Qui écraser la pêche? 〜誰が桃を潰したの?

月庭一花

 わたしは27歳で、そのときニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの一角にいた。LGBTQに寛容なこの街には観光客が多く集まる有名なゲイ・ストリート——本当の名前の由来は違うらしい——があり、このときも今週末に行われるパレードの準備で賑わっていた。くすんだ見窄らしいアダルト・グッズを商う店の前にも、真新しいレインボーフラッグが初夏の風にゆれていた。

 わたしの隣でユィが何か小さな声で呟きながら、髪をかきあげたのが横目に映った。視線を何気なく彼女に向けたとき、ふと気づいた。いつも見ているはずなのに、見慣れていたはずなのに。雨の耳の形がとても美しかったことを。わたしは彼女の耳の美しさを改めて感じていた。そしてそれは透明な湧き水のように、そっとわたしの心の隙間に入り込んだ。雨の耳を縁取る産毛は傾きかけた西日に晒されて金色に光っていた。

 わたしは彼女の耳を最初に見た日のことを思い出していた。照れくさそうに髪をかきあげた手が、小さく震えていたのを思い返していた。そこはわたしたちの行きつけのバーの、暗いスツールの上だった。

 雨にあなたが好きなのだと告白されたとき、わたしは少々面食らった。そして戸惑いつつも、けれどはっきりと、


 わたしは誰も好きにはなれないけれど、それでもいいなら付き合いましょう。


 と答えた。

 雨は首を傾げて、誰もってどういうこと? それともあなたはアセクシャルなの、と訊ねた。わたしはコースターの上にグラスを置いて、小さく首を振った。違うと思う、と。

 わたしの動きに合わせて、耳に吊るしたアメシストのピアスが小さくゆれた。

 彼女はマッチを擦って火をつけるくらいの時間考えてから、わかった、今はそれでいいわ、と小声で言った。付き合うって言ってくれたってことは、少しは脈があるって思っていいんでしょう? 大丈夫。いつか必ず好きって言わせてみせるわ。そう言って少し寂しげな笑みを浮かべた雨の顔が、人種すら違うのに昔のルームメイトとよく似ていて。好もしくて。以来、わたしは彼女と一緒にこの街で暮らしている。

 わたしたちが流れ着いたニューヨークという街は、不思議な場所だった。住んでみればわかる。この街には特有の匂いがあるのだ。それは住み着いてみた者でなければわからない、ある種の共感作用のような、不思議な何かだった。揮発したアルコールのように空気中を漂いながら、それはわたしたちに向かって静かに、けれども確かに語りかけていた。

 アメリカにおいて、そして人種の坩堝たるここニューヨークにおいてすら、移民やアジア系の人種に対する偏見や差別は未だに根強いものがある。けれどもこの街には、LGBTQのいずれかだと知れると、心を開いてくれる人が少なからず存在する。わたしたちはそれが気に入ってこの街に住み着くようになったようなものだ。もっともそんな幸運は偶さか訪れるだけで、嫌な思いをすることの方が明らかに多いと雨は零しているけれど。それでもわたしには、この街の匂いの中に身を置いている方が、少なくとも日本にいるよりは居心地がいいと思えるのだった。

 ぼんやりと物思いに浸りながら雨の耳を見ていると、不意に何か大きな声が聞こえて、わたしたちは慌ててそちらに目を向けた。見ると顔見知りのゲイの男の子が目を怒らせ、中指を突き立てながら通りの向こう側を睨みつけていた。その視線の先にはプラカードを持った一団がいた。どうやら今度のパレードに反対している保守系キリスト教団体の抗議活動のようだった。彼らが手にしたプラカードには、色々な国の言語で書かれた文字が躍っている。わたしにわかるのは英語とフランス語とドイツ語だけだったけれど、そのどれもこれもが同性愛を非難するものだったから、きっと他のプラカードの文面も同じようなものだろう。

 わたしの隣で雨が顔を顰めていた。わたしも水を差されたような気分で彼らを見つめ、そして、


 〝Qui sont les écrasa un péché?〟


 と書かれた一枚のプラカードを見つけて、

 瞬間、

 自分がどこにいるのかわからなくなった。今がいつなのか、わからなくなった。

 神様。

 と思った。

 わたしの罪がわたしを追ってきたのだ。

 と思った。

 青ざめた顔で立ち尽くすわたしを、雨が首を傾げて、不思議そうに見つめていた。

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