第4話 偽り

良く晴れて、遠くの山裾に入道雲がかかっている夏空。田畑は絵の具を垂らしたかのごとく深緑が広がり、東京ではまずこんな風景見られない、と普段生活をしている住宅密集地帯を思い浮かべる。


それにしても…

「あっつい…」

8月。照りつける日差しにうんざりする。

お盆シーズン。私は母が倒れた時以来の長期の休みをもらい、お見舞いのため群馬県まで出向いていた。

母の病院は駅からタクシーで8分。歩けば30分。にも関わらず私は『歩くのに疲れたらタクシーでも捕まえればいいか』などという甘い考えでこの酷暑の中歩いている。こんな田園風景広がる道に流しのタクシーが一台も走っていないとは考え及ばなかった。


「なんなの…本当…」


上気した肌から汗が吹き出し、べったりとひっつく。サラサラ生地のカットソーを鬱陶しげにはためかせて、東京を出るときに旦那である翔真と話した時のことを思い出す。


「群馬は暑いから、気を付けて」

「はいはい、毎年ニュースでやってる」

「くれぐれも駅から歩こうなんて思うなよ」

珍しく忠告めく彼の言い方に違和感を覚える。

「高崎や前橋ならいざしれず、病院の最寄り駅周辺には流しのタクシーなんて走ってないだろうから駅前で拾って乗った方がいい」


————まるで予言ね。

彼の話を真に受けず自分の勘を信じ、バチが当たったんだ、と舌打ちをした。


まるでシャワーでも浴びてきたのかというぐらい汗だくで病院に入ると火照った体を癒す冷気が肢体を包み込む。いくばくかの間、ロビーで涼んでいると外来受付の女性に微笑まれ、少し気恥ずかしくなって会釈する。


病室に入ると一番窓際のベットに腰掛ける母の姿が目に入った。枕を背もたれに上体を起こし書籍に目を落としている。普段忙しくて本を読む暇もなく働いていた母の密かな癖は、一度読んだ書籍を何度も読み返す事だと知っているのは私ぐらいだろう。恐らく今読んでいる本も私が差し入れで持ってきた推理小説。犯人が分かっている物語を読み返して何が楽しいのか、と読書を全くしない私は毎度ため息を付くことしかできない。

私に気付くとこちらに視線を送り微笑む。

眼鏡を外しながら

「良く来たわね」

と声をかけてきた。


まず始めに取り掛かったことは花瓶に花を生けること。花瓶は綺麗そのもので水滴一つついていない。


———母の見舞いに来る人などいない。


父と離婚し、親戚達とも疎遠。私達親子は二人三脚で生きてきた。それを辛いと思うことはあれど、不幸とは思わなかった。2人でも幸せに生きてこれたから。でも私に寄り付く人はそれを殊更“可愛そうだ”という目で見てきて、そして肌を重ねてきた。


『君はお父さんのような人を心の奥底で欲しているのだよ』


そういって近付いてきた男もいた。

母子家庭なんて今日日珍しい話でもないのに、それが鬱陶しく感じていながらその男との関係を続けた。

ただ、私に同情しない人も数少ないが居たことは確か。その一人が翔真。

彼も母子家庭だったことからシンパシーを抱いていたのだろう。彼の母親とは学校の父兄会などで何度が顔を合わせたことがある。女優さん顔負けの容姿に快活な物言い。自然とその人を中心に輪が出来る。でも決してそれを鼻につくように自慢はしない。当時の幼い私から見ても憧れの女性で、何故私の母は同じシングルマザーでありながらこんなにも違うのかと比較したこともあった。彼と付き合っていた際も非常に良くしてくれた。『義理のお母さんだと思ってくれていいのよ』なんて事を冗談半分に微笑まれ、恐縮した。でも私のことをそこまで言ってくれる事に心の底から幸せを感じたのは間違いない。だから彼と別れたときは自然と彼女との距離も置くことになった。私の母も同じように。

私達親子の会話に彼ら親子が出てくることは、不気味なほどにパタッとなくなった。


花瓶の手入れをして、買ってきたお茶菓子を摘みながら世間話。勿論、私たちの夫婦生活にも話は及ぶ。

「喧嘩してない?」

「してないわよ。しょっちゅう喧嘩してるような話し方だけど。」

「ダメよ、それじゃあ…」

と心配そうに眉をハの字にする。私達には私達のやり方があるの、と口を尖らすと今度は困ったように微笑む。

「でも、話せないほどに切羽詰まってる感じがしなくて良かったわ。」

「それは…まぁ。」

この関係は満更でもない、なんておくびにも言えなかった。母の治療費のために一方的にフった男と寄りを戻し、あまつさえ結婚するなんてどれだけの都合のいい女だ。せめてもの贖罪に、と彼の家の家事を買ってでているが、それも微々たる見返り。


「ねぇ、薫」


と母が問いかけてくる。


「家での翔真くんってどんな感じなの?」


そう聞かれて答えに窮する。──すごいつっけんどん、とはとても言える雰囲気ではなかった。私が反応に困っていると、


「大切にしてくれてる?」


と如何にも母親のような事を追撃してくる。ただでさえ昔付き合っていた頃のことを知っているのだ。母としても普段の翔真がどんな人か気になるのだろう。でも今の彼は決して母が思い描くような優しい彼ではない。


「まぁ普通よ。普通。」


私の気のない返事にも「ふーん」と嬉しそうに頷く。少しだけ罪悪感を覚える。


「翔真くんのことだからきっと表には出さないだけで嬉しくて仕様がない、って感じなのかもしれないわよ」


ふふふ、と笑う母の顔を見て、のんきな人だなと思うと同時にそういった事も言えるぐらい元気になったのだと感じた。そのきっかけがどうであれ、彼のお陰であることには変わりない。次からは少し優しくしてやるか、と心の奥で唱える。

その後も母との会話の大半は翔真とのことだったが、話していてある違和感を覚えた。

それは…

──彼が普段あまりにも過去のことに何も言及してこない、ということ。

母の、かつて私が彼と付き合ってた頃の話を嬉しそうに思い出して話す様子を見ていて、ふと思った。彼と再会してからかつて付き合っていた頃の事を彼が口走った試しがない。もちろん、別れたときのことなど思い出したくもないだろうから当然と言われれば当然だが、良かったこと、楽しかったことも一応ある。

ディナーに連れて行ってもらったことや夜中にドライブに出掛けたこと、プレゼントの話や写真の話など。時たま私が思い出して話すこともあったが、これといって会話が盛り上がった試しがない。その話を避けるというより本気で覚えてない、といったような生返事ばかり。そんな彼の反応を見て私も必然的に過去の話をするのは避けるようになった。


そんな事に思いを巡らしている内に窓の外が急激に暗くなっていることに気付く。まだ日が落ちるには早い時間だったことから、それが雨雲が立ちこめてきたと本能的にわかる。


「雨降ってきそうだからそろそろ帰るね」

「そうね、この季節だし強く降るかもしれないからその方が安心ね」


短い母との再会に後ろ髪引かれつつも立ち上がり急いで病室を後にする。

だが一足遅かったか、病院をでる直前でバケツをひっくり返したかのような雨がけたたましい音とともに眼前に降り注いできた。その光景は私の表にでる気持ちを十分に萎えさせた。どうやら私以外にも同じ事を考えた人がいたのだろう、病院のロビーには同様に立ち尽くす人と何人も居合わせた。病院の受付でタクシーの手配を申し出たところで配車には2時間以上かかると聞き私の気持ちは更に落ち込んだ。渋々母の病室に戻ると何事か察したのか手招きされるままさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。


「翔真ちゃんに迎えに来てもらったら?」


窓の外を見やる私に母が提案する。一切考えなかったわけではない案だったが、そんなこと今の翔真には期待できない。母になんて説明したら良いか頭を捻った。


「今日も仕事なのよ。だから無理ね」

「あらそう…連絡だけでも入れてみたら?」


翔真が迎えにきた時に彼の顔を一目見たいのだろうな、と彼女の思惑を察する。私は一つため息をつきつつスマートフォンをいじり“武川翔真”と記載された連絡先にメッセージを送った。

返事を待ちつつ雨が弱まるのを待っていると看護士が入ってきて母の夕食の準備をし始める。すると


「おや、まだ居たのですか」


聞き覚えのある声。母の主治医で翔真との間を取り持った張本人、武川雅仁。


「雨で足止め食らっちゃいまして。」


翔真との再会以前からこの男はどうにも掴めない、と今では警笛を鳴らす相手となっていた。


「それはそれは。駅までならお送りしましょうか。」


駅から遠い病院なのであれば無論、社用車や複数人乗りの送迎車があっても何ら不思議はない。私は警戒しつつも早いところ帰りたいという気持ちもあり、その提案にのろうとすると、


「翔真くんが迎えに来るかもしれないのよ」


と母が横から入ってきた。武川雅仁はその言葉に不意を付かれたといった表情を見せたが、すぐに余裕の表情になり、


「そうですか、それなら安心ですね」


と口の端を少しだけつり上げ笑う。その笑みは私が過去に見てきたような不気味なそれとは違い、相手に威圧感を抱かせないような朗らかなもの。

武川雅仁が病室を出る矢先、私に手招きすると、耳元でささやく


「彼、本当に迎えに来るんですか?」


事情を察しているのだろう、武川雅仁は翔真がどれだけ忙しくて、本来であれば今日も迎えに来れるような状況じゃないことを。私はまた一つため息をついて


「一応連絡はしてみました。返事を待ってから決めます」

「あまり遅くなるようなら特別にこちらで車両を手配するので何なりと言ってくださいね」


意外にも気が利くところもあるのだな、と感心していると武川雅仁は口の端をにやりとつり上げ、「武川夫人」と呟いて踵を返して歩き去る。

この男は…とその背中を睨む。そんなやり取りをしているなど露ほども気にかけていない母は看護士と談笑していた。


母が夕食を取り終える頃には時刻は夜6時を回っていた。雨は絶えず、その勢力を落とすことなく降り続けている。私はいよいよ病院に頼まなければダメかな、と思い始めていると自身のスマートフォンが明滅するのに気付く。手に取ると武川翔真の文字が画面に表示されていた。彼はメッセージに気付いて電話をかけてきたのだ。私は携帯を持って急いで病室を出る。


「もしもし?」

『もしもし、まだ病院か?』


私の抑え気味の声に気付いたのか、彼は声音を少しだけ落とした。


「うん、でもちょっとなら大丈夫。」

『後一時間ぐらいで病院に着く。』


その答えに多少驚く。


「え?迎えに来てくれてるの?」

『ん?頼んできたのはそっちだろう…』


そう言われて、確かにそうだが…とちょっとだけ罪悪感を抱く。


「仕事は大丈夫だったの?」

『丁度鳩ヶ谷で撮影が終わって現場で解散になったんだ。』


だから群馬まで時間はかからない、と話す。鳩ヶ谷というのが東京ではなく埼玉の地名であることを知らない私は何を言っているのかよくわからなかった。どうやら比較的群馬寄りのエリアに居たということだけは察しが付いた。


だがその時、私は何故だが、かつて彼と付き合っていた頃の事を思い出してしまった。──何も出来ない、してもらってばっかりの無力な自分を。


「ごめん、疲れてるのに。」


──惨めな自分は嫌だ。そう思うと翔真のことをとてつもなく鬱陶しくて感じる。


──頼んでおいて…最低だ。

沈黙の時間が流れる。


その後も電話は繋がりっぱなしだったが返答はなかった。

(私のこの性格に愛想を尽かして黙ってるんだろうな…)

スマートフォンの画面をみてうなだれた。電話を切って病室に戻る。


「もう暗くなるわね、翔真くんもう着くのかしら?」

「…うん。多分」


母は私の態度の変化に気付いたのか、どうしたの?という顔で頭を傾けてくる。話しても私が未熟であることを露呈するだけ。思い悩めば悩むほど私は私を追いつめていった。


しばらくすると病室に看護師が迎えの車が来たことを告げにきた。母は、またね、と私を抱きしめて送り出そうとする。


「翔真と会っておく?」


母が会いたがっていたことは明らかだったから恐る恐る提案するも、彼女は目を伏せ首を横に振る。


「あなたたちの関係に干渉するのも悪いわ。」


母の気遣いは時折私の思考を上回ることがある。


「さ、行きなさい。」


そういって私の背をたたいて送り出す。別れ際まで笑顔を絶やさなかった母だが、私はうまくその笑顔に答えてられていたのだろうか、と病室を出た後もずっと私は気持ちがすさんだままでいた。


武川雅仁は先に帰った、とのことで挨拶は出来なかった。病院を出ると、入り口前に止まったセダンの車に翔真は乗っていた。電話のことがあったからか私が乗り込んでも翔真は何も話そうとしない。

お礼の一つでも言えば良いのに言おうとすると言葉に詰まった。車は雨の中、ひたすら走り続ける。気付けば見慣れた都内の道を走っていた。このまま何も言わずに家についてしまうことに焦り、何か話題を出そうとするも、まるで何かが喉に詰まっているかのように何の音も発せなかった。

私の思いも空しく何の会話もないまま車は家の前に着くと彼はハザードランプをつけてサイドブレーキを引いた。どれだけ長い時間沈黙していただろう、まだ沈黙は続いていた。


「…降りないのか。」


漂う異様な空気を裂いて先に言葉を発したのは彼。なんで降りないんだ、と本気で思ってそうな口調で話しかけられ驚く。今にも、早く降りろ、とでも言い出しそうな雰囲気に怖じ気付く。


「何だ。何か言いたいことでもあるのか。」


いつものつっけんどんな彼の言い方にこの時は普段と比べ更に輪をかけてキツい印象を受ける。私は何とか声を絞り出して話す。


「母に…病室に来なかったね」

「あぁ、お義母さんにお疲れが出るだろうからな」

「普通だったから、顔ぐらい見せるんじゃない?」


さもそれが当たり前だろう、とでも言うように強気に告げる。母に一言挨拶がない、自分の大切な物を蔑ろにされた気分になって少しだけ声に熱がこもった。


「私達の関係は普通じゃないだろう。」

「普通に見せる努力をしないと疑われるじゃない!」


そう言って始めて自分が怒っている事に気付いた。それでも彼はムキになる私に一切表情を変えずに


「君の母親も雅仁さんも私達は仮面夫婦で、擬似的に仲良くしてるってことぐらい知ってるだろう。それとも母親の前でも俺と仲良しこよしの自分を作ってるのか?」

「そういう事じゃなくて…」


言葉に詰まる。彼の『母の前でも自分を作ってる』という言葉に何も言い返せなかった。


「自分だって作ってるじゃない。誰しも人によく見られたいと思うものでしょ。」


言葉を発すれば発するほど熱がこもる。翔真と言い合いをするなんて過去にも無かったことだった。


「そうだな。俺は家族だけでなく誰の前でも自分を偽ってる。君の言ったとおりよく見られるためだ。だけどお前の前では…偽ってない」


彼はそういうと停まったままの車のハンドルを強く握りしめる。最後の言葉に私は不意に肩すかしを食らったかのように返す言葉が出てこなかった。


「じゃ、じゃあ何で車んなかでずっと黙ってたのよ」

「え、疲れてるからに決まってるだろ。お前もそれを察して話しかけて来なかったんだろ?」


私のやり場のない怒りをスルリスルリとかわされ、とうとうため息をついてしまう。


「もういいわ…送ってくれてありがと」

「あぁ」


車のドアを開けて降りるため荷物を持つ。


「疲れてるのに…無理させちゃって…ごめん」

「お前も同じだろ」


その言葉に思わずふりむく。彼は鼻で笑うかのように表情を柔らかくし


「ゆっくり休め」


そう言って片手を上げた。

車を降りた後も私はその姿が見えなくなるまで、ただ呆然と眺めていた。


この時はまだ、気付いていなかった。

彼が話した言葉の、本当の意味を。

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