第3話 再会

あれは丁度6月になった頃、梅雨独特のジメジメした空気が身体中にまとわりつくような日だった。私は1人都内のホテルのラウンジに座っていた。外に比べて中は快適。でも期待して頼んだロイヤルミルクティーは今はすっかり冷めてしまっている。それ以上にこれから私を待ち受けている出来事を思うと冷めたロイヤルミルクティーでも飲んでいないと落ち着かないぐらい気分はジメジメしていた。


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「じゃあ6月最初の日曜日に。」


そういって電話は切れた。

倒れた母の主治医・武川雅仁は私と彼の甥っ子である武川翔真とのお見合いの席を着々と進めていた。武川翔真は母の主治医の甥っ子である前に、私の幼馴染。そしてかつて付き合っていた──、いわゆる“元彼”である。もちろん母もよく知っており、当時付き合っていた頃はよほど嬉しかったのか、いつもニコニコしていた。


私は家で気の進まない彼との再開に着ていく服を見繕っていた。程なくしてまた電話が鳴る。出ると入院中の母からだった。


「長野さーん、病室では通話は控えてくださいね」

『意地悪ね。お見合いを控えた一人娘のことを心配してかけてあげたのに。』


母の声はどこか楽しそうだった。あの時みたいにニコニコしていることだろう。倒れて以降元気がないのが悩みの種だったが、群馬の病院に転院して治療を再開してからみるみる回復しており胸をなで下ろしたが、私の悩みの種は尽きない。


「大丈夫よ。」


母に余計な心配をかけまいと思って出た言葉は、そっくりそのまま私を鼓舞する言葉になった。


「やぁね、心配したのはあなたが翔真ちゃんに失礼しないかって事よ。」


その言葉にうんざりする。母の中では私はまだワガママ娘という印象なのだろう。親子二人三脚で生活してきたのにと私は内心悪態を付いた。


「そんなことしないわよ。準備しなくちゃいけないから切るよ。」


そういって通話を終わらせようとすると


「待って。あなたに言っておきたい事があって…」


母の言葉に指を止める。このところ意味深な言い方が増えた、と心がざわつく。


「どうしても嫌なら…」

「ママ、もういいから…」


母が口走ろうとした言葉を引き取り電話を切った。母がなんて続けたかったか想像できない私ではない。言われれば言われるほど気持ちが萎える。彼との結婚を考えただけで胃が痛くなる。でもこれが今私にできる最善の選択なんだと自分に言い聞かせる。私はあの時から何も変わっていない。そう思うと服を選ぶ手が止まってしまった。


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当日、結局悩んだと言うより最初に決めていたコーディネートで再会することにした。桜色のスカートに白のブラウス。黒のジャケット。地味だがジメジメした季節にはこれぐらいが調節もしやすい。バレエをしてた事もあり、脚には人並み以上に筋肉がついてしまっているので誤魔化せるように丈は長めを選んだ。

予定した時間から1時間ほど経った頃、武川雅仁が福島の民芸品赤べこのように首をなんども上下させながら戻ってきた。


「ちょうど今ロビーに入ってくるところみたいです。」

「…はい。」


そう言って武川は三つある椅子のウチ、私に近い位置にある椅子に腰掛ける。注文を取りに来たウェイターにコーヒーを頼んでいるとロビーの方からスラッと背の高い男性が目に入る。最初誰だかわからなかったが、注文を終えた武川があげた声にハッとなる。


「翔真くん。こっちこっち。」


翔真、と呼ばれた人物は声の主をその目で認めると同時に、隣に座る私に目を移す。無論、私も彼のことを見ていたのでバッチリと目があう。その瞬間、彼はまるでおばけでも見たかのように顔の表情がなくなった。


「翔真、久しぶりね」

「…薫。」


私は椅子から立ち上がり彼に向かって一礼する。彼は立ち止まったまま私の名前をつぶやいた。


「翔真くん、ごめんね、急に呼びつけちゃって。何か飲む?」


良い意味で空気を読まないといった具合に武川雅仁はメニューを開いて彼に見せる。文字通り恐る恐る近づいてくる翔真は表情を強張らせたままメニューを受け取る。先ほど注文を取りに来たウェイターが武川雅仁の注文したコーヒーを持ってきつつ翔真の注文も受けていた。武川雅仁がコーヒーを一口つけると口火を切った。


「要件、言わなくてもわかってるみたいだね」


そういって口の端を釣り上げる武川雅仁に心底怪訝そうな視線を向ける翔真。


「さっぱりですね。」

「またまた〜」


私を置いてけぼりにする2人のやりとりはどこか牽制しあっていて家族関係には到底見えなかった。そういえば親戚とはいえ正月ぐらいにしか顔を合わせないと説明されたのを思い出していた。


「武川さん。私から話します。」


私がお願いすることになるのだから私から話すべきだ──、そう思い2人のやりとりに割って入る。こちらに向けられた視線に気圧されつつも用意していた言葉を放つ。


「翔真。折り入って頼みがあって私がお願いしたの。」

「…。」


彼は黙ったまま視線をそらすこともせず、まっすぐ私を見てくる。


「結婚を前提に私と付き合ってほしいの。」


まるで私の言葉で時が止まったかのように全ての動きが静止する。その中でも先に動き出したのは武川雅仁。


「翔真くん?聞いてた?」


その言葉に翔真は我に返ったかのように瞬きを繰り返すと眉間に更に深いシワを刻み呟く。


「冗談でしょう…」

「本気よ。」


私は間髪入れずに答えると彼は運ばれてきたコーヒーを受け取りつつ、そのまま口をつけた。私も冷めてしまったロイヤルミルクティーに手を伸ばす。


「私とこの人がどういう関係だったか知らずに私を寄越したわけじゃありませんよね。」


翔真はそう言って隣の武川雅仁を見る。自分のことを『ワタシ』と言う様は昔と変わらなかった。その言葉使いは実に丁寧だったが少しだけ怒気が混じっている。今まで感じたことの無い雰囲気を醸し出す。

もちろん———、そう返す武川雅仁に翔真は呆れた様子で


「だとしたら思惑が外れましたね。」


そういって運ばれてきたコーヒーをグイッと飲みきり机の上に伏せられた註文書の挟まったバインダーを手に取ると立ち上がる。武川雅仁が口をあけて声をかけようとする前に私も立ち上がって声を上げていた。


「お願い!話を聞いてほしいの…」


広いロビーに私の声が少しばかりこだまする。彼は上着を手に取り座るそぶりすら見せずにこちらを睨みつける。その目には強い恨みがこもっていた。


「生憎君と話すことは生涯ないと思っていたのでね、一方的に話すだけの相手がほしいなら私じゃなくても良いのでは。」

「…違う、違くって。…謝らせてほしい。」


そういって頭を下げる。ごめんなさいと何度も呟く。悔しさと不甲斐なさ、それと忍耐でする行動に心がギューッとなる。彼は平時『君』と言う事が多い。それは親愛から来るものなのか、必要以上に他人を近付けないためのものなのか、昔からの彼の癖。


「まんまとこの男に乗せられたな。」


その言葉に顔をあげると私に向けていた視線を座ったまま様子をうかがっていた武川雅仁に移す。


「何を企んでるんで?」


そう訪ねられた武川雅仁はかつて私に治療費の工面の話を持ちかけた時と同じように口の端をニヤリと曲げた。


「大切な甥っ子に幸せになってほしいと思ってるだけだよ。」

「…だとすれば見当違いも甚だしい。失礼しますよ。」


取りつく島もないとはまさにこのこと。私のことを一瞥もせず踵を返して歩いて行こうとする翔真に武川雅仁は声を発した。


「君が見当違いというならば、僕だけでなく親族一同見当違いをしたということになるね」


私にはその言葉の意味する事はわからなかったが、翔真は立ち止まった。振り返ることなく言葉を発する。


「だとしても、結婚など突拍子もないことを言い出すはずがない。」

「彼女が言ったとおり、『結婚を前提に』関係を取り持ってくれればいいだけさ。」


またもや私を置いてけぼりのやりとりを続ける。何の話をしているのか、目の前の2人を交互に見やることしかできなかった。


「これは我々からの厚意だよ、翔真くん。君が君で居続けるための」


そう言って武川雅仁は立ち上がり、翔真のもとへと歩み寄る。耳元で何か呟く様子が見て取れたが、具体的に何を話したかまでは聞こえなかった。


「じゃあ後はお若い2人で」


武川雅仁はそういって私に手を振り歩き去っていく。一体何が起きたのか、翔真は立ち尽くしたままだった。武川雅仁の姿が見えなくなってから恐る恐る翔真に近付く。


「翔真?」


脇から顔をのぞき込むように見ると彼は武川雅仁が出て行った正面入り口をジッと見つめていた。何故だかその顔が私が知っている“武川翔真”という人物とは全く違うような印象を受けた。


それからどれぐらい経っただろうか、彼は無言のまま席に戻るとウェイターを呼び、手早くクラブハウスサンドイッチとホットコーヒーをおかわりした。


「何か食べるか」


と不意に声をかけられ、私も同じのを──、と言ってしまい、数分後に豪勢なサンドイッチが二皿も運ばれてきた。彼はナプキンを膝に広げサンドイッチを手に取りもぐもぐと無言で食べ始める。私は食欲などほとんどなかったが何故だか彼の食べる姿に触発されサンドイッチを手に取った。


「ねぇ…」


恐る恐る声をかける。私の声に食べるのは止めず視線だけ送ってくる。


「あの時は、ごめんなさい。」


さっきまで呆気にとられていたせいで、何から話せば良いかわからないまま話し始めてしまい戸惑う。


「逃げたの…あなたから…。あなたは何でも出来てしまう人だから。私はあなたに何もしてあげられない。それが、どうしても耐えられなかった。惨めな自分を認めるのが嫌だった」


口から出てくるのは準備などしていなかった素直な気持ちだらけ。普段では口にしようとは絶対にしない。又、当時のことを思い出して少しだけ言葉に詰まる。


「でも今度は逃げない。あなたと、翔真と向き合う。」

「逃げないんじゃなくって、逃げられないだけだろう」


私の決意に彼は指に付いたソースを舐めながら鋭く口走る。その言葉尻から微塵も私を受け入れようとする気配は感じられなかった。


「そう。私は逃げられない。私達は…もう引き返せないの。だから力を貸して。」

「…私達ね。」


翔真はそう呟くと椅子に深く腰掛けて嘆息する。何事か考え込んでいる。行き場を無くしたサンドイッチが私の手の中で食べられるのを待っていることに気付くと、


「いいから、食べてしまいなさい。」


そう私に促す。その言葉を合図に私は目一杯かぶりつく。口の中いっぱいにサンドイッチの味が広がるが、残念なことに味はよくわからなかった。食欲もなくただ口に入れるだけの動作を繰り返す。


「そんなに美味しいか。」


彼の問いに答える暇もなくサンドイッチを頬張り続ける。同時に頬に伝う熱い物が止めどなくあふれる。なんで私がこんな悔しい思いをしなくちゃいけないのか、何度も何度も自答したが、答えは返ってこない。今必要な答えはそんなものではなく彼の一言だとわかっていたから。


結局、その日の内に私達の関係は進展することはなかった。お互いむさぼり付くようにサンドイッチを平らげ、少しだけ昔の話をした。具体的に何を話したかは覚えていないが、印象に残ったことと言えば、あまり私と付き合っていた頃の事を覚えていなかった。彼が気を利かせてくれたのか、そのことが少しだけ私の中の罪悪感を減らしてくれた。


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私は母のところを訪れていた。母が心配したとおり、彼に失礼を働いてしまったこと。その結果、結論は持ち越されたこと。私たちの人生の大半が治療費の返済に追われることになったこと。思い浮かぶ全ての事が重くのしかかると歩みも牛のごとく鈍くなった。季節はまもなく7月。暑さも本番に差し掛かっていた。


病院に着くと、ロビーで武川雅仁が待ちかまえていた。雰囲気は相変わらず野暮ったい。


「やぁ。あの後何の連絡もなかったから心配したよ」

「えぇ…厚意を無にしたと思うと連絡する手がどうしても…。」


そういって前を通り過ぎようとする。すると彼は私に一枚の紙を差し出す。すぐには受け取らず一瞥するも何だかわからない。細かく文字が並んでいる。


「何ですかこれ。」

「お母さんの治療費を工面する約束が書かれた書類さ。」


何のことを言ってるかすぐには理解できなかったが、思考回路をフル回転させ言葉を返す。


「武川さんが持ちかけた翔真との結婚の話はご破算になったんですよ。」


その私の台詞にニヤリと口をつり上げる。ここ、ここ、と紙の一点を指さして私に示す。そこには見たことのあるサインが書かれていた。


「この念書は翔真くんが送ってきたものだ。お母さんの治療費の一部を援助する事が記載されている。」


そう言われて始めて紙を手に取る。長々と文字が羅列する中に弁護士の名前も併記されていたが間違いなく武川雅仁の話したとおりの物だった。


「じゃあ…」


私が口を開くとその医者はため息をつきつつ


「結婚届がこんな形じゃ色気もへったくれもないね。」


その言葉に呆然としつつも、私は母の病室へ向かうため歩き出していた。武川雅仁は怪訝そうに私を眺めてきたが、去り際声をかけてくる。


「ご結婚おめでとうございます、武川夫人。」


ニヤリ、武川雅仁は何度目になるか気味の悪い笑顔をこちらに向けて歩き去っていった。


一体誰が望んだんだろう、そんな呼ばれ方を。


───武川夫妻の不都合な関係は、ここから始まった。

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