第2話 好みのお茶

良く晴れた日曜日の昼下がり。

窓から外を見ると遠くにあるビル群がハッキリ見える。

先ほど干したばかりの男性用衣類の洗濯物も程良い風にはためいて、

お日様をいっぱいに浴びている。


「この分なら夜までに乾くかな」


と部屋に入ってきた心地よい風が私の紺色めいた髪を撫でる。


地毛で一度も染めたことがないのが密かな自慢。

かつてヘアカットモデルにならないか、

と懇意にしていた美容師から言われた時も

『染めるのだけはやめて下さい』

と言ったことがあるほど、この髪の色を気に入っている。


夫婦生活を初めて4ヶ月ほど。

私達は未だ別々に暮らしている。

私は母の居ない実家で、彼は一人暮らし。

世の中の仮面夫婦並に、

もしくはそれ以上に私たちはそれぞれ別の生活を送っている。

だが一応夫婦という関係だからと、

週末だけは一緒に過ごす時間を作ろうと習慣づけたのが彼の家への“週一通い妻”。

理由はもちろん、両家の親族達に仲が良いことを示すため。

この生活を始めて間もない頃は夕食時のみ一緒に過ごしていたが、

母の病状を慮った私の勤め先から無理矢理仕事量を減らされ、

手持ち無沙汰になる機会も増えた。

その結果、日の高い内から彼の家を訪れ自主的に掃除などをしている。


「何か趣味でもあればいいんだけど…」


と独り言をつぶやきため息をつく。

私はこれまで人生の大半の時間を費やしてきたバレエに思いを馳せていた。

3歳の頃に始めた習い事がまさか仕事という人生において大きな要素になって、

『それが私の全て』

と思う程に膨れ上がるなんて子供の頃の私は知る由もなかっただろう。

それでも節目節目でカフェ巡りだったり、カメラだったり、

世の女子が手を出すであろう趣味は私も一通り通過してきたが、

どれも長続きはしなかった。


その原因はいつだって…、


「本当バレエしか無いんだなぁ…」


そう肩を落として窓の外を眺めた。


日曜日の昼下がりにもかかわらずこの家の主であり、私の主人でもある彼は不在。

現役のテレビ局員である彼にとって平日や休日という物は関係ないようで、

具体的に何をしているかは聞いても教えてくれないが、

私の想像を遥かに凌ぐ忙しさであることは間違いないようだった。


それこそ結婚当初、始めて彼の家を訪れた時、

何日も家に帰ってきていないような部屋の惨状に驚かされたのをハッキリと覚えている。

私の目から見てもしっかり者の彼だが、

テレビ局員の仕事というものはそういった人のルーティーンをも崩すほど激務で、

プライベートをこのような形で蝕んでいるのだなと感心した。


一通りの家事を終えると、

いつの間にか見慣れた昼過ぎの情報番組のテーマ曲が耳に入ってきた。


「あ、もうこんな時間か。」


と思い立ち夕飯の献立について思案する。

無論、夜には彼も帰ってくるので2人分。

いやいや、明日以降も疲れて帰ってきた際に温めるだけで食べられるモノ、

多少であれば保存が利いて、それでいて栄養が…、

などと考え、ハッとなる。

(別にそこまでして上げる必要…ないじゃん)

なんて物語のツンデレヒロインのような独り言に頭を振った。


夕飯の献立を考えている最中に以前カレーを作ったときのことを思い出した。

とりわけ喜ぶこともなかったが、

おかわりまでする食べっぷりに私が呆気にとられていると


「美味かった」


と一言。


本当に味わって食べてたのかと疑う私を後目に、そそくさと洗い物する姿に感心した。後日その話をバレエ教室の同僚達にすると

『いや、それぐらい当然だから』

と呆れ顔で言われたのも記憶に新しい。

しかしこれまで私が関わってきた男性達は一切そういったことをする素振りも見せなかったし、私もそれで良いと思っていた。

思い人に尽くしている時間は私が相手に必要とされているという実感を味わえる、かけがえのない瞬間だったから。


ただ私が気になったのは実は皆が気になった部分ではなく、彼の食べている最中の雰囲気。

数年前、当時付き合っていた頃、彼に一度だけご飯を作って上げたことがあったが、その時はよほど嬉しかったのか、彼は私が恐縮するぐらいに喜び勇み、お礼を言われ居心地が悪い思いをしたことがあった。

それから比べると今回の彼の反応の変わりようは私には意外に映った。


「なんだったんだろう…」


決して物足りない反応、というわけではなかったが、かつての事を想像すると今回も思いやられると思っていたので、なんだか肩すかしを食らったような感覚だった。


話は変わるが、彼の家にある物は好きに使って、飲み食いして良いと言われている。

テレビ、洗濯機、シャワー。

掃除機に電子レンジも。

そして彼の家にある珈琲や紅茶といった嗜好品も勝手に頂いている。


珈琲豆から自分で煎れるほどのコーヒー党な彼の家には紅茶なんて殆どなかったが、

この前来た時、綺麗に包装された缶入りの紅茶の茶葉を一つだけ見つけた。

『以前人からもらったものだ』

と言っていた通り手付かずの状態で置かれてあったその茶葉は、

封も切られておらず勿体ないな、と思って眺めていると


「好きに飲んでいいぞ」


と持ち主からの許可が下りたためお構いなくハサミを入れた。

ただ生憎彼の家にはコーヒーを入れる器具しかなかったため、日本茶用の急須で紅茶を入れるというなんとも色気の無い淹れ方をして飲んだ。

その様子を見て


「年寄りくさいな」


と珈琲豆を挽きながら彼は苦笑いしていた。


今日も家事という一仕事を終えた後の一杯を満喫していると玄関の方からガチャガチャと音が聞こえた。

憩いの時間が終わったと気づきため息を付く。


「おかえり」


そう、家の主に声をかける自分がヤケに新妻っぽくて少し気恥ずかしくなって、

今度からはやめよう、と目を細めた。

声をかけられた本人も億劫そうに扉を閉めつつ、こちらを一瞥すると


「あぁ…ただいま」


とさぞくたびれたといった感じで気のない返事をしてきた。

リビングにあるコートハンガーに上着をかけ、

三人掛け用の大きなソファに腰掛ける。


「早かったね。」

「ん…ああ。昨日から続いてて…」


私の声に彼は気の無い返事をしつつ目元を押さえる。

よほど目が疲れているのか、眉間の皺が深くなる。


「もうちょっと遅いと思ってたから夕飯これから作るところなの…。その前に何か食べる?」


私はそういうと台所へと向かう。

一拍あって彼は目元を抑えていた手を離して顔の前で手を振ると、


「いや、食べてはいるんだ。今は飲むものがほしい…」


そう言って目の前のテーブルに置いていある飲みかけの紅茶が入った私のカップに手を伸ばす。


「これもらうぞ。」

「…あ、それ」


私の飲みかけ…と言う間もなくあっという間に飲みきってしまい、口元を手で拭う。

既に半分ほど飲んでしまっていたので、喉が十分潤うか心配だったが、よほど喉が渇いていたのだろう、強ばっていた表情は少しだけ軟らかくなった。


「新しいの煎れるのに…もう…」


と呟きながら電気ケトルに水を張る。


「紅茶でいい?」


そう訪ねても返事はなかったので気にせず紅茶を煎れる準備を始める。お湯が沸くまで多少時間を要するのでカップを回収するため彼の元まで向かうと、彼はカップを持ったまま目を閉じ、肘掛けにもたれかかっていた。よほど根詰めて居たのか、安心しきった顔で既に寝息までたてている。その寝顔にため息をひとつ。


この不都合な関係になってからため息が増えたな、と思うとまたため息が出てきそうだったので今度はグッと堪えた。


すっかり日も暮れた頃、夕飯の支度が出来たと同時にノソノソと翔真は起きてきた。


「良かった、丁度起こしに行くところだったの。」


寝ぼけ眼の彼にそう告げると飛び跳ねた髪を掻きながら


「おう」


と気のない返事。

私は一人前の料理をテーブルに配膳してエプロンを外したところで


「なんだ、食べないのか?」


と声をかけられる。

彼に背を向けたままエプロンをたたみつつ


「もう遅いし、翔真も疲れてるだろうから1人になりたいでしょ。」


そういって夜8時を回ろうとしていた時計に視線を送る。


「そうか」


とポツリと呟いた彼の声から少しだけ寂しさを感じ取れた。


「じゃあ帰るね。」

「…あぁ、ありがとう」


彼がこの時もう一度声をかけてくれたら…、なんて淡い期待を抱きつつ、さよならを告げる。玄関先で振り向いた私に怪訝そうな顔を作った彼が


「どうした?」


とだけ聞いてくる。


「何でもない、ゆっくり休んで。」


その私の言葉に彼は


「飯食ったら仕事に戻る。」


と肩を落とした。


「え、お休みじゃないの?」


と尋ねると彼は渋い顔をして頭をかく。

テレビ局員というのは誰もかれもこうなのか、と目を丸くする。


「デジタルのプロジェクトも同時進行で進めててな。」


と珍しく仕事の話をもらした。

別れ際の玄関先でこうやって話す事は私達夫婦にとってよくあること。

昼間に帰ってきてもすぐに眠りについてしまう彼と出掛けることなんて滅多にないし、特段一緒に出かけたいとも思わない。


(誰か知り合いにあっても説明に困るし…)


だが不安を抱いていた彼との夫婦という関係は実際なったところで別段これといって私が心配したような事は何もなかった。その事実を私は寂しいと思っているのか、それともホッとしてるのかよくわかっていない。何といっていいかわからない感情がグチャグチャとない交ぜになって、少しだけ頭に熱が帯びる。


「大丈夫か?気をつけて帰れよ」


そんな私の様子を察したか、彼は多少心配した様子で私を送り出す。


「うん」


とだけ頷いて背を向けて歩き始める。この夫婦の関係を続けてさえいれば、母の治療費は解決できる。これまでの生活を続けていける。いつかそこに母が戻ってきさえすれば彼とも別れられてハッピーエンド。そう自分に言い聞かせて歩く夜道に吹き付ける風は少しだけ寒さを帯びていた。


翌週、小雨が降りしきる中、彼の家を訪れる。


「洗濯からやっちゃいますか。」


そういってベランダに置かれていた洗濯物干しを室内に取り込み雨粒を拭う。幸い雨足が弱かったこともあり、さほど付いていなかったので簡単に干す準備は整った。

その後、掃除機がけもそつなく終わらせると、洗濯機が止まるまでの間、一息つこうと紅茶が入った棚に手をかける。


(そういえばこの前来たときに殆ど飲みきってしまった…)


私の貴重なブレイクタイムが危機に瀕し、少しばかりガッカリしたが、ダメ元で棚を開けると中には真新しい紅茶の缶がすぐに視界に捕らえた。しかも2種類。手に取ると見慣れた銘柄ともう一つは始めてみる物だった。


「アールグレイとバニラブレックファースト…。」


置いてあった位置から推測するに私がすぐ気付くように戸棚の手前側に置いてあった事から翔真の心遣いを感じて少しだけ頬がゆるんだ。缶を開け茶葉を包装したビニール袋にハサミを入れフワリと漂う香りに気分が高揚する。家にあった使わなくなったティーストレーナーを用いて、茶葉を適量を広げる。電気ケトルでは難しいが沸騰しすぎないタイミングで電源を落とし茶葉全体に行き渡るようにお湯を注ぐ。ポイントはティーストレーナーをカップに密着させないこと。茶葉が十分にジャンピングすることを意識して満遍なく湯を行き渡らせる。陶器のカップに紅茶の色が広がるとともに先ほど嗅いだ芳醇な香りが鼻腔を撫でた。3人掛けのソファに腰掛け、いてもたってもいられずカップに口をつける。一口目で既に紅茶独特の味が口腔全体に行き渡る。私が江戸時代のお姫様気分であれば

『余は満足じゃ…』

と恍惚な表情を浮かべているところだが、グッと堪える。

それでも素直な気持ちは口をついて溢れた。


「うん…おいしい」


紅茶の熱が身体中に行き渡る。

でもそれ以上に心の奥の方に湧いて出た温もりの方が長い時間保っていた。

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