わたしがアリシアとのあれやこれやの話をすると、桃さんはくすくすと笑った。それはまるで銀の鈴が転がるように、狭いリネン庫に優しく広がっていった。甘く、とろけそうな声だった。

「笑い事じゃないです」

 そう言って抗議したはずのわたしも、桃さんの笑顔を見ていたら自然と笑みがこぼれた。

「ごめんね。でも、ずいぶん仲がいいのね」

 わたしはびっくりして、そうですか、と訊ねた。

「あなたにはそのくらい世話を焼いてくれる子の方が、同居人としては向いているのかもしれないわね」

 そうだろうか。わたしは釈然としないまま、入所者の衣類を手早くたたみ、明日のお風呂の準備を続けた。誰の衣類かが一目でわかるように、一つずつ衣類の束にタグを取り付けていく。

 ちらりと彼女を盗み見ると、ポロシャツの上のわたしとは比べ物にならないほど大きな胸元に、藍澤桃と刺繍が施されている。

 わたしはじっと彼女の胸を見つめ、わたしも早く、ポロシャツに自分の名前の刺繍が欲しい、と思った。

 わたしが通う星花女子学園は、天寿というとあるコングロマリットがその経営母体となっている。わたしがこの学園に入学を決めた理由は寮があることもそうなのだが、もう一つ、天寿から出ている奨学金の潤沢さにもあった。だいたいわたしの成績では他の学校の奨学金なんて、到底もらえなかったと思う。けれども星花なら審査も甘く、もらえる金額の量も多かった。それに加えて天寿の系列企業や施設に限り、アルバイトが特例的に許可されていた。それが奨学金返済の一部免除に繋がっていたこともわたしには嬉しかった。

 当時のわたしがアルバイトとして勤めていたのは、空の宮市の北西にある、星川の郷という重度の発達障害児の入所施設だった。空の宮市と天寿の共同出資となっているこの施設で、わたしは介護業務の助手をしていた。もっとも、わたしの仕事など衣類の整理や患児の遊び相手くらいで高がしれていたのだけれど。しかしここでの就業期間が実績として認められれば、いずれは介護関連の資格を取ることだってできた。それはそのときのわたしが喉から手が出るくらいに欲しいと思っていた、生きるための実弾だった。親からの援助もなく、見放され、すべてを自分のお金で遣り繰りしなければならないわたしにとって、それは未来に繋がっている確固とした生きる術だった。

「桜ちゃん、手が止まっているわ」

 桃さんに声をかけられて、わたしはハッとした。

「それに、その……あんまり胸を見られるのは……」

 見ると桃さんが恥ずかしそうに、頬をピンクに染めている。わたしも耳まで真っ赤になって、口の中で小さくごめんなさい、と呟きながら、慌てて手を動かし始めた。

「わたしにもできるかな」

 しばらくしてから発せられた桃さんの呟きに、わたしは何がですか、と訊ねた。

「共同生活、というか……誰かと一緒に住むってこと」

「そんな予定があるんですか?」

「んー、まあ、ね」

 曖昧な、それでいてはにかんだ笑みを浮かべた桃さんは、とても綺麗だった。わたしはその見知らぬ誰かに、少しだけ嫉妬した。

 わたしが彼女に惹かれたのは、偶然と、そして単純な理由からだった。

 あれはわたしがアルバイトを始めてすぐだから、四月の中頃だっただろうか。右も左もわからなかったわたしに、施設の職員たちの目は冷ややかだった。当たり前だ。身体や精神に発達の遅れを持った子供たちが相手なのだ。一歩間違えれば取り返しのつかないことになることだってありえるのだ。誰が一介のアルバイトの——それも素人の——女子高生の手を必要だなんて思うだろう。そんな中にあって、桃さんだけがわたしに優しくしてくれた。いろいろな手順や注意事項をまとめて、ノートを作ってくれた。ノートの表面には漫画タッチの絵が印刷されていた。それは女の子が難しい顔をして、腕組みしている可愛らしい絵だった。女の子の足元には潰れた桃が落ちていて、そして吹き出しには、


「Qui écraser la pêche?」


 の一言が。

 わたしはじっとそのノートの表紙を見つめていた。それは質感の良い外国製の物で、書かれているのはフランス語かな、と思ったけれど、意味まではわからなかった。

「これね、誰が桃を潰したの、って書かれているんだって。えーとね、わたしの名前も桃だし、覚えてもらい易いかなって。これからよろしくね、桜ちゃん」

 そう言って笑った桃さんの少しだけ恥ずかしそうな顔が、今でも目に浮かぶ。

 わたしはその笑顔に一瞬で心を奪われてしまった。けれどもその感情が恋だったのかと問われれば、今も昔も違うと答えただろう。そんなものではなかった。もっと純粋な形の思慕だった。わたしは彼女の中に、失ってしまった母の愛情のようなものを、少しだけ感じていたのだと思う。

 その日の仕事が終わった帰り道。桃さんが途中の自販機で飲み物をおごってくれた。わたしは無意識に、ペットボトルのコーラのボタンを押していた。桃さんが選んだのは缶のミルクティーだった。二人並んで飲み物を飲みながらバスを待っているとき、不意に桃さんがわたしに向かって訊ねた。

「桜ちゃん。あなたは恋をしたこと、ある?」

 恋。……恋?

 わたしは何を言われたのか咄嗟にわからなくて、ただ桃さんの顔を見つめていた。初夏の生暖かい風が吹いていた。夕闇の中で彼女の髪がさらさらとゆれていた。バス停のある星川沿いの土手には、早咲きの向日葵の花が綺麗に咲き誇っていた。

 わたしは少しだけ考えるふりをして、したことないですね、恋なんて、と答えた。頭の片隅に一人だけ浮かんだ人物がいたけれど、わたしはそれを例外として除外することにした。

「どうして? 桜ちゃん、可愛いのに」

「可愛くないですよ」

 わたしは自嘲しながら呟いた。

「わたしを好きになってくれる人なんて、いませんよ」

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