアリスちゃんだ。
わたしは彼女に聞こえるようにため息をついて、勉強机に肘を載せた。
「別に。何も見てないです」
「別に何も? あはっ、coolですね。あたし、あなたのそういうところ好きですよ」
彼女が笑うと、うなじの後ろで二つに結わえた長い髪が、さらさらとゆれた。ツインテールにするために結んでいるリボンはとても美しい光沢の絹で、まるで原初の夜の帷のように、深い紫紺で染められていた。それは彼女の明るいブラウンの髪の色と調和して、美しく映えていた。
彼女が着ている白いレースの縁取りに、トーションがふんだんにあしらわれたリボンと同色のルームウエア用のワンピースも、同様に絹織りなのだろう。こちらもやはり生地の光沢が美しい。つやつやと陽の光を受けて輝いている。まるで貴族の令嬢を見ているようで居た堪れない。いったいいつの時代からやってきたのかと思ってしまうほどだが、本人は至って真面目なのだ。そしてそんな髪型やら服装やらが、憎らしいくらいに彼女にはよく似合っていた。
「学校がお休みだからって、だらけていてはダメですよ。そのボサボサの髪もいい加減どうにかしないと」
別にだらけていたわけじゃないけれど、傍目から見たらぼーっとしていたことには変わりがないから。わたしは口を噤んで黙っていた。彼女はコーラを一口飲んで小さなおくびをした。そして何も言わないわたしに向かってやれやれといった感じで首を振って見せた。やれやれと言いたいのはこっちの方だった。
わたしは彼女と自分の髪を見比べてみた。わたしは猫っ毛で、そのくせ髪は伸ばし放題で、そのうえ面倒くさくて手入れなんてほとんどしていなかったから、この元気で屈託のない同居人からは「まるで魔女みたいです」とよく呆れられていた。
「マイクも一口飲む?」
「……先輩」
「No.……何度言ったらわかるのです? マイク、あなたはあたしの同居人なんですから。ちゃんと名前で。Your all right?」
それを言ったらマイクだって本当の名前じゃない。そう抗議したかったのだけれど、
「あーちゃん」
わたしは渋々彼女の名前を呼んだ。なんで先輩をちゃん付けで呼ばなきゃならないんだ、と理不尽に思いながら。
あーちゃんこと南アリシアは、「Very well done!」と上機嫌に叫んで破顔し、わたしの頭をいつもみたいにいい子いい子と撫でるのだった。
わたしが住む桜花寮は、基本的には同学年の生徒が同室になるように部屋割りが組まれている。一年生は一年生同士、二年生は二年生同士というように。けれどもアリシアの同居人が去年の冬に病気療養のために退寮してから、彼女はこの部屋に一人で住んでいた。中等部にはアリシアの妹——確かロゼと言っただろうか——がいるのだが、さすがに中学生との同室は認められなかったらしい。そこでその部屋に同室者として充てがわれたのが今年入学してきたわたし、松木桜だった。最初は二年生との同居ということで緊張していたのだけれど、三ヶ月も一緒にいれば嫌でも慣れてしまった。ただわたしはこの小柄な、イギリス人とのハーフであるアリシアの人懐っこさには、未だに慣れることができずにいた。
もうこれ以上髪に触れられたくなくて、アリシアの手から逃れるようにわたしは席を立った。アリシアは残念そうに手を引いて、わたしを見上げていた。
「マイク、あなた本当は可愛いのに。もったいないです」
そして少し寂しげに、わたしを見つめて笑うのだった。
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